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102 : Claude Achille Debussy [楽興の時]

 

 

 

Claude Achille Debussy

 















 

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Claude Achille Debussy

 

 

クロード=アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862822 - 1918325日)は、フランスの作曲家。

長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などとを用いて独自の作曲を実行した。 

ドビュッシーの音楽は、代表作『海』や『夜想曲』などにみられる特徴的な作曲技法から、「印象主義音楽(印象派)」と称されることもある。

また歌詞やテーマの選択は象徴派(象徴主義)からの影響が色濃いと目されることもあるのだという。 

尚、名前は生後1890年(23歳)まで「アシル=クロード」、1890年(23歳)から「クロード=アシル」である。

 



















 

 

年譜 

1862 - 822日 誕生。

1871 - この年から3年ほど、モーテ・ド・フルールヴィル夫人にピアノのレッスンを受ける。

1872 - パリ音楽院入学。以後12年在籍。ピアノをマルモンテル、ソルフェージュをラヴィニャック、和声学をデュラン、作曲法をギローに師事。1880 - チャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴。

1884 - ローマ大賞を受賞。

1885 - ローマに滞在。1887 - パリに戻る。

1888 - 1度目のバイロイト行き。

1889 - パリ万国博覧会で東洋芸術に接触、2度目のバイロイト行き。

1890 - 名前を「アシル=クロード」から「クロード=アシル」に変える。『ベルガマスク組曲』。

1891 -2つのアラベスク』。この頃、初期のピアノ小品や歌曲を多く手がける。

1893 - メーテルリンクの戯曲「ペレアスとメリザンド」に出会う。1894 - 『牧神の午後への前奏曲』。

1899 - リリー・テクシエと最初の結婚。1902 - 『ペレアスとメリザンド』初演。

1905 - 『海』、エンマ・バルダックと同棲。長女クロード=エンマ(シュウシュウ)誕生。

1910 - 『前奏曲集第1集』。

1911 - 舞台音楽劇『聖セバスティアンの殉教』。

1913 - バレエ音楽『遊戯』。バレエ・リュスのために作曲。

1914 - 第一次世界大戦勃発、大腸癌を発病。「様々な楽器のための6つのソナタ」着手(完成は3曲)。

1918 - 325日夕方 死去。

1919 - 娘クロード=エマ死去。

 



















 

生涯 

幼少期 

1862822日午前4時半、イヴリーヌ県のサン・ジェルマン=アン=レーのパン通り38番地に、「アシル=クロード・ドビュッシー」として生まれた。

父親のマニュエル・アシル・ドビュッシーは陶器店を経営し、母親のヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシーは裁縫師であった。

5人兄弟の長男として生まれているが、彼が2歳(1864731日)になってから洗礼を受けている。

その年に一家は経営難のためサン・ジェルマン=アン=レーを離れ、母方の実家(クリシー)に同居する。 

1870年、カンヌに住む伯母クレメンティーヌ(父の姉にあたる)のもと、彼女の肝煎りでイタリアのヴァイオリニスト、ジャン・チェルッティ(Jean Cerutti)にピアノを習う(期間は不明)。

このカンヌでの滞在は1回だけであったが、後年ドビュッシーは鮮烈な印象を残したと手紙の中で語っている。 

1871年、詩人ヴェルレーヌの義母マリー・モテ・ド・フルールヴィル夫人に基礎的な音楽の手ほどきを受ける。

これは、偶然にも父親の知人であったヴェルレーヌの義兄で小唄作者のシャルル・デ・シヴリー(Charles de Sivry)と出会い、シヴリーが少年のドビュッシーを自分の母親のフルールヴィル夫人に引き合わせたとされる。

夫人はドビュッシーの才能を見抜き、親身に彼を教えたという。 

幼少期のドビュッシーについては、後年本人が語ろうとしなかったため、彼がどのように過ごしたのかは不明である。

ただしこの時期からピアノの手ほどきを受けていたことは確かである。

 



















 

 

音楽院入学とローマ賞

 18721022日、10歳の若さでパリ音楽院に入学する。

この時の合格者がドビュッシーを含むわずか33名であった。

1年後、エルネスト・ギロー(作曲)、オーギュスト・バジュ(ピアノ伴奏法)、アントワーヌ・マルモンテル(ピアノ)、エミール・デュラン(作曲)、アルベール・ラヴィニャック(ソルフェージュ)らに学ぶ。

元々ピアニストになるつもりで、入学当初はマルモンテルのピアノ科クラスに入り(同時にラヴィニャックのクラスに入る)、1873年の129日にJ.S.バッハの『トッカータ』(BWV915)を弾いた際、「魅力的な素質」と評価されて自信を持ち、ピアニストへの道に進むことを決めたという。

1874年に学内のコンクールにおいてショパンのピアノ協奏曲第2番の第1楽章を弾いて第2次席賞を獲得。1875年にショパンの『バラード第1番』で第1次席賞を得るが、1876年には獲得できなかった。

1877年にはシューマンの『ピアノソナタ第2番』(第1楽章)で再び第2次席賞を獲るが、1878年と1879年は2年続けて賞が取れずに失敗し、これによってピアニストになることを諦める決心をした。

この失敗を知った両親は落胆し、特に母親ヴィクトリーヌ・マヌリは「落伍者」と呼び、さらには「こんな汚辱の子を育てるより、蝮を生んだ方がましだった」と言い放ったという。

結局ピアノで賞を得ることができず(1位入賞を目標にしていたため)、その年にピアノ科を去り、10月にバジュ(バズィーユ)のピアノ伴奏法のクラスに入る。 

一方でドビュッシーは作曲にも挑戦している。

1878年にピアノ曲『フーガ』(L番号なし)を作曲し、これは現存するドビュッシーの最古の作品とされている。

1879年に歌曲『月に寄せるバラード』(L.1)と『マドリード』(L.2)を作曲する(ただし79年の2つの歌曲は紛失)。 

18807月、18歳のドビュッシーはチャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴し、『ピアノ三重奏曲』(L.3)や『交響曲 ロ短調』(L.10)の断片を作曲した。

また、『ボヘミア舞曲』(L.9)という小品を夫人の計らいでチャイコフスキーへ送るが、酷評を受けた(出版はドビュッシーの死後)。

メック夫人を通して、チャイコフスキーの当時の最新作であった交響曲第4番(1877年)などのロシアの作品も勉強しており、この経験が元でチャイコフスキーやロシア5人組に影響を受ける。また貴族趣味も芽生えた。 

パリに戻ったのち、この年の1224日にギローのクラスに入る(当初マスネに師事するつもりでいた)。

またセザール・フランクのオルガンのクラスに顔を出しているが、オルガンにおける「執拗な灰色の色調」に嫌気が差したためにわずか半年でクラスから逃げるように立ち去っている。 

1882年に歌曲『星の輝く夜』(L.4)を出版する。また10作以上の歌曲を作曲する。この年の5月にローマ賞に挑戦するも、予選落ちに終わる。 

18835月、2回目となるローマ賞に挑戦し、『祈り』(L.40)で予選を通過。カンタータ『剣闘士』(L.41)本選の第2等賞を獲得する。 

1884年に3回目となるローマ賞に挑戦し、カンタータ『春』(L.56)で予選を通過、カンタータ『放蕩息子』(L.57)でローマ大賞を受賞する。

審査員の中にはグノーやサン=サーンスもいた。

1885年から1887年にかけてイタリアのローマへと留学したものの、あまりイタリアの雰囲気には馴染めず、ローマ大賞受賞者に与えられる期間を繰り上げてパリに戻った。

これにはヴァニエ夫人という意中の人がいたためとも言われる。このヴァニエ夫人のために書かれたいくつかの歌曲のうちポール・ヴェルレーヌの「艶なる宴」に基づくものは後に『艶なる宴』(全2集)としてまとめられた。

またローマに留学していた頃に生み出された作品は、いくつかの歌曲や交響組曲『春』、合唱と管弦楽のための『ツライマ(ズレイマ)』(L.59、後に破棄されて現存しない)である(なおローマからパリへ帰郷してから作られた作品はカンタータ『選ばれた乙女』や『ピアノと管弦楽のための幻想曲』)。 

1888年の夏、銀行家のエティエンヌ・デュパンの支援によって念願であったバイロイトへ初めて行き、同地で『ニュルンベルクのマイスタージンガー』と『パルジファル』を聴く。
















 

 

中期 

1889年は27歳のドビュッシーにとって大きな転機の年となる。

1月には国民音楽協会に入会してエルネスト・ショーソンらと知り合い、新たな人脈と発表の場を得た。

6月にパリ万国博覧会でジャワ音楽(ガムラン)を耳にしたことは、その後の彼の音楽に大きな影響を与え、その後2度目に訪れたバイロイト音楽祭ではワグネリズムの限界を感じ、これを境にアンチ・ワグネリアンを標榜することになる。 

1890年の28歳のとき、名前を「アシル=クロード」から「クロード=アシル」に変えた。

18934月、『選ばれた乙女』、が国民音楽協会の演奏会で初演され、その後同協会の運営委員にも選出された。

また1229日に『弦楽四重奏曲』がイザイ弦楽四重奏団によって初演されている。 

18943月、テレーゼ・ロジェと婚約するがガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)の知るところとなり破談。この出来事でショーソンと疎遠になり、ショーソンが18996月に事故で没したときにも葬儀に参列しなかった。

1222日に『牧神の午後への前奏曲』が初演。 

1900年代に入ると、『ビリティスの歌』(1900年)、『夜想曲』(1900年)、『版画』(1904年)などが初演された。また、オペラ『ペレアスとメリザンド』が完成し、1902年に初演され大きな成功を収めた。

これらの一連の作品で成功したドビュッシーは作曲家としてのキャリアを確実なものとした。

1903年にはレジオン・ドヌール五等勲章を受勲している。 

1913年、バレエ音楽『遊戯』が完成し同年にピエール・モントゥーによって初演され、夏に『おもちゃ箱』の作曲に着手する(管弦楽化はアンドレ・カプレと協力)。

12月、モスクワとペテルブルクに演奏旅行に行く(クーセヴィツキーとジロティの要請による)。













 

 

晩年 

1914年、第一次世界大戦が勃発してエンマの息子などが兵士として動員されたことを受けて、戦争を恐れるようになっていたドビュッシーは、9月に家族とともにアンジェに避難したが、1か月後にパリへと戻る。

この時すでにドビュッシーの身体は病に侵されており、大腸癌を発病していた。この頃から「様々な楽器のための6つのソナタ」に着手するも、完成したのは3曲のみであった。 

1915年、『12の練習曲』や『6つの古代碑銘』などを生み出す。323日に母が死去、同じ頃にエンマの母もこの世を去っている。 

1916年は『ヴァイオリンソナタ』の構想や、未完に終わったオペラ『アッシャー家の崩壊』の台本(決定稿)の作成に取り掛かる。またこの年には2台ピアノのための『白と黒で』や『チェロソナタ』などを含む4つの作品が初演されている。私生活では、離婚した元妻のリリー(マリ・ロザリー・テクシエ)に対する月手当ての支払いが1910年以来ため、裁判所から3万フランの供託金の支払いを命令されている。 

19177月、一家はスペインの国境付近のサン=ジャン=ド=リュズに3か月滞在する。この地は保養地として有名であったため多くの著名人がこの地に訪れている。ドビュッシーは同地で自作の『ヴァイオリンソナタ』を演奏しているが、これが生涯最後の公開演奏となった。

この時期に計画していた残りのソナタとピアノ協奏曲の作曲を想起していたが、これらの作品はいずれも実現せずに終わっている。 

1918年初旬、病により床から離れなくなり、325日の夕方に静かに息を引き取る。葬儀は29日に行われ、遺体はパッシーの墓地に埋葬された(埋葬は翌年のことで、前年は仮に安置されていた)。

またドビュッシーが没した翌年の1919年に娘クロード=エマがジフテリアによる髄膜炎によって夭逝、妻エンマは16年後の1934年に世を去った。


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神奈川沖浪裏 - 葛飾北斎








 

神奈川沖浪裏 - 葛飾北斎の代表的な木版画、名所浮世絵の連作『富嶽三十六景』の一つ。この絵に対する印象から交響詩『海』を作曲したと言われる。

 






 

人物 

気難しい性格で、内向的かつ非社交的であった。

音楽院に入学してからは伝統を破壊しかねない言動(不平不満や文句)をしていたため、ギローなど担当教師らを困らせていた。

その性格に依るところがあるせいか、女性関係においてのトラブルも絶えなかった。元々18歳より弁護士の人妻マリー=ブランシュ・ヴァニエ夫人(Marie-Blanche Vasnier)と8年間の情事のあと別れ、1889年から(Rue Gustave Doré)にて同棲を続けていたガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)とは、自殺未遂騒動の末に1898年に破局を迎えた。

同じ頃、ソプラノ歌手のテレーゼ・ロジェ(Thérèse Roger)とも情通している。翌年にはギャビーの友人であるマリ・ロザリー・テクシエ(愛称リリー)と結婚するが、1904年頃から、教え子の母親、銀行家の人妻であるエンマ・バルダックと不倫関係になり、リリーはコンコルド広場で胸を銃で撃ち自殺未遂となり、離婚する(1905年)。

この事件がもとで、ドビュッシーはすでに彼の子を身ごもっていたエンマとともに一時イギリスに逃避行することとなり、友人の多くを失うこととなる。

長女クロード=エンマ(愛称シュシュ)の出産に際しパリに戻り、エンマと同棲した(1908年に結婚)。

シュシュはドビュッシーに溺愛され『子供の領分』を献呈された。 同じ印象派の作曲家とされることが多いモーリス・ラヴェルは、『ペレアスとメリザンド』に対しては彼が所属するグループ「アパッシュ」のメンバーとともに積極的に支持したが、『版画』の第2曲「グラナダの夕暮れ」が、彼が1895年に作曲した2台ピアノのための「ハバネラ」(後の『スペイン狂詩曲』の第3曲)と類似しているとしてドビュッシーに反発し、以来両者は疎遠となった。
































 

 

♪愛娘に捧げられた美しいピアノ曲集



 後に続く者への父親の優しい言葉をそえて私の可愛いシュウシュウへ


1905年、43歳のドビュッシーは再婚したエマ夫人との間に、自身にとって初めての子である娘クロード=エマを授かります。


ドビュッシーはこの娘をシュウシュウ(キャベツちゃん)と呼んで、とても可愛がりました。

そんなシュウシュウのために作曲されたのがピアノ曲集「子供の領分」です。

当時のフランス家庭では部屋の一画を囲って、そこにまだよちよち歩きの子供を入れて、積木やおもちゃで遊ばせていました。


もちろんシュウシュウのためにもそれは用意されました。

子供の領分と呼ばれるそのスペースで遊ぶシュウシュウの姿に、ドビュッシーは親ばかそのもので一喜一憂していました。


ピアノ曲集としての「子供の領分」は、決して子供向けの作品ということではなく、シューマンの「子供の領域」のように、大人が子供の気分に帰って楽しむような作品です。

天才ドビュッシーがここでは童心に帰って音と戯れているかのようです。


「グラドゥス・アド・パルナッスム」とは当時の著名な音楽教育者クレメンティの練習曲集のことで、これに“博士”とつけていやいや稽古に励む子供の姿を描くかのようなパロディにしています。

















 

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フランス紙幣

 

主な作品 

ピアノ曲

2台ピアノ・4手連弾のための曲

管弦楽曲・協奏曲

室内楽曲

バレエ音楽

歌曲

オペラ、カンタータ、劇付随音楽

その他の楽曲

 

 

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