074 : Robert Alexander Schumann [楽興の時]
Robert Alexander Schumann
Robert Alexander Schumann
ロベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann, 1810年6月8日 - 1856年7月29日)は、ドイツの作曲家、音楽評論家。
ロマン派音楽を代表する一人。ピアニスト、クララ・シューマン(Clara Josephine Schumann, 旧姓ヴィーク Wieck)は妻である。
生涯 ドイツ、ザクセン王国のツヴィッカウに生まれる。5人兄弟の末っ子であった。父は出版業者で、著作も行っていた。
シューマンはそのような環境の中で、早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作を試み、豊かな才能を示した。
息子の音楽の才能を認めていた父は1826年に亡くなり、安定した生活を願う母の希望で法学を学ぶことになり、1828年にギムナジウムを卒業し、ライプツィヒ大学法学部に入学した。
1829年ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク法学部に転学。 しかし、シューマンは音楽家への夢を捨てることができず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークのもとに弟子入りし、ピアノの練習に励んだ。
同年、シューマンの作品『アベッグ変奏曲』作品1が初めて出版された。
1831年には改めて正式に作曲も学び始め、ハインリッヒ・ドルンに師事した。
しかし、過度のピアノの練習により手を痛めたため、ピアノの演奏を諦めなくてはならなくなり、音楽評論家、作曲家として生計を立てる決意をした(近年の研究では、ヴィークらの証言する「手を痛めた」点は疑問視されている。
薬指関節部分の腫瘍が元で指が動かなくなったことが直接の原因であると見られる)。
Symphony No. 3 "Rhenish" (Live)NDR Symphony OrchestraChristoph Eschenbach
10:16 2nd movement
16:27 3rd movement
22:00 4th movement
28:49 5th movement
(there shouldnt be a pause between 4th and 5th..)
評論家としては、1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当。1836年には主筆となり、1843年まで務め、活発な活動を行った。
一方、1834年の夏には、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛事件があり、それは『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれるきっかけとなった。
その後、ヴィークの娘の名ピアニスト、クララとの恋愛が進行し、2人は婚約した。
それはヴィークの激しい怒りを買い、シューマンとクララはつらい思いをせざるをえなかった。
そのような日々の中で『幻想小曲集』(作品12)、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』などが作曲された。
1839年、2人は遂に訴訟を起こし、翌年結婚が認められた。2人の間には8人の子供が生まれた。
同年フリードリヒ・シラー大学イェーナから哲学博士の名誉博士号(Ehrendoktorat)を受ける。
それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンだったが、1840年には歌曲の作曲に熱中し、1年ほどの間に『詩人の恋』、『リーダークライス』作品24と作品39、『女の愛と生涯』などを続々作曲した。いわゆる「歌の年」と呼ばれる。
1841年は「交響曲の年」と呼ばれ、交響曲第1番『春』や交響曲第4番の初稿が書かれた。
このうち第1交響曲は3月31日にすでに親友となっていたフェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で初演され、大成功をおさめた。
1842年には『ピアノ五重奏曲』などの室内楽曲が集中して書かれ、さらにその翌年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれるなど、年を追うごとにシューマンの作品の幅は広いものとなっていった。
1844年、ドレスデンに移住。ピアノ協奏曲などの作曲に励んだが、この頃から徐々に精神の均衡が崩れる兆候が出てくるようになり、その危機を脱しようとバッハの研究に没頭、オルガンやピアノのためのフーガを書き、また、1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲した。
1848年には唯一のオペラ『ゲノフェーファ』が書かれた。
1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住。
同地の明るい風光はシューマンに良い影響を与え、交響曲第3番『ライン』やチェロ協奏曲、多数の室内楽曲を作曲するとともに第4交響曲の改訂をおこなった。
大規模な声楽曲『ミサ曲ハ短調』や『レクイエム』も手がけた。しかし、1853年には余りに内向的なシューマンと楽員の間が不和になり、11月には指揮者を辞任することとなった(これにはシューマンの指揮者としての能力の欠如も影響している)。
『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品である。
1853年9月30日、シューマン家に当時20歳であったヨハネス・ブラームスが訪問し、彼は自作のソナタなどをシューマンとクララに弾いて聴かせたが、これに対してシューマンは久しぶりに評論を書き、「新しい道」という表題でその若者を強く賞賛し、未来を予言した。
ブラームスは晩年のシューマンの希望の星であった。 しかしブラームスと出会ってから半年もしない1854年に入ると、本人も自覚していた元々の躁鬱、音楽監督時の精神的疲労に加え、青年期に娼婦より罹患した梅毒に起因するとされる精神障害が著しく悪化し、2月27日にデュッセルドルフのライン川に投身自殺を図った。
間もなく助けられたが、その後はボン近郊のエンデニッヒの精神病院に収容され、面会謝絶のためクララにも殆ど会う機会は与えられなかった。
1994年に当時のカルテが公開され、梅毒の症状が認められた上、シューマンは『デュッセルドルフが消滅した』と真剣に語ったという(医師は病名を巧妙に書き換えていた)。
クララは医師に告知されてショックを受けた。
シューマンは病床でも作曲を試みるなどした(この時期に書かれた作品や手紙はクララによって後に破棄された)が、回復しないまま1856年7月29日に梅毒による衰弱が原因の肺炎で死去。
最後の言葉は、ワインを指につけて夫にしゃぶらせるクララを腕に抱いて囁いたという「分かるよ」(Ich weiß)であった(クララがその様子を日記に書いている)。
評論
評論家としてのシューマンはまず、1831年に『作品2』という表題の評論を発表し、「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」と、同い年のフレデリック・ショパンの才能を早く見出したが、ショパン自身はシューマンが自分の作品に対して見せた熱狂に困惑していた。
この熱狂振りは、「ショパンの主題による変奏曲(遺作)」が書きかけで残されていたことにも現れていた。
シューマンはその評論の中に架空の団体『ダヴィッド同盟』を設定し、この団体のメンバーによる架空座談会という形での音楽評論を多用した。
この架空座談会に登場する「フロレスタン」と「オイゼビウス」という人物が最も良くシューマンの意見を表しているとされる。
「フロレスタン」は活発で行動的、「オイゼビウス」は物静かで瞑想的で、彼らはシューマン自身の2つの面を表した分身であったとも言う。
なお、この『同盟』は音楽作品にも顔をのぞかせている(op.6、op.9など)。 こうしてシューマンは、ドイツ観念論哲学の影響を強く受けながら、当時の音楽界に支配的であった享楽的な空気に敢然と戦いを挑み、自身が理想と信ずる旗印を高く掲げた。
また自分とは違う方向性を見せていた場合でも、すぐれたものには惜しみない賞賛を送るなど、極めて公平かつ鋭い批評をしたというのが専らの評価である。
ただしロッシーニやマイアベーアなどの当時の流行オペラ作曲家に対する低い評価や、ショパンやブラームスに比べ、同じジャンルで作品を発表していたアルカンに対しての批判的な批評など、公平を欠いているものも少なくないと批判する意見もある。
他にもショパンのほかに、メンデルスゾーンを擁護し、若き日のブラームスを発掘、また、ベルリオーズをドイツに紹介、シューベルトの器楽曲を賞賛し『大ハ長調交響曲』を発見、バッハ全集の出版を呼びかけるなど、ドイツ音楽の地位向上と忘れ去られていた過去のドイツ音楽の名作の再評価に決定的な役割を果たした。
流浪の民 | ||||
原詩(ドイツ語)・日本語訳(意訳) | ||||
Im Schatten des Waldes, im Buchengezweig, | ||||
da regt's sich und raschelt und flüstert zugleich. | ||||
Es flackern die Flammen, es gaukelt der Schein | ||||
um bunte Gestalten, um Laub und Gestein. | ||||
ブナの森の木陰 騒がしき動めき | ||||
聞こえるささやき声 | ||||
色とりどりの人の姿に木の葉や岩 | ||||
ゆらめく炎の舞 | ||||
Da ist der Zigeuner bewegliche Schar, | ||||
mit blitzendem Aug' und mit wallendem Haar, | ||||
gesäugt an des Niles geheiligter Flut, | ||||
gebräunt von Hispaniens südlicher Glut. | ||||
そこはロマ(ジプシー)の集まる場所 | ||||
輝く瞳 流麗な長髪 | ||||
ナイル川の聖なる水のほとりで育てられ | ||||
スペインの太陽に焼かれし褐色の肌 | ||||
Ums lodernde Feuer in schwellendem Grün, | ||||
da lagern die Männer verwildert und kühn, | ||||
da kauern die Weiber und rüsten das Mahl, | ||||
und füllen geschäftig den alten Pokal. | ||||
瑞々しい緑の中 火を囲み | ||||
荒々しく勇敢な男達が横たわる | ||||
女達はしゃがんで食事の支度 | ||||
慌ただしく古い酒杯に酌をする | ||||
Und Sagen und Lieder ertönen im Rund, | ||||
wie Spaniens Gärten so blühend und bunt, | ||||
und magische Sprüche für Not und Gefahr | ||||
verkündet die Alte der horchenden Schar | ||||
輪になって歌い物語を語り | ||||
盛り上がることスペインの庭の如く華やかに | ||||
老婆が唱える魔法の呪文 | ||||
苦難や恐れを打ち払う | ||||
Schwarzäugige Mädchen beginnen den Tanz. | ||||
Da sprühen die Fackeln im rötlichen Glanz. | ||||
es lockt die Gitarre, die Zimbel klingt. | ||||
Wie wild und wilder der Reigen sich schlingt! | ||||
踊り始める黒い瞳の女達 | ||||
火の粉を散らす松明(たいまつ) | ||||
ギターとシンバルの音に誘われ | ||||
絡み合う野生の輪舞 | ||||
Dann ruh'n sie ermüdet vom nächtlichen reih'n. | ||||
Es rauschen die Buchen in Schlummer sie ein. | ||||
Und die aus der glücklichen Heimat verbannt, | ||||
sie schauen im Traume das glückliche Land | ||||
踊り疲れ 横になり体を休める | ||||
ぶなの木が奏でる子守歌 | ||||
幸せに満ちた祖国を追われ | ||||
夢の中で愛する故郷に帰る | ||||
Doch wie nun im Osten der Morgen erwacht, | ||||
verlöschen die schönen gebilde der Nacht, | ||||
es scharret das Maultier bei Tagesbeginn, | ||||
fort zieh'n die Gestalten, wer sagt dir wohin? | ||||
| ||||
シューマンの作曲一覧については Wikipedia を参照してください。
Clara Josephine Schumann
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おはようございます。
知っている知って無いにかかわらず毎回眼見開かされます。
改めて名曲を見直せます。
何時もありがとうございます。
by YUTAじい (2014-08-02 08:46)
YUTAじい さん おはようございます。シューマン 最初と最後にもっとも知られている曲をもってきました。
学生時代に合唱部に入られて居た方なら、流浪の民は必ず歌われたのではないでしょうか・・・
ヨーロッパにおけるジプシーの悲しい流浪生活が歌われています。名曲だと思います。 ^^
by 般若坊 (2014-08-02 09:05)
お暑うございます。
クラシックには本当に疎いので、知らない曲が殆ど。でも、便利な世の中になりましたね。暑い中出掛けなくても、こうして居ながらにして名曲に耳を傾ける事が出来るんですから。「流浪の民」よ~く知ってます。
by ponnta1351 (2014-08-02 15:43)
ponnta1351 さん こんにちは。毎日暑いですが、梅雨明け時の37,8℃の耐えられない暑さではなくなったようですね。耐えられるようになったのは、体が慣れたせいでしょうか・・・
流浪の民は女性合唱団が多かったですね。ponnta1351 さんも歌われたのでしょうか?こうやってご紹介していくうちに、聞き知った曲が出てくるのはうれしいものですね。 ^^
by 般若坊 (2014-08-02 17:03)
若い頃ですがクラシックに夢中になった時期がありますが・・今では^^
by katakiyo (2014-08-02 20:13)
katakiyo さん こんばんは。そうですね・・・私も社会人現役の時は、クラシックを楽しむ余裕はありませんでした。しかしリタイヤして時間が出来ると、また興味が湧くのではないでしょうか・・・ ^^
by 般若坊 (2014-08-02 21:18)
般若坊さんお早う御座います!シューマンは爺の好きな作曲家の
一人で、彼が双極性障害だった事も親近感を感じます。日経サイエンス
特集脳と心の科学「心のミステリー」p44でシューマンの作曲と病気の周期の図が描かれていますが、軽躁病相の時に曲を量産していたそうです。欝病相の時には、殆ど作曲しなかったそうです。一番好きなのは、
矢張り交響曲No.3ラインです。
by bpd1teikichi_satoh (2014-08-03 09:37)
bpd1teikichi_satoh さん おはようございます。コメントありがとうございます。お好きなラインが掲載出来て良かった。
双極性障害は天才が持つ病でしょうか・・・しかし一般の人もそうですよね・・・鬱の時は何もする気が起きませんから。 ^^
by 般若坊 (2014-08-03 10:05)
こんにちは。
「流浪の民」の詩文と、その下のロマたち(にしては上品ですが)の踊りの絵が素敵ですね。
by sig (2014-08-03 17:49)
sig さん こんばんは。ジプシーを意識した画像です。ネットストックをさがしましたが、適当な画像が見当たらず、この画像にしました。 ^^
by 般若坊 (2014-08-03 18:10)
般若坊さんおはようございます。ごめんなさい又レスしてしまって。
双極性障害の人全てが天才ではありません。勿論、爺も天才ではあり
ません。然し双極性障害と創造性については、何か関係があると思い
ます。確定的ではないにしろ、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、ヘルマン・ヘッセ、アーネスト・ヘミングウェイ、グスタフ・マーラー、
等は双極性障害だったされています。狂気が芸術と直接的に関係が
あるとは思えないのですが、何か関係があると考えられる想います。
by bpd1teikichi_satoh (2014-08-04 04:40)
bpd1teikichi_satoh さん おはようございます。今日も朝から暑いですね。芸術にある程度の狂気?が必要なことはうなずけます。
話は代わりますが、芸能人が脱法ドラッヅに手を染めるのも、常人の彼らが売れなくなってドラッグに拠る狂気の面から、その挽回をはかって居るようにしか思えませんが・・・ ^^;
by 般若坊 (2014-08-04 08:44)
般若坊さん、こんにちは!ごめんなさいね、狂気の話し又々して。
でも危険ドラッグや覚醒剤、麻薬に手を出す芸能人が多いのですが、
爺等の双極1型障害の躁状態の極期には幻覚妄想状態に成って仕舞う
のですが、自己コントロールを失って仕舞う為に人生を棒に振る事に
なりかねないので、常に気分安定薬を飲まなくてはいけないのです。
人間の精神は強い様ですが実は、非常に脆いと言えます。麻薬は、
耽溺性があるためにやめられなくなることが大きな問題です。
by bpd1teikichi_satoh (2014-08-04 14:59)
bpd1teikichi_satoh さん こんにちは。
治療や予防の為、医師の指導の元に服用する向精神薬を、どうこう云うつもりは全くありませんよ!
健常者が、ドラッグを飲めばより素晴らしい結果を得られるのではないか?という浅はかな発想が気に食わないだけですので。
by 般若坊 (2014-08-04 15:57)
般若坊さんおはようございます。それは充分に分かっております。
今日の新聞で危険ドラッグで、41名も死亡したのではないかと言う
記事が有りましたが、安易に此の様な薬物に手を出すと大変危険な
ことになり兼ねないと思います。
by bpd1teikichi_satoh (2014-08-05 09:49)
bpd1teikichi_satoh さん こんにちは。今日は今年一番の暑さのようですから、ご自愛ください。
by 般若坊 (2014-08-05 11:32)