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077 : Richard Georg Strauss [楽興の時]

 

 

 

Richard Georg Strauss

 






















 

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Richard Georg Strauss

 






リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss, 1864611 - 194998日)はドイツの後期ロマン派を代表する作曲家。

交響詩とオペラの作曲で知られ、また、指揮者としても活躍した。

ウィーンのヨハン・シュトラウス一族とは血縁関係はない。




 

 

 

                                               

                                  

                                               

♪映画「2001年宇宙の旅」で有名に  

スタンリー・キューブリック監督のSF映画の傑作2001年宇宙の旅」で一躍知られるようになった曲です。 

 R.シュトラウスの作品はどれも壮大なオーケストレーションで、現代楽器の威力が最大限に引き出されるものばかりです。 

彼は交響詩というジャンルに特に力を注ぎました。 

そんな彼の交響詩の中でもインパクトの強さからCMなどでもよく使われるのが「ツァラトゥストラはかく語りき」です。 

元来は哲学者ニーチェの著作を基にした深遠な内容です。

 




















 

<誕生>

        

1864年6月11日にリヒャルト・シュトラウスRichard Straußドイツ(1864-1949)は生まれた。

丁度その40日前にパリで当時のフランス・グランド・オペラの巨匠、マイヤベーアMeyerbeerドイツ(1791-1864)が世を去っていた。

この時、オペレッタの世界に、ヴィーンではスッペSuppéオーストリア(1819-95)、パリで人気を独占していたオッフェンバックOffenbachドイツ-フランス(1819-80)がいた。  

1861年にヴァーグナーWagnerドイツ(1813-83)が「タンホイザー」でパリで大失敗していた。これはパリの聴衆がマイヤベーアの華麗な管弦楽書法orchestrationや、大仕掛けな舞台に馴れきっていたためでもあるかもしれない。

この時、ヴァーグナーにとってマイヤベーアは、ヴェルディVerdiイタリア(1813-1901)以上に脅威な存在であった。マイヤベーアが死んだ1864年、ヴァーグナーは51歳、またこの時ルートヴィヒⅡがバイエルンの国王になり、ドイツから追放の身で多額の借金に苦しむヴァーグナーに援助を申し出た。

これによって新ロマン派グループ:ベルリオーズBerliozフランス (1803-69)、リストLisztハンガリー(1811-86)、ヴァーグナーWagnerドイツ(1813-83)は、力を得て大きな力を得て成果を収めていく。
最終的にヴァーグナーはライフワークであるバイロイトに祝祭劇場の建設着手へと向かっていった。  

新ロマン派への対抗馬として絶対音楽absolute musicの旗手としてブラームスBrahmsドイツ(1833-97)が据えられた。
彼にはそのような大それた野心がなかったため、本人は辞退するもののその役目を果たしていく。

ブルックナーBrucknerドイツ(1824-96)は「ミサ曲第1番ニ短調」を書き、引き続き「交響曲第1番」に取りかかり1868年に初演される。 

ざっとこうした背景の中でR.シュトラウスは生まれた(1864)。

ヴァーグナー、リスト、ブラームス、そしてビューローBuelowドイツ(1830-94)等は、R.シュトラウスに多大な影響を与えることになる。
でも、バイロイトの巨匠ヴァーグナーや長い白髪のリストとは、個人的には会うことはなかった。

R.シュトラウスにとって最初の重要な音楽家の存在は、父フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスであった。
ミュンヒェン宮廷歌劇場の主席ホルン奏者にして王立音楽院の教授であったこの父は、ヴァーグナーを評価しなかった。
だが演奏者の立場でヴァーグナーと度々顔を合わせ、ヴァーグナーの指揮で演奏もしていた。ヴァーグナーの方もこの父のホルンの腕前と、この父のヴァーグナーに対する批判的考えもよく承知していた、といわれている。 

R.シュトラウスは後に父のことを回想して次のように言っている。
父は先ず第一にモーツアルトを、次いでハイドン、ベートーヴェンを高く評価していた。その他はシューベルト、ヴェーバー、メンデルスゾーン、シュポーアであった。
ヴァーグナーについては否定的で、「タンホイザー」はかろうじて認めるが他の作品は認めていなかった。
特に後期のヴァーグナー作品を、全面的に否定していた。

しかし、この父ほど「トリスタン」や「マイスタージンガー」のホルン・ソロを演奏できる者はいなかった。
ひどい喘息もちであったが、69歳になるまで宮廷歌劇場管弦楽団の主席ホルン奏者を務めたということである。  
この父こそR.シュトラウスに音楽家としての基本的な洞察力を与えた人であった。
この息子リヒャルトが、ヴァーグナーの起こした楽劇Musikdramaを踏襲し、それを乗り越えていく作曲家となろうとは、考えもしなかったことであったろう。

 R.シュトラウスが生まれた時、父は42歳、ビール大醸造業者の娘であった母ヨゼフィーネは26歳(父にとって2度目の結婚で、コレラが最初の妻と2人の子供を奪った)であった。
ところで、どうして息子に嫌いなヴァーグナーと同じリヒャルトと命名したのだろうか。
これは驚きでもあり、不思議でもある。


そして彼の息子がヴァーグナーの流れを継承する後期ロマン派を担う大人物になるとは、誰が予測したであろうか。この父は預言的能力があったのだろうか。

























 

彼の作曲の中心である交響詩の最後の作品となった「英雄の生涯」は、それまでの人生を総括するような内容ですが、書かれたのはまだ34歳の時です。 

作曲家としては批評家から風当たりが強かった状況に一矢を報いるかのように、この交響詩では逆境に立ち向かうひとりの英雄の姿が描かれています。 

英雄はシュトラウス自身と言われますが、本人の弁ではそうばかりではないようです。  

演奏には105名から成る4管編成のオーケストラが必要となり、オーケストレーションはこの曲において頂点に達したとも言われ、 技術的にも難しいことからオーケストラの力量が試される作品とされています。 

また作曲者自身は当初この曲を「エロイカ」と呼んでいました。 

友人には「ベートーヴェンの英雄に代わる交響詩を書いている」と伝えていて、 実際、同じ変ホ長調で、英雄のフレーズ断片の引用もあります。

6つの部分に分けられるのが常ですが、スコア上には分類や副題はありません。


 

<結婚まで>


当然のことながらリヒャルトは有能なホルン奏者であった父フランツ・シュトラウスから、4歳の時に音楽の手ほどきを受けた。

1868年(4歳半)に最初のピアノ・レッスンを父の友人トンボー(ミュンヘン宮廷歌劇場首席ハープ奏者)から、ヴァイオリンは従兄のベンノ・ヴァルターから習った。
ピアノは後にニーストに変わる。

リヒャルトはテクニカルな練習をする生徒でなく、勝手に管弦楽スコアを上手に弾くことをおぼえできるようになる。
この頃から名指揮者になる天分を示している。
ごく幼い頃からホルンの響きに微笑み、ヴァイオリンの音には涙で反応したということである。 

1870年(6歳)に教会付属小学校に入学し、ピアノ独奏曲や歌曲も作曲し始め、たいへん元気のよい子供だったと伝えられている。

10歳の時、王立ルートヴィヒス・ギムナジウムに入った(1874-82年)。
たいへんな優秀な生徒と伝えられている。
第3学年の時、担任から音楽に対する才能は群を抜いているという評価を受けた。
だが、数学はよくなかったということである。

1882年大学入学資格を受けて卒業した。
音楽と並んで常に歴史と古典文学(ギリシャやローマの古典作家の作品)に魅せられていた。

1875-80年に宮廷楽長マイヤーに作曲法と理論を学んでいる。 
ギムナジウムの間にいくつかの作品が生まれた。

「交響曲ニ短調」(1880年。未刊で作品番号なし)、テノールとバスの独唱、男声合唱、管弦楽による「“エレクトラ”の合唱」(ソポクレスの詩による 1881年? 作品番号なし)、「ヴァイオリン協奏曲Op.8」を作曲した(1882年)などである。 

1882年秋ミュンヘン大学哲学科に入学し、1883年には退学した。
この年に大きな影響を受けることになるマイニンゲン宮廷管弦楽団の楽長ビューローBuelowドイツ(1830-94)★と出会う。

そして188510月にこの管弦楽団の補助指揮者になり、21歳で指揮者デビューとなった。
12月にはこのマイニンゲン宮廷管弦楽団の音楽監督に就任する。
 

1886年(22歳)に病気になり、マイニンゲンを去り、イタリア旅行を経てミュンヘンの宮廷歌劇場第三楽長に就任する。

1887年にマーラーMahlerオーストリア(1860-1911)と出会い、認められた。

1889年ヴァイマール宮廷劇場の第二楽長に就任した(1894年まで)。

1894年2月12日、ビューローは死去した。

1894年9月にパウリーネと結婚した(30歳)。
妻パウリーネはシュトラウスの歌曲のすぐれた歌手として活躍していく。


























 

♪アルプス登山の過程を細やかに描いた標題交響曲

  「アルプス交響曲」はリヒャルト・シュトラウスの最後の交響楽的作品です。 

「ドン・ファン」から始まった交響詩の作曲は「英雄の生涯」で終わり、その後は「家庭交響曲」「アルプス交響曲」という二つの交響曲を残しています。 

ドイツ・アルプスのツークシュピッツェに登山をした14(15)歳時のシュトラウス少年は、 大自然の雄大さに感銘を受け、それがこの交響曲の元イメージになっているといわれます。

 1902年にはこれがより具体的な形になり、信奉するニーチェの思想である、 「非キリスト教的自然」や「山で生きる」生き方、「自然のなかでの解放」に基づき、 「アンチクリスト-アルプス交響曲」という4楽章の大交響曲が構想されました。











































 

R・シュトラウス 歌曲集

 ツェツィーリエ Op27-2

 子守歌     Op41-1

 君を愛す    Op37-2

 あした     Op27-4





<活動・死>


1894年に結婚し、ミュンヘンの宮廷歌劇場第二楽長、1896年第一楽長となった。
そして1898-1918年ベルリン第一宮廷楽長に就任し、オペラの指揮者として活躍した。

1904年にアメリカに渡り新作の「家庭交響曲Symphonia DomesticaOp.53」(1903年)を初演した。

1908年にベルリン・フィルハーモニー音楽総監督、1909年に芸術院会員に選ばれる。

1917-20年はベルリン高等音楽院作曲家マイスター・クラス主任教授を務めた。 

1919-24年(55歳~60歳)まで、オーストリアの名指揮者フランツ・シャルクとともにヴィーン国立歌劇場総監督として指揮者・芸術監督をつとめている。
この間南米(1923年)や再度アメリカ(1922年)を訪問している。
彼にとって最も多忙な時期を迎えていたこの時、世界情勢も複雑になっていった。

第一次世界大戦(1914-18)を経て、1933年にナチスがドイツの政権を獲得した。
彼はヴィーン歌劇場を辞した後もヴィーンに滞在し、1933年にベルリンに帰った。 

193311月、ドイツの政権をにぎったナチスに請われて第三帝国音楽局総裁になった(1933-35年)。
シュトラウスはこの時69歳であった。
なぜ総裁に就任したのか? その理由は、近親にユダヤ系の嫁がいたのでそれを恐れてかナチスに迎合したともいわれている。
ナチス政策によるユダヤ人迫害は音楽家にも向けられていき、多くのユダヤ系の音楽家が歴史から抹殺されていった。

ナチスの音楽総裁になって彼はすぐに堪忍の緒が切れた。その原因は抹殺されたユダヤ系のメンデルスゾーンMendelssohnドイツ(1809-47)の「真夏の夜の夢」の代わる同名の作品を作曲するよう要請されたり、ユダヤ系のツヴァイクの台本によるオペラ「無口な女Op.80」(1935年)に対する不興などが重なったためである。

こうしてユダヤ系作曲家の作品を葬ろうとする当局と対立し、1935年にナチスの音楽局総裁辞任となった。
総裁時代の知られた作品は「オリンピック賛歌」(1934年作曲)であろう。

1936年ベルリン・オリンピック開幕に当たって演奏され、ラディオやニュース映画で世界に発進された。
また有名なドキュメント映画で、この曲を多くの人が耳にしている。 

第二次世界大戦(1939-45)が勃発し、戦争中もドイツに留まっていた。

1940年日本の紀元2600年祝いのために日本政府から委嘱された「皇紀2600年祝典曲Festmusik zur feier des 2600jährigen Bestehens des Kaiser-reiches Japan Op.84」1)(1940年作曲)が東京で演奏され、R.シュトラウスはドイツでラジオで聴いた(76歳)。

1945年ドイツが敗戦を迎え、ナチスに協力したという理由で戦犯裁判にかけられた。
その結果は無罪となった。その後はドイツを出、スイスで余生を静かに過ごす。 

1949年8月心臓麻痺を起こし、9月8日1410分、ガルミッシュ・パルテンキルヘンの山荘で死去(享年85歳)。

                                

葬儀の時は故人の遺志によりオペラ「ばらの騎士」第3幕から終幕部分の三重唱が歌われた。






















































リヒャルト・シュトラウスの作品詳細については Wikipedia  を参照してください。




       


 

 


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コメント 6

YUTAじい

おはようございます。
なるほど・・・あの曲と想いをはせながら拝見・拝聴させて戴きました。
中々知れない事を今日もありがとうございます。
by YUTAじい (2014-08-23 08:09) 

般若坊

YUTAじい さん おはようございます。グアムでのガンシューティングはいかがでしたか?日本では絶対に許されない経験ですが・・・
交響詩 ”ツァラトゥストラはかく語りき”・・・2001年宇宙の旅で有名になりましたね。
啓蒙的で、はるか未来を期待させる雄大な曲想ですね。
曲そのものは、ティンパニーを駆使したイントロの勇壮な旋律でお馴染みになりましたが、その後はニーチェの作品と同様にかなり難解?・・・笑
しかしベルリンオリンピック賛歌や、日本の皇紀2600年の奉祝曲も彼の作品とは知りませんでした・・・ ^^
by 般若坊 (2014-08-23 08:46) 

海を渡る

おはようございます。
豪雨についての御心配、ありがとうございました。
こちらはほんとうに自然災害の少ない所です。(これからは分かりませんね^^)
私はあの映画音楽しか知りませんでした^^。
by 海を渡る (2014-08-23 11:18) 

般若坊

海を渡る さん おはようございます。四国中国地方の雲をレーダーで見ていると、次々にしつこく雨脚が襲っているので心配しました。
そうですね・・・リヒアルトシュトラウス・・・あまりなじみがありませんですから・・・ ^^;
by 般若坊 (2014-08-23 11:44) 

sig

こんばんは。
「2001年宇宙の旅」はマイ・リコメンドの10本の指に入るのですが、タイトルバックに使われたイントロ部分のあとはどういう展開になっているのか、ずっと気になっていました。ありがとうございました。
by sig (2014-08-25 20:21) 

般若坊

sig さん こんばんは。 ”ツァラトゥストラはかく語りき”のイントロが余りにも有名になったので、その後はどうなっているんだろう?と思うのは極自然な感想ですね!
お聴きの通りなかなか良い曲ですね!私もDVDコレクションの一つにこの作品が入ってます。
人類の曙から、一気に宇宙時代へ飛ぶ画面の新鮮な構成は、何度見ても圧倒されます。 ^^
by 般若坊 (2014-08-25 22:17) 

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