086 : Igor Fyodorovitch Stravinsky [楽興の時]
Igor Fyodorovitch Stravinsky
Igor Fyodorovitch Stravinsky
イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(ロシア語: И́горь Фёдорович Страви́нский、1882年6月17日 - 1971年4月6日)は、ロシアの作曲家である。
同じくロシアの芸術プロデューサーであるディアギレフから委嘱を受け作曲した初期の3作品(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)で知られるほか、指揮者、ピアニストとしても活動した。
20世紀を代表する作曲家の1人として知られ、20世紀の芸術に広く影響を及ぼした音楽家の1人である。ニューヨークで没した。
略歴
1882年6月17日、サンクトペテルブルク近郊のオラニエンバウム(現・ロモノソフ)に生れた。
ウクライナ系またはポーランド系ロシア人の父フョードルはペテルブルク・マリインスキー劇場のバス歌手で、家には図書館並みの20万冊もの蔵書を持っていた。
イーゴリは法律を学ぶために現在のサンクトペテルブルク大学に入学した。しかし在学中に作曲家となる意思を固め、1902年から1908年まで、リムスキー=コルサコフに作曲法と管弦楽法を学ぶ。
大学でリムスキー=コルサコフの息子と知り合い、仲介してもらったという。
1906年には、 従妹エカチェリーナ・ノセンコと結婚。翌年には息子テオドール、翌々年に娘リュドミラを授かる。作曲家のスリマは末子。
1908年に、自作曲『幻想的スケルツォ』と『花火』が初演される。
ロシア・バレエ団の主宰者セルゲイ・ディアギレフに認められる。
『花火』はもともと師リムスキー=コルサコフの娘の結婚祝いに書いたものであった。
1910年には、ディアギレフの依頼でロシア・バレエ団のための第1作『火の鳥』を創作し、パリのオペラ座で初演、大成功を収める。
翌1911年には、第2作『ペトルーシュカ』が委嘱され、これも成功を収める。
さらに1913年、第3作『春の祭典』がパリで初演される。
この上演は楽壇をセンセーショナルな賛否両論の渦に巻き込む
これら3作によってストラヴィンスキーは若手の革命児として名を刻まれる事になった。
1914年、第一次世界大戦勃発とともにスイスに居を定める
1917年に起きたロシア十月革命により故国の土地は革命政府に没収される。
1920年、パリで『プルチネルラ』を初演。
ほか『きつね』、『結婚』、『八重奏曲』、『詩篇交響曲』、『ダンバートン・オークス協奏曲』などを発表するが、この年から1950年までは、彼の新古典主義の時代といわれ、バロック音楽への回帰の時期とされる。
1938年、長女を結核で失い、翌年には妻と母を失う
当時ナチス政府は前衛的なストラヴィンスキーを快く思っておらず、翌1939年秋にアメリカ合衆国へ亡命する。
アメリカではハーバード大学で教鞭をとり、その後ハリウッドに住む。画家のヴェラと再婚。『3楽章の交響曲』、バレエ『オルフェウス』、『ミサ曲』、オペラ『放蕩者のなりゆき』などがこの時代の代表作である。
1950年頃より、これまで否定的だった十二音技法を採用して新たな創作の可能性を開く。
『七重奏曲』、『エレミアの哀歌による「トレニ」』、『バリトンと室内オーケストラのためのバラード「アブラハムとイサク」』、『J.F.ケネディへの哀歌』などを作曲。 1959年、来日し、日比谷公会堂で演奏会を行う。
また日本の若手作曲家の武満徹を見出して世界に紹介する。これはのちにバーンスタインが、ニューヨーク・フィル125周年記念の曲を武満に委嘱するきっかけになった。
1962年、ソ連を訪問する。1914年に祖国を離れて以来、最初にして最後の帰郷であった。
1969年、ニューヨークに転居し、1971年4月6日に89歳で没する。
ディアギレフの眠るヴェネツィアのサン・ミケーレ島に埋葬された。のちに、妻ヴェラもイーゴリの隣に埋葬された。
作風
生涯に、原始主義、新古典主義、セリー主義と、作風を次々に変え続けたことで知られ、「カメレオン」というあだ名をつけられるほど創作の分野は多岐にわたった。
さまざまな分野で多くの作品を残しているが、その中でも初期に作曲された3つのバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)が名高く、特に原始主義時代の代表作『春の祭典』は、20世紀の最高傑作と言われている。
また、オーケストラ作品ではリムスキー=コルサコフ仕込みの管弦楽法が遺憾なく発揮され、さらにそこから一歩踏み込んだ表現力を実現することに成功している。
これらの作品によって、ベルリオーズやラヴェル、師のリムスキー=コルサコフなどと並び称される色彩派のオーケストレーションの巨匠としても知られるに至っている。
ストラヴィンスキーは晩年まで「商品価値のつく個人語法、かつ同時代性を有する未聴感は何か?」を追い求めた。過去の作品への執着もつよく、「原曲の著作権料がアメリカでは入ってこない」という理由もあって、演奏頻度の高い『火の鳥』以下3曲のバレエ音楽の改訂を行い続けた。
また、自分の演奏が録音されるチャンスがあるとわかれば、指揮やピアノの録音を残した。
後期は現代音楽界からやや離れた次元で、自分の為の音楽を本当に書くことができたが、この時期の音楽は現在も賛否が割れている。
ストラヴィンスキーは、かつてのドイツやロシアの管弦楽に見られるような不明瞭なアーティキュレーションによる残響を毛嫌いした。
『火の鳥』1945年版組曲の最終部の自身の演奏にその特徴が顕著に現れている。
また、最晩年にはベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲のレコードばかり聴き、セリー主義に転向した際に賞賛したヴェーベルンの音楽も、自分の曲も、決して聴こうとはしなかったという。
原始主義時代
ストラヴィンスキーの作風は大きく3つの時代に分けることができるが、その最初が原始主義時代である。
主な作品として、3つのバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)が挙げられる。
複調、変拍子、リズム主題の援用などが特徴である。『結婚』を最後にこの傾向は終息する。
新古典主義時代
バレエ音楽『プルチネルラ』以降はストラヴィンスキーの新古典主義の時代とよばれる。
この時期はバロック音楽や古典派のような簡素な作風に傾倒した。和声の響きは初期に比べてかなり簡明になった。
1939年から1940年に行われた講義の内容を基にした著作『音楽の詩学』がこの時代の音楽観をよく表している。
その一方で、新古典主義時代ながら『詩篇交響曲』ではセリー的操作を用いている。
これは後の研究で明らかにされた。ストラヴィンスキーが他の楽派の音楽語法も常に見張っていたことが良くわかる。
セリー主義(十二音技法)時代
第二次世界大戦後は、それまで敵対関係であったシェーンベルクらの十二音技法を取り入れ、またヴェーベルンの音楽を「音楽における真正なるもの」などと賞賛するようになった。
これには同じくアメリカに亡命していたクシェネクの教科書からの影響もある。
ストラヴィンスキー自身は、「私のセリーの音程は調性によって導かれており、ある意味、調性的に作曲している」と語っており、あくまで調性的な要素の強いセリー音楽である。
各楽器をソロイスティックに用いる傾向が一段と強まり、室内楽的な響きを多くのセクションで優先するために、初期の豪華な響きの光沢は全く聞かれなくなった。
ストラヴィンスキーが本当にこの時代に追求したことは音列の絡み具合ではなく、諸様式の交配で得られる一種のポリスタイリズム(多様式)的な感覚である。
晩年には「レクイエム」と題する作品も2作残しているが、その中でオケゲムのリズム法に十二音を無理やり当てはめたり、楽譜が十字架を描いたりと、より個人的な作風へ化していった。
国際派時代に世界中のオーケストラを指揮して威圧するイメージは、もはや聞かれなくなっていたし、ストラヴィンスキー本人がそう願っていたからでもあった。
『レクイエム・カンティクル』のラストではチェレスタとグロッケンのデュオに教会の鐘を想起させる模倣を行っており、晩年になってもさらに新しい音楽を求めていたことが良くわかる。
主要作品
バレエ音楽
バレエ以外の舞台作品
交響曲
協奏曲
管弦楽曲
ピアノ曲
室内楽曲
合唱曲
歌曲
編曲作品
作品詳細はWikipediaを参照してください。
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おはようございます。
今日も興味深く拝見拝聴させて戴きました・・・少しでも頭に残るように思いつつ。
何時もありがとうございます。
by YUTAじい (2014-10-25 05:42)
YUTAじい さん おはようございます。今日は良い天気ですね。
愛車を駆って何処かにお出かけでしょうか・・・紅葉が美しい季節です。
今日のストラビンスキーは、ちょっと難しいですね。 ^^;
by 般若坊 (2014-10-25 08:19)
ストラビンスキー――最も刺激的な音楽 : 解説 後藤文彦
ストラビンスキーの曲の一つの特色は、不協和音や変拍子を多用した効果音的要素が、近現代音楽にしては非常に馴染み易い(数回聴いただけでその曲を思い浮かべられるような)音楽を構成し得ていることにあると考えています。
「火の鳥」(1910)はきれいな曲で、色彩的、叙景的、視覚的、強弱の幅が広いといった形容が似合うでしょうか。他の二曲よりは割と普通の(正常な)曲と言えるかも知れません(初めて聞いた時はかなりの衝撃を受けましたが)。全曲版よりは組曲版の方が馴染み易いかと思います。
「ペトルシュカ」(1911)は非常に透明感のあるシャワシャワした別な意味できれいな(上品な)曲ですが、最初は多少馴染みにくいかも知れません。他の二曲ほどには刺激的な箇所はそれほど出てきません。ピアノ版や二台ピアノ版もなかなか奇麗で心地良い音楽です。夏の暑い日に聴くと涼しいような感じがあります。
「春の祭典」(1913)は極めて刺激的な曲で、未だに刺激性という意味に於いてこの曲を凌ぐ曲には出会えていません。刺激性というのも難しいもので、音量が大きければ得られる訳でもなく、ビートが利いていれば得られる訳でもなく、雑音を増やせば得られる訳でもなく、それらの要素が、旋律的要素と巧妙に調和(止揚)して初めて得られるものなのだと考えております。
by 般若坊 (2014-10-25 11:07)
ストラビンスキー、フルネームは初めて知りました。
ストラビンスキー=火の鳥、バカの一つ覚えで知っていました。しかしちゃんと聴いたことは有りません。難し~!クラシックはさっぱりです(泣)
by ponnta1351 (2014-10-27 16:17)
「火の鳥」はドラマチックなので好きな曲です。退屈な曲はあまり好きではありません。音楽を知らないくせに、生意気ですね。笑
今分かったのですが、だから私は「音楽を聴きながら何かをやる」ことができないんですね。聞く時は聴くために聴くのです。かといってBGMが流れている場所も好きなんですよ。
by sig (2014-10-27 16:34)
ponnta1351 さん こんにちは。
メロディアスな曲ばかりの環境で、ストラビンスキーを初めとする現在音楽を聴くと、なんとも理解できない無力感にとらわれます。
しかし、ストラビンスキーはその中でも親しみやすいのでしょうか・・・野っぱらにでもひっくり返って、やる事もなく”火の鳥”を3回ぐらい聴けば・・・何とか理解できそう・・・ ^^;
by 般若坊 (2014-10-27 16:39)
sig さん こんにちは。
ponnta1351 さんへのコメント返しを書き終わって送信したら、 sig さんのコメントが入っていました。
火の鳥がお好きですか・・・私はいつも思うのですが、この現代音楽の楽譜はどうなっているんでしょうか・・・演奏家はどのように理解して演奏するのでしょうか・・・まさか楽譜がモザイクになってるわけではないですよね! ^^;
by 般若坊 (2014-10-27 16:52)