120 : Bartók Béla Viktor János [楽興の時]
Bartók Béla Viktor János
Bartók Béla Viktor János
バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(Bartók Béla Viktor János [ˈbɒrtoːkˌbe̝ːlɒˈviktorˌjɑ̈ːnoʃ], 1881年3月25日 - 1945年9月26日)はハンガリー王国のバーンシャーグ地方のナジセントミクローシュに生まれ、ニューヨークで没したクラシック音楽の作曲家、ピアノ演奏家、民俗音楽研究家。
作曲以外にも、学問分野としての民俗音楽学の祖の1人として、東ヨーロッパの民俗音楽を収集・分析し、アフリカのアルジェリアまで足を伸ばすなどの精力的な活動を行った。
またフランツ・リストの弟子トマーン・イシュトバーン(1862年11月4日 - 1940年9月22日)から教えを受けた、ドイツ・オーストリア音楽の伝統を受け継ぐピアニストでもあり、コンサートピアニストやピアノ教師として活動した。
ドメニコ・スカルラッティ、J・S・バッハらの作品の校訂なども行っている。
♪打楽器のような野性味あふれるピアノ
20世紀の音楽史上欠くことのできない人物とされるバルトーク。
様々な革新的な試みもさることながら、なぜ他の現代音楽作曲家とは一線を画す位置づけにあるのか・・・
それはきわめて現代的な手法の中にも、古典に対する敬意が、作風にしっかりと表れているためといわれます。これはプロコフィエフにも同じことがいえるかもしれません。
「アレグロ・バルバロ」はバルトークがピアノを、打楽器のように使い始めた中期の作品で、パリでのピアノ演奏会の際“ハンガリーの野蛮(バルバロ)な若造”と書かれたことへの皮肉ともいわれています。同時代のストラヴィンスキーからの影響も垣間見られます。
生涯
幼少期
1881年、ナジセントミクローシュ(現在のルーマニア、ティミシュ県のスンニコラウ・マレ)に農学校校長で同名の父バルトーク・ベーラ(1855年-1888年)とピアノ教師でドイツ系の母パウラ・ヴォイト(1857年-1939年。スロヴァキアのマルチン出身)の間に生まれる。
父は町に音楽協会を設立するほどの熱心な音楽愛好家でもあり、自身でもピアノやチェロをたしなむ人物であった。
母のパウラによれば、バルトークは病弱だったが、きちんと言葉をしゃべる前から母のピアノ演奏のダンスのリズムを区別し、3歳くらいから母のピアノ演奏に合わせて太鼓を叩き、4歳では自己流で40曲のピアノ曲を弾くなど音楽的素養を見せていた。
そこで彼女は娘を出産した後の5歳頃から息子に正式なピアノ教育を始める。
しかし7歳の時に父が病気(アジソン病だったと言われている)で32歳の若さで急死、ピアノ教師として一家を支えることとなった母の仕事の都合でナージセレーシュ(現在のウクライナ、ヴィノフラージウ)に転居、その後各地を転々とする。
9歳前後から習作的なピアノ曲も書き始め、10歳の時にはピアニストとしての初舞台を踏むが、彼女は息子を天才少年ピアニストとして売り出す気はなく、まずは普通に教育を受けることになる。
1893年に音楽活動の活発だったポジョニに母と赴いた際、作曲家エルケル・ラスローに指導してもらう機会を得る。
翌年、母がポジョニに仕事を得たため同地へ引っ越し、当地のギムナジウムに入学。エルンスト・フォン・ドホナーニと知り合い友人となる。
音楽家への道と民謡との出会い
学内でもピアニストやオルガニストとして活動し、ヨハネス・ブラームスの影響を受けた作曲活動にも取り組んでいたバルトークは、1898年にはウィーン音楽院に入学を許可される。
しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリーの作曲家としての自分を意識すべきだというドホナーニの薦めに従い、翌年ブダペシュト王立音楽院(後のリスト音楽院)に入学。
作曲をハンス・ケスラー、ピアノをトマーン・イシュトヴァーンに指導を受ける。ここではワグネリアンの学長からリヒャルト・ワーグナーの洗礼を受けるが、既にブラームスの影響を脱して先に進もうとしていた彼に、ワーグナーは答えをくれなかったと回想している。
1902年、21歳の時にリヒャルト・シュトラウスの《ツァラトゥストラはこう語った》に強烈な衝撃を受け、交響詩《コシュート》を作曲。1848年のハンガリー独立運動の英雄コシュート・ラヨシュへの賛歌であった為、当時ハプスブルク帝政の支配下にあったブダペシュトの世論を騒がせた。
1904年にはゲルリーツェプスタ(現在スロヴァキア領)で初めてトランシルヴァニア出身者の歌うマジャル民謡に触れる。
1905年、パリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場。
作曲部門では入賞せず奨励賞の第2席、ピアノ部門では2位であった(優勝者はヴィルヘルム・バックハウス)。
自分の人生をピアニストとして描いていたため、優勝を果たせずかなり落胆したようであるが、それ以上に作曲部門での結果の方がショックだったようである。
しかし、ハンガリーでは知られていなかったクロード・ドビュッシーの音楽を知るという収穫を得た。
また民謡について科学的アプローチを始めていたコダーイ・ゾルターンに出会う。
1906年からコダーイやその他の研究者達と共にハンガリー各地の農民音楽の採集を始める。
1913年にアルジェリアへ赴いた他は、専ら当時のハンガリー国内で民族音楽を採集していた。
1907年、26歳でブダペシュト音楽院ピアノ科教授となる。
ピアニストとして各地を旅するのではなく、ハンガリーに留まったことで、更なる民謡の採集が進み、民謡の編曲なども行う。
この時点でも、彼の大規模な管弦楽作品はまだブラームスやリヒャルト・シュトラウス、さらにはドビュッシーの影響を感じさせるものであるが、ピアノ小品や親しかった女性ヴァイオリン奏者シュテフィ・ゲイエルに贈ったヴァイオリン協奏曲第1番(ゲイエルの死後発表)の2楽章などでははっきりと民謡採集の影響が表れている。
1908年の弦楽四重奏曲第1番にも民謡風要素が含まれている。
またトマーンの紹介で知己を得ていたレオポルド・ゴドフスキー、バルトークの作品を評価したフェルッチョ・ブゾーニの推挙も得て、ピアニストとしてだけではなく作曲家としての名も次第に浸透し始める。
スタイル確立と第一次世界大戦
1909年、ツィーグレル・マールタ(Ziegler Márta)と結婚。
翌1910年には長男ベーラ(バルトーク・ジュニア)が生まれる。
この年、フレデリック・ディーリアスと知り合い、彼の作品の影響も受ける。
1911年、ただ1つのオペラとなった《青ひげ公の城》を書き、ハンガリー芸術委員会賞のために提出したが、演奏不可能という事で拒絶された。
結局この曲は1918年まで演奏されなかった。
当時バルトークは、政治的見解から台本の作家バラージュ・ベーラの名を伏せるように政府より圧力をかけられていたが、これを拒否し、同時に自身の作品がなかなか顧みられない現状に疲れてしまい、ピアノ科教授以外の公的な立場から身を引いた。
その後の人生でバルトークは民謡への愛着は別として、ハンガリー政府や組織とは深く関わらないようにしている。
芸術委員会賞に失望した後2、3年の間、作曲をせず、民謡の収集と整理に集中していた。
1914年、第一次世界大戦の勃発により、民謡の収集活動が難しくなったため作曲活動に戻り、1914年から16年にかけてバレエ音楽《かかし王子》、1915年から17年には《弦楽四重奏曲第2番》を書いている(採集活動自体は1918年まで行っている)。
1918年には《かかし王子》の初演が成功し、ある程度国際的な名声を得た。
引き続き《青ひげ公の城》が初演される。
同年、レンジェル・メニヘールトの台本によるパントマイム《中国の不思議な役人》の作曲を開始する。
しかし第1次世界大戦で敗戦国となったハンガリーはトリアノン条約による国土の大幅な縮小とその前後の政治の混乱に巻き込まれ、ピアニストや民俗音楽の研究家としての名声が高まるのとは裏腹に、本人としては不本意な時期が続く。
1921年から22年にかけてヴァイオリンのためのソナタを2つ書き、イェリー・ダラーニのヴァイオリンと自らのピアノで初演。
更に彼女に同行してイギリスやフランスで演奏旅行を行う(この際、モーリス・ラヴェルやストラヴィンスキーと会っている)。
これはそれまでに作曲した中で和声上、構成上最も複雑な作品である。
また民謡的要素を自分の作品の中で生かすということに自信を深めたのか、それまで編曲作品と自作を区別するために付けていた作品番号を、ソナタ第1番の出版譜からは付けなくなった。
様々な活躍と、第二次世界大戦
1923年、ツィーグレル・マールタと離婚し、ピアノの生徒であったパーストリ・ディッタ(Pásztory Ditta)と結婚。
翌1924年には次男ペーテル(バルトーク・ペーテル、Bartók Péter)が誕生している(ペーテルは後年アメリカで録音技師として活躍し、父親の作品を中心に優秀な録音を世に出した。また楽譜の校訂にも大きな功績がある。)。
同じ1923年には、政府からの委嘱により、ブダペシュト市政50年祭のために《舞踏組曲》を提出。
この後、1926年にピアノ・ソナタやピアノ協奏曲第1番などを発表するまで3年ほど作品を発表せず、民俗音楽の研究や演奏会活動にやや力を入れるが、1927年から翌年にかけて、彼の弦楽四重奏曲としてもっとも高い評価を受けている第3番と第4番を作曲した。
またピアノ協奏曲第1番をヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮と自らのピアノで初演する。
その後も演奏家として1929年から30年にはアメリカやソヴィエトへの演奏旅行を行い、ヨゼフ・シゲティやパブロ・カザルスらと共演している。
1934年には音楽院ピアノ科教授の任から離れ、科学アカデミーの民俗音楽研究員となり、作曲とピアノ以外は自分や後進の研究者達が収集したコレクションの整理に取り組める環境を得る。
1936年、バーゼル室内管弦楽団を率いていたパウル・ザッハーの委嘱で《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》を作曲。
翌年ザッハーの手で初演が行われた。
1939年には《弦楽四重奏曲第6番》を作曲したが、第二次世界大戦が勃発し、民俗音楽の研究を出来る環境を求めており、またその文化政策などからナチス嫌いでもあったバルトークは、同年の母の死を機にヨーロッパを去ることを考え始めていたことをうかがわせる作品となった。
この頃、反ユダヤ主義者との対話の中で、自らの祖父ヤーノシュがユダヤ人だったことを示唆しているが、ヤーノシュはマジャル人の父とクロアチア人の母の間に生まれ、ユダヤ人ではなかった(ただし、ディッタ夫人はユダヤ系の血をひいている)。
アメリカ移住と死
母親の死以前から、バルトークは政治的に硬化していくハンガリーを去り、自身のライフワークである民俗音楽の研究に打ち込める環境を求めて他国へ移住することも検討し始めていた。
はじめはトルコのアンカラへの移住を検討するが環境が整わないことから断念した。
最終的には1940年春にアメリカ合衆国への演奏旅行の際、友人達にアメリカへ移住の可能性を打診、彼らの協力でコロンビア大学の客員研究員として南スラブの民俗音楽の研究に取り組む手はずを整えると一旦帰国。
10月8日にブダペストのリスト音楽院の大ホールで告別コンサートを開き、長男とコダーイに後を託し、ザッハーやかつての恋人・ゲイエルなど友人達の助力を受け、妻と膨大な研究資料や自作資料と共にアメリカ合衆国へ移住した。
なお、次男ペーテルは全寮制の学校に在学中のためハンガリーに残ったが1年後単身アメリカに渡り、その後アメリカ海軍の招集に応じた。
少々自己中心的で人と打ち解けるタイプではなかったバルトークにとって、アメリカは決して居心地は良くなかったし、研究や講演以外はピアニストとして生計を立てるつもりだったとはいえ、作曲する気にもならなかったようで、演奏会活動を行う以外は、先のコロンビア大学での研究の他、ヨーロッパから持ち込んだ民俗音楽の研究に没頭していた。
しかし1940年ごろから右肩周辺に痛みを感じるなどの不調があった健康状態は次第に悪化、1942年になると断続的に発熱を繰り返すようになった。
1943年初頭にはとうとう入院してそれらの活動はすべて中断する。
フリッツ・ライナーなどアメリカ在住のバルトークの友人たちは、戦争で印税収入が滞るなど収入源の無くなってしまった彼を支援するため「作曲者・著作者・出版者の為のアメリカ協会 (the American Society for Composers, Authors, and Publishers) 」に医療費を負担させるよう働きかけ、更に当時ボストン交響楽団を率いていた指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーに、彼の財団と夫人の思い出のための作品をバルトークに依頼させる。
すると驚異的なスピードで《管弦楽のための協奏曲》を完成。
この依頼があって作曲への意欲が引き起こされたようで、ヴァイオリン・ソナタを演奏会で取り上げる際にアドヴァイスを求めに来て親しくなったユーディ・メニューインの依頼で《無伴奏ヴァイオリンソナタ》にも着手し、1944年には両曲の初演にそれぞれ立ち会う。
出版社との新しい契約で収入面の不安もやや改善され、健康状態も小康を取り戻して民俗音楽の研究も再開した。しかし、その病は白血病だった。
1945年、《子供のために》や《管弦楽のための協奏曲》の改訂をする傍ら、妻の誕生日プレゼントにしようと軽やかで新古典派的な《ピアノ協奏曲第3番》、ウィリアム・プリムローズから依頼された《ヴィオラ協奏曲》に着手するが、ともに完成させることができずに、9月26日、ニューヨークのブルックリン病院で没した。
前者はほとんどできあがっており(オーケストレーションが17小節残された)、草稿段階にとどまった後者とともに、友人でハンガリー系の作曲家シェルイ・ティボール(Sérly Tibór)によって補筆完成された。
遺体は「ナチスドイツや共産主義ソ連の名前が残っている内は祖国に埋葬しない」との遺言に基づき、ニューヨーク州ハーツデイルのファーンクリフ墓地に埋葬されたが、ハンガリー社会主義労働者党が一党独裁放棄を決めるなど民主化が進んだことから、バルトークの二人の子息と指揮者ゲオルグ・ショルティらの尽力で亡骸が1988年7月7日ハンガリーに移送され、国葬によりブダペシュトのファルカシュレーティ墓地に埋葬された。
現在ファーンクリフには記念碑が残されている。
作風
本人が「若い頃の私にとって、美の理想はベートーヴェンだった」と回想しているようにドイツ・オーストリア音楽の強い影響から出発したが、ハンガリー民族やハンガリー王国内の少数民族の民謡をはじめとした民俗音楽の収集による科学的分析から、その語法を自分のものにしていった(同様の活動を行った先人にチェコのヤナーチェクがいる)側面と、同時期の音楽の影響を受けた側面のバランスの中で作品を生み出す、という独自の道を歩んだ。
ただし、彼の楽曲は民俗音楽の旋律やリズムだけではなく構造面も分析したうえで、なおかつソナタ形式など西洋の音楽技法の発展系を同時に取り入れて成立していることや、過去の音楽に目を向けて新しい音楽を生み出そうとした点など、音楽史的には新古典主義の流れの1人と位置付けても間違いではないだろう。
ピアニストとして
体格的には決して大柄ではなかったが、手はかなり大きかった。
そしてヴィルトゥオーゾとして自身の未来を思い描くほどの実力を持つリスト直系の弟子であり、晩年までピアニストとしての活動も行った。
手紙などでは伴奏家としての腕前も自負していたようで、多くのソリストとの共演歴もある。
自作自演やシゲティとの共演などの録音も残しているため、彼の演奏はCDなどで聴くことが出来る。
ドイツ・オーストリア音楽をレパートリーとしていたが、スカルラッティの編纂を行って自ら演奏したり、自らに多大な影響を与えたドビュッシーの作品も多く取り上げていた。
自作のピアノ曲も自身が演奏会に取り上げるために書かれたものが少なくない。
また作曲は教えなかったが、ピアノ教育には熱心だった。
自作でも教育のための作品は重要な位置を占めており、リスト音楽院ではピアノの教授として多くの弟子を育てた。シャーンドル・ジェルジやリリー・クラウス、ゲザ・アンダなどのピアニストを直接指導したほか、指揮者のアンタル・ドラティや、作曲家でバルトークの民俗音楽研究の助手も務めたヴェレッシュ・シャーンドルなどがピアノの弟子である。
また、指揮者ゲオルグ・ショルティは直接の弟子ではなかったが、指導教授の代役として一時バルトークのピアノのレッスンを受けたことがあったことを回想している。
Bartok_recording_folk_music
Ladies and gentlemen ! Many thanks for your visit !
このブログは美しい曲・美しい絵画・美しい詩 等をインターネットの宝の山から見つけ出し、
ご紹介する事を基本としているブログです。
おはようございます。
名前も知りませんでした・・・今回も新しい出会いが出来ました。
何時もありがとうございます。
by YUTAじい (2015-08-01 07:29)
YUTAじいさん 今日も暑くなりそうですね。お互いに熱中症には気をつけましょう。
そうですね・・・バルトークと言う名は一般的に有名ではないかも・・・でもクラシックファンなら知っていますね。
現代的な作曲手法の中にも、古典という物を大切にした作曲家である と言われています。 ^^
by 般若坊 (2015-08-01 08:09)
般若坊さんこんばんは!ベーラ・バルトーク爺の好きな作曲家の一人ですね。1881-1945と言うからクラシック現代音楽に属すのですが、
主にハンガリーの民族音楽の専門家と言えるでしょう。
同じハンガリーの音楽家のゾルターン・コダーイは「バルトークという名は、芸術的な意味においても、政治的な意味においても、民族の復興のためには欠かすことのできない原理のようなものだ」言いました。
「クラシック音楽家大全」日東書院版から引用。
by bpd1teikichi_satoh (2015-08-01 16:37)
bpd1teikichi_satohさん こんばんは。バルトークがお好きな方の貴重なコメントをありがとうございます。
ハンガリーはブタペストしか行った事がありません。中世風の美しい都市ですね。バルトークはハンガリーを愛し、ハンガリーの人たちの精神的支柱であったのでしょう。
後のハンガリー動乱は、ソヴィエトに弾圧され独立がかなり遅れましたが、その人たちの心にはバルトークも先駆者の一人として、記憶されていたと思います。 ^^
by 般若坊 (2015-08-01 20:00)
おはようございます。
今日も酷暑の様です。
バルトーク、知って居ましたが詳しい知識は有りませんでした。
有難う御座いました。
by ponnta1351 (2015-08-02 06:37)
1曲目はハイテンポで2曲目はスローテンポと対照的ですね。
ハイテンポの曲はよく作れるしよく弾けますね。
今日も各地は猛暑ですね。
by 旅爺さん (2015-08-02 08:56)
ponnta1351さん おはようございます。そうですね・・・今日も酷暑の一日になりそうです。
暑さに負けず、柔軟体操等で頑張っておられ、安心しました。どうぞ ご無理のないように・・・ ^^
by 般若坊 (2015-08-02 08:58)
旅爺さん おはようございます。毎日 最高気温が上昇していきますね。
昨日の昼ごろは、我が家のバルコニーの日陰で 27.1℃ でした。干物になりそう・・・
ハンガリアンは放牧民族ですね・・・気質は激しいのかもしれません。バルトークのたたきつけるようなピアノ曲から推定すると・・・ ^^
by 般若坊 (2015-08-02 09:50)
PCがイジヨウ事態です、すみません。
文字も??でこれがやっとです。今外の日陰で35度です。
by 旅爺さん (2015-08-04 18:15)
旅爺さん こんばんは。今日は暑い中太極拳で、メチャ汗をかいてきました。徹底的に汗を出したので、帰りは涼しく爽快でした。
PCトラブルですか・・・私の所もです。
windows10を入れたのですが、今日太極拳に行ってる間に、修正プログラムがインストールされたらしく、せっかく設定したページ等が閲覧不能になっていました。
もう頭にきて、先ほどまで元のwindows7に変更作業です。
やっとページを見つけ、旅爺さんのコメントに返信できたわけです。やあ~先物食いはこりごりです。 ^^
by 般若坊 (2015-08-04 20:14)