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073 : Franz Peter Schubert [楽興の時]

 

 

 

Franz Peter Schubert

 











 

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Franz Peter Schubert

 















 





シューベルト Franz Peter Schubert   (フランツ ペーター シューベルト) 1797131日(生)~18281119日(没)  

オーストリアの作曲家。ロマン派の代表的な作曲家の一人である。

特にすぐれた歌曲を数多く残したため、「ドイツ・リートの王(歌曲王)」とよばれる。

器楽のジャンルでも、室内楽や交響曲に現在もよく演奏される楽曲を残した。

18世紀の古典派様式に立脚し、19世紀のロマン派様式とを融合する役割をしたと考えられている。

 

  

 












 

生涯

      

誕生 

     

ウィーン近郊で生まれた。

メーレン(モラヴィア)にいたドイツ系の農夫の息子である父のフランツ・テオドールは教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツは結婚前ウィーン人家族のコックをしていた。成人したのは長男イグナーツ(1785年生まれ)、次男フェルディナント(1794年生まれ)、三男カール(1796年生まれ)、次いでフランツ、娘のテレジア(1801年生まれ)であった。

父はアマチュア音楽家で長男と次男に音楽を教えた。

フランツは第12子としてリヒテンタールで生まれた。 

フランツは5歳の時、父から普通教育を受け始め、6歳の時リヒテンタールの学校に入学した。この頃、父は末の息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めた。

フランツは7歳頃になると父親の手に余るほどの神童振りを発揮し始めたため、父親はフランツをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにした。

ホルツァーは主として感動表現に主眼を置いて指導したという。

仲間の徒弟たちはフランツの音楽的才能に一目を置き、当時演奏家として聴衆に注目されなければ作曲家としての成功の機会は無いという時代であったので、聖歌隊建物に隣接するピアノ倉庫にしばしばフランツを案内して、ピアノを自由に練習できるように便宜を図ってくれた。そのおかげで、貧しい家庭であればけっして触れられなかったような良い楽器で練習することができた。











 


 





コンヴィクト 

     

180810月、シューベルトはコンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学金を得た。

その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。

ここにシューベルトはおよそ17歳まで所属、ハイドンが聖ステファン大聖堂で得た教育と殆ど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かった。

献身的にシューベルトに尽くした友人達の多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun, 1788-1865)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル(Holzapfel)、その他多数の友人達が自分達の小銭で貧しいシューベルトを助け、彼には買えない五線紙を買って与え、誠実な支持と励ましを与えてきた。

また、このコンヴィクトでモーツァルトの序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会った。

一方、天才ぶりは作曲の分野で既に示しつつあった。

181048-51日の日付のある32ページびっしりと書かれた『4手ピアノのためのファンタジア (D1)』。

続いて1811年にはツムシュテーク (1760 - 1802) が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、『五重奏序曲 (D8)』、『弦楽四重奏曲 (D18)』、『4手ピアノのためのファンタジア第2 (D9)』がある。室内楽曲への想いが目立っているが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でのカルテット演奏の例会が行われていたからである。

後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものであった。コンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残し、また野心的な力を注いだのは、1812年(15歳)の母の葬儀用と言われる『キリエ (D31)』と『サルヴェ・レジーナ (D106)』(それぞれ合唱聖歌)、『木管楽器のための八重奏曲 (D72)』である。1813年には父の聖名祝日のために、歌詞と音楽からなる『カンタータ (D80)』を残した。学校生活の最後には最初の交響曲 (D82) が生まれた。  



















 

1813-1815 

     

1813年の終りにシューベルトは(変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったため)コンヴィクトを去り、兵役を避けるために、父の学校に初級生のための教師として入職した。

その頃、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。

およそ2年以上、シューベルトは自分の意にそわない仕事に耐えたが、伝え聞くには、非常に無関心に仕事をこなしていたようで、その代償を別の興味で補っていた。

サリエリから個人な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難をしてシューベルトを悩ませていた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。シューベルトはグローブ一家と親密に交際しており、そこの娘テレーゼは歌が上手く良い友人だった。彼は時間があれば素早く大量の作曲をしていた。

完成された最初のオペラ『悪魔の悦楽城 (D84)』と、最初の『ミサ曲ヘ長調 (D105)』は共に1814年に書かれ、同じ年に『弦楽四重奏曲』3(D46.D74.D87)、数多くの短い器楽曲、『交響曲ニ長調 (D82)』の第1楽章、『潜水者 (D77)』『糸を紡ぐグレートヒェン (D118)』といった最高傑作を含む7つの歌曲が書かれた。 1815年には更に豊穣な作品群が登場する。

学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出した。

『交響曲第2番変ロ長調 (D125)』が完成され、『「交響曲第3番ニ長調 (D200)』もそれに続いた。また、『ト長調 (D167)』と『変ロ長調 (D.324)』の2つのミサ曲、前者は6日間で書き上げられ、その他『ヘ長調のミサ曲』のための新しい『ドナ・ノビス (D185)』『悲しみの聖母 (D383)』『サルヴ・レジナ (D379)』、オペラは『4年間の歩哨兵勤務 (Der Vierjahrige Posten, D190)』、フェルナンド (D220)』、『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ (D239)[2]、『アドラスト (D137)』(研究により1819年の作曲と推定)、『バイデ・フロインデ・フォン・サラマンカ(サラマンカの友人たち)(D326)』(会話の部分が失われている)の5曲作曲された。

これらの他『弦楽四重奏ト短調(D173)』、『ピアノのための4つのソナタ(D157.D279.D459』、数曲のピアノ小品、これらの最盛期をなすのは、146の歌曲、中にはかなり長い曲があり、また8曲は1015日と7曲が1019日の日付がある。 

1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人ヨハン・マイアホーファー(英語版)(1787-1836)と知り合った。この出会いは彼の常であったが、間もなく温かで親密な友人関係に熟していった。

2人の性質はかなり違っていた。シューベルトは明るく開放的で少々鬱の時もあったが突然の燃えるような精神的高揚もあった。

一方マイアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男だった。

この友好関係は、後年見られるようにシューベルトに対してのみ一方的に奉仕するものであった。 




















 

1816 シューベルトの運命に最初の真の変化が見えた。

コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聞きなじんでいた、法律学生フランツ・ショーバー(1796-1882)がシューベルトを訪問して、学校での教師生活を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。

シューベルトはライバッハ(現在のリュブリャナ)の音楽監督に志願したが不採用になったばかりで、教室に縛り付けられている思いが強まっていた。

父親の了解はすぐに得られ、春が去る頃にはシューベルトはショーバーの客人となった。しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしたが、じきにやめて作曲に専念した。

「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成するとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていた。 

1816年の作品の1つはサリエリの616日記念祭のための『3つの儀式用カンタータ (D407)』、もう1つは『プロメテウス・カンタータ (D451)』、これはハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒達のためで、教授はシューベルトに報酬を支払った。

シューベルトは雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っている。

もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための『カンタータ (D472)』で、愚かな博愛の詩が歌われている。

最も重要な作品は『交響曲第4番ハ短調 (D417)』で《悲劇的交響曲》と呼ばれ、感動的なアンダンテがある。次いでモーツァルトの交響曲のように明るく新鮮な『「第5番変ロ長調 (D485)』、その他多少の教会音楽。

それらは先輩達の作品よりも充実し円熟していたし、更にゲーテやシラーからシューベルト自身が選んだ詩であった。

 この時期友人達の輪は次第に広がっていった。マイアーホーファーが彼に、有名なバリトン歌手フォーグル(1768-1840)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌った。

アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに最も奉仕し崇めていた。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタやファンタジーを演奏した。

ゾンライトナー家は金持ちの商人で、長男がコンヴィクトに所属していたことがあったことからシューベルトに自由に自宅を使わせていたが、それは間も無く“シューベルティアーデ”と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。

 シューベルトは完全に素寒貧だった。それと言うのも彼は教えるのは辞めたし、公演で稼ぐことも出来なかった。

しかも、音楽作品を只でも貰うという出版社は無かった。しかし、友人達は真のボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。

彼らは自分達の食事を分け合って食べ、金を持っている者は楽譜の代金を支払った。

シューベルトは常にこのパーティーの指導者であり、新しい知人が推薦された時に、シューベルトが「彼が出来ることは何か?」といういつもの質問がこの会の特徴を最もよく表すものであった。 





 





1818 1818年は、前年と同様に、創作上は比較的実りは無かったものの、2つの点で特筆すべき年であった。

1つ目はシューベルトの作品の最初の公演が行われたことである。演目はイタリア風に書かれた『序曲 (D590)』で、これはロッシーニをパロディー化したと書かれており、51日に刑務所コンサートで演奏された。

2つ目は、シューベルトに対する初めての公式の招聘があったことである。それは、ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごした。 この年の作品には『ミサ曲 (D452)』と『交響曲 (D589)』(共にハ長調)、ツェレスでの彼の生徒達のための一連の『四手のためのピアノ曲』、『孤独に (D620)』や『聖母マリア像 (D623)』『繰り言 (Litaney)』等を含む歌曲がある。秋にウィーンへの帰りに、ショーバーの所にはもはや滞在する部屋がないことが分かり、マイアーホーファー宅に同居することになった。

ここでシューベルトの慣れた生活が継続された。

毎朝、起床するなり作曲を始め、午後2時まで書き、昼食を摂った後、田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、或いはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問した。

歌曲の作曲家としての最初の公演は1819228日で、『羊飼いの嘆きの歌 (D121)』が刑務所コンサートのイェーガーによって歌われた。この夏、シューベルトは休暇を取って、フォーグルと共に北部オーストリアを旅行した。シュタイアーで「鱒(ます)」として有名な『ピアノ五重奏曲イ長調 (D667)』をスコア無しでパート譜を書き、友人を驚かした。

秋に、自作の3曲をゲーテに送ったが、返事は無かった。












 





1820年・1821 

     

1820年の作品には目覚しいものがあり、著しい進歩と形式の成熟が見られる。

小作品の数々に混じって『詩篇23 (D706)』『聖霊の歌 (D705)』『弦楽四重奏断章ハ短調 (D703)』、ピアノ曲『さすらい人幻想曲 (D760)』等が誕生している。

 614日『双子の兄弟 (D647)』が、また『魔法の竪琴 (D644)』が819日に公演された。これまで、ミサ曲を別にして彼の大きな作品はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定されていた。それは家庭での弦楽四重奏の奏者達から育って大きくなった社交場だった。ここへきて彼はより際立った立場を得て、広く一般に接して行くことが求められ始めた。

しかし依然出版社は極めて冷淡であったが、友人のフォーグルが(182128日)ケルトナートーア劇場で『魔王』を歌ってからようやくアントニオ・ディアベリ(作曲家・出版業者、1781-1858)がシューベルトの作品の取次販売に渋々同意した。

作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)がこの契約に従って出版された。その後この契約が終了し、大手出版社が彼に応じてごく僅かな版権を受け取り始めた。

シューベルトが世間から問題にされないのを生涯気にしていたことについて、多くの記事が見られる。それは友人に落ち度はなく、ウィーンの大衆に間接的に落ち度がある。最も非難されるべき人物は、出版する金を出し惜しみし、出版を妨げた臆病な仲介者である。

2つの劇作品を生み出したことを契機に、シューベルトの関心がより強固に舞台に向けられた。

 1821年の年の瀬に向かって、シューベルトはおよそ3年来の屈辱感と失望感に浸っていた。『アルフォンソとエストレラ (D732)』は受け入れられず、『フィエラブラス (D796)』も同じだった。『陰謀者 (D787)』は検閲で禁止された(明らかに題名が根拠であった)。

劇付随音楽『ロザムンデ (D797)』は2夜で上演が打ち切られた。これらのうち『アルフォンソとエストレラ』並びに『フィエラブラス』は、規模の点で極めて公演が困難であった(例えば『フィエラブラス』は1000ページを超える手書き楽譜であった)。しかし『陰謀者』は明るく魅力的な喜劇だったし、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲した中でも素晴らしい曲が含まれていた。




















 

1822-1825 

     

1822年にカール・マリア・フォン・ウェーバー、そしてベートーヴェンと知りあう。

両者ともにほとんど親しい関係にならなかったが、しかしベートーヴェンはシューベルトの天分を心底認めていた。

シューベルトはベートーヴェンを尊敬しており、連弾のための『フランスの歌による変奏曲(D624)』作品10を同年に出版するに当たり献呈している。

ウェーバーはウィーンを離れて不在であり、新しい友人が現れても望ましい人物ではなかった。この2年は全体として、彼の人生では最も暗い年月であった。

1824年春、シューベルトは壮麗な『八重奏曲 (D803)』『大交響曲のためのスケッチ』を書き、再びツェレスに戻った。

彼がハンガリーの表現形式に魅せられ『ハンガリー風喜遊曲 (D818)』と『弦楽四重奏曲イ短調 (D804)』を作曲した。 

舞台作品や公的な義務で夢中になっていたが、この数年間に時間を作って多様な作品が生み出された。『ミサ曲変イ長調 (D678)』が完成。1822年に着手した絶妙な『未完成交響曲 (D759)』が生まれている。

ミュラー(1794-1827)の詩による『美しき水車小屋の娘 (D795)』とシューベルトの最も素晴らしい歌曲の数々が1825年に書かれた。 

1824年までに、前記の作品を除き『《しぼめる花》の主題による変奏曲 (D802)』、2つの弦楽四重奏曲(『イ短調 <ロザムンデ>(D804)』、『二短調<死と乙女> (D810)』)が作られている。

また、『ピアノとアルペジョーネのためのソナタ (D821)』は、扱いにくく今では廃れた楽器を奨励する試みであった。

過去数年の災難は1825年の繁栄と幸福に取って代わった。出版は急速に進められ、窮乏によるストレスはしばらく除かれた。

夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をした。旅行中に、ウォルター・スコット(1771-1832)原詩の歌曲『ノルマンの歌 (D846)』、『囚われし狩人の歌 (D843)』や『ピアノソナタ イ短調 (Op.42, D845)』を作曲、スコットの歌ではこれまでの作曲で得た最高額の収入を得た。

















ウィーンでの晩年 

     

1827年にグラーツへの短い訪問をしていることを除けば、1826年から1828年にかけてずっとウィーンに留まった。

その間、たびたび体調不良に襲われている。 晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、重要な出来事が3つみられる。

一つは1826年、新しい交響曲をウィーン楽友協会に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられたこと。

二つ目は、オペラ指揮者募集に応募するためオーディションに出かけたが、リハーサルの際に演奏曲目を自作曲へ変更するよう楽団員たちに提案したものの拒絶され、最終的に指揮者に採用されなかったこと。

そして三つ目は、1828年の春になって人生で初めてでただ1度の、彼自身の作品の演奏会の機会が与えられたことである。

1827年に、シューベルトは『冬の旅 (D911)』、『ピアノとヴァイオリンのための幻想曲 (D934)』、2つのピアノ三重奏曲(Op.99 / D898Op.100 / D929)を書いた。 

1827326日、ベートーヴェンが死去し、シューベルトは葬儀に参列した。その後で友人たちと酒場に行き、「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。

この時友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたと言う。事実、彼の寿命はその翌年で尽きるのであった。

最晩年の1828年、『ミサ曲変ホ長調 (D950)』、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ (D962)』、『弦楽五重奏曲 (D956)』、『ミサ曲ハ長調 (D452)』のための2度目の『ベネディクトス (D961)』、最後の『3つのピアノ・ソナタ(D958, 959, 960)』、《白鳥の歌》として有名な歌曲集(D957/D965A)を完成させた。

この中の6曲はハイネの詩に付けられた。ハイネの名声を不動のものにした詩集「歌の本」は1827年秋に出版されている。

シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家ジーモン・ゼヒター(後にブルックナーの教師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いたが、何度かのレッスンの後、ゼヒターはその知人を介して「シューベルトは重病です」ということを知らされた。

1112日付のショーバー宛の手紙でシューベルトは「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と著しい体調不良を訴えた。これがシューベルトが認めた最後の書簡となった。 

その後シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、1114日になると病状が悪化して高熱にうなされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去した。

シューベルトの最後の様子はフェルディナントが父へ宛てた手紙に言及されており、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったという。

まだ319ヶ月の若さであった。遺体はシューベルトの意を酌んだフェルディナントの尽力により、ヴェーリング街にあった当時のヴェーリング墓地の、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。

1888年に両者の遺体はウィーン中央墓地(ドイツ語版)に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には今も二人の当時の墓石が残っている。

死後間も無く小品が出版されたが、当時の出版社は「シューベルトはシューベルティアーデ(ドイツ語版)のための作曲家」とみなして、もっと価値のある大規模作品を出版することはなかった。 

シューベルトの死亡原因については、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとの腸チフスであったとも、エステルハージ家の女中から感染した梅毒の治療のために投与された水銀が彼の体内に蓄積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも、いくつかの説が言われている。

シューベルト生誕200年の1997年には、改めて彼の人生の足跡を辿る試みが行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も制作され公開された。





















編集後記: 『どうしてやろうか・・・シューベルト!』

    

 大作曲家シューベルトの番になり、ブログ編集にあたって思案したことです。大作曲家だけに、皆さん造詣が深く変な解説も出来ませんので、途方に暮れました。

・・・が結局はその生い立ちや、エピソードを書いて行くしかないと諦めました。

 

ご紹介する曲目も、彼の大作 三大歌曲集(美しき水車小屋の娘冬の旅白鳥の歌は、すでに「美と音楽と安らぎと・・・2」で全曲ご紹介済みですので、それ以外の歌曲に留め極力器楽曲に持っていこうとしましたが、やはり歌曲が半分近くになりました。

    

 掲載しました「交響曲 未完成」は、学生時代の吹奏楽コンクールで演奏した思い出の曲です。















 




お ま け

    

     

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Ladies and gentlemen Many thanks for your visit !

 






 

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katakiyo

おまけに涼しさを感じさせていただきました。
by katakiyo (2014-07-26 06:05) 

般若坊

katakiyo さん おはようございます。今朝も朝から 猛暑の兆しですね。
どうか皆さま 熱中症にご注意くださいね。
今夜はおそらくいろんな所で、前倒しの盆踊りが行われるようですね。私の所にも招待状がきております。
係の人達は、早朝からこの猛暑の中櫓組みや準備で、汗を絞っておられると思います。
今夜は感謝しながら、踊りまくりましょうか・・・ ^^
by 般若坊 (2014-07-26 09:12) 

旅爺さん

ウィーンで音楽家の墓を幾つか見て来ましたがシューベルトの墓も見たかな? 各国でいろんな人の墓見てるので混同してます。
今日も凄い猛暑になりそうですね。
お互い水分採って元気に乗り切りましょう。
by 旅爺さん (2014-07-26 09:29) 

塩

厳しい暑さが続いておりますがお変わりなくお過ごしのことと存じます。

昔シューベルトの生家を訪ねたり、後年偶然通りがかりに亡くなった家を現地のおじさんが教えてくれたことを思い出しました。若いときに映画「未完成交響楽」を何回も何回も見たのも思い出のひとつです。ありがとうございました。
by (2014-07-26 09:31) 

般若坊

旅爺さん こんにちは。梅雨明け一週間は猛暑に見舞われますね。体が慣れていないので、熱中症患者が次々と・・・救急隊員も大変です。
確かシューベルトとベートーベンの墓は隣り合っていますね。ウイーンの中央墓地に行かれたのならご覧になってるはずです。
そうですね・・・お互い体調管理して、人さまのご迷惑にならないようにしましょう。 ^^;
by 般若坊 (2014-07-26 10:34) 

般若坊

塩さん こんにちは。暑いですね・・・お元気でしょうか?奥様まだ入院中でしょうか?もしそうだとすると、なおさら大変ですね。
シューベルトのゲバントハウスに行かれたんですか?亡くなった家にも・・・現地の方とのコミニュケーション よかったですね! ^^
by 般若坊 (2014-07-26 10:38) 

YUTAじい

こんにちは。
余りにも有名人ですが・・・改めて偉大さを感じさせて戴けました。
何時もありがとうございます。
午前中買い物に付き合いましたが・・・地獄の様な暑さです。
酷暑続きますご自愛下さい。
by YUTAじい (2014-07-26 13:04) 

般若坊

YUTAじい さん こんにちは。不測の事故で、カウンタックの製造が中止とか・・・心が残りますね。・・・こう書くと「エッ?」という人も居るかもしれません。 ^^
そうですか・・・そうですね。奥様一人でお買い物はやめた方がいいですよね。
これから1か月 こんな天気が続くのでしょうから、上手な付き合い方を心がけましょう ^^
by 般若坊 (2014-07-26 14:08) 

ponnta1351

曲は知っていても作曲家の詳しい事は分からないので、こちらで知識を得て居ます。でもすぐ忘れてしまう昨今です。雨がちょっと降りちょっと涼しくなったかな?連日灼熱地獄でしたね。
by ponnta1351 (2014-07-27 16:21) 

般若坊

ponnta1351 さん こんばんは。今日は午後から暑さもひと段落。恵みの雨でした。
私も音楽が好きな割には作曲家や曲名に疎く、それもあってブログで作曲者と曲名と曲そのものをドッキングさせるつもりで、やっております。
ここに載せた曲は、ほとんどお聴きおよびではないかと思います。
さすがに大作曲家ですね・・・ ^^
by 般若坊 (2014-07-27 20:53) 

旅爺さん

今日も暑いですね、さ~~仕事・仕事で ウナギを食べて  
頑張りましょう(*゚▽゚*)/”””””””””
by 旅爺さん (2014-07-29 10:05) 

般若坊

旅爺さん こんにちは。今日は湿度が低く爽やかな暑さですね。室内は26℃湿度45%です。
直射日光下はきびしいですから、なるべく日陰でお仕事を・・・ Have a nice day!  ^^
by 般若坊 (2014-07-29 10:38) 

sig

「未完成」を学生時代に演奏されたのですね。とても貴重な思い出でしょうね。私は熱病のように学生演劇にうなされておりましたが、当時は選曲で苦労したものでした。今回の選曲では懐かしい昔を思い出させていただきました。
by sig (2014-07-29 16:42) 

般若坊

sig さん こんばんは。出掛けていて遅くなりました。今日はいつもよりは気温の上昇は少なく、湿度も低いので過ごしやすかったですね。
sig さんは、演劇青年だったんですか?俳優志望ということですね。それで映画の道へ進まれたんですね。
長岡の花火凄いですね。大戦の犠牲者の追悼の意味があるそうで、そう聞くと華やかな花火に込められた悲しみが、わかるような気がします。
by 般若坊 (2014-07-29 18:53) 

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