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122 : Georges Bizet [楽興の時]

 

 




 

Georges Bizet

 













 

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Georges Bizet

 








 

 

ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet, 18381025 - 187563日)は、19世紀フランスの作曲家である。 

代表作に『カルメン』、『アルルの女』、『真珠採り』、『小さな木の実』など。











 

 



 

生涯 

ジョルジュ・ビゼーは1838年、パリに生まれた。

最初につけられた名前はアレクサンドル=セザール=レオポール・ビゼー (Alexandre-César-Léopold Bizet) だったが、洗礼時に改名された。

 父は声楽教師、母はピアニストで、幼い頃から音楽に親しみ、記憶力が抜群であった。

9歳でパリ音楽院に入学し、フランソワ・マルモンテル、シャルル・グノー、ユダヤ人ジャック・アレヴィらに師事してピアノ、ソルフェージュ、オルガン、フーガで一等賞を獲得した。

19歳でカンタータ『クローヴィスとクロティルデ』でローマ大賞を獲得。

1861年にはリストの新作(リストは「この曲を正確に弾けるのは私とハンス・フォン・ビューローだけ」と豪語していた)のパッセージを一度聴いただけで演奏し、さらに楽譜を渡されると完璧に弾いてのけてリストを驚かせた。

この時、リストは「私は間違っていた。3人というべきでした。正確に言えば、最も若いあなたが最も奔放で輝かしいというべきでしょう。」といってビゼーを賞賛した。

しかし、オペラ作家としての成功を夢見ていたビゼーは、ピアニストになることを潔しとはしなかった。






 


 




 

 

 



 

オペラなどの劇音楽を作曲の中心とし、25歳のときのオペラ『真珠採り』でオペラ作曲家の地位を確立する。

その後、フランス人の作家アルフォンス・ドーデの劇『アルルの女』の付随音楽や、オペラ『カルメン』などを作曲したが、18753月にパリのオペラ=コミック座で行われた『カルメン』の初演は、ヒロインが女性労働者だったこともあり失敗に終わった。

ヒロインの声域をそれまでに一般的だったソプラノではなくメゾソプラノに設定したことも新しさの一つだった。

 1869年にビゼーは師アレヴィの娘であるジュヌヴィエーヴ・アレヴィと結婚した。師は既に1862年に亡くなっていた。

『カルメン』初演の約3ヵ月後である187563日、敗血症のため367ヶ月の若さで世を去ったが、後にビゼーの音楽は世界的に認められるようになった。

 なお、妻のジュヌヴィエーヴは後にビゼーとの間の息子のジャックを連れて、ロスチャイルド財閥の顧問弁護士であるユダヤ人エミール・ストロースと再婚し、花形サロンを形成した。

ジャックの学友のマルセル・プルーストが後に小説『失われた時を求めて』の中で、彼女をモデルとしてゲルマント公爵夫人を造形した。







 




 

 



 

作品 

ビゼーは生涯に交響曲を3曲書いたが、1859年に作曲された第2番の草稿は破棄されてしまい、第3番は作曲されたのかどうかも判然としない。

その他にも管弦楽曲、合唱曲、歌曲、編曲作品などがある。 

オペラ『カルメン』はドビュッシー、サン=サーンス、チャイコフスキーなどから賞賛され、ニーチェは『カルメン』を20回も観たと記述している。

運命を引き受ける至高の個人としてのヒロインに、感応するところが大だったと考えられる。

ちなみにビゼーは舞台作品は約30曲以上も残しているが、『カルメン』や『アルルの女』、『真珠採り』以外はほとんど知られていない。

なおオペラ『美しきパースの娘』の中のセレナードをベースにした『小さな木の実』は、NHKの「みんなのうた」で放送され、音楽の教科書にも採り上げられるなど、日本では特によく親しまれている楽曲である。 

オペラの合間に作曲したピアノ曲は少数だが、グレン・グールドが演奏したことで知られる『半音階的変奏曲』、無言歌『ラインの歌』(1865年)などの作品は現在も演奏される。

また、サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番などのピアノ独奏用編曲も残しており、特にサン=サーンスの編曲は技巧派ピアニストが取り上げる難曲として知られている。











 

























 

♪ビゼーのアリアから生まれた「みんなのうた」の名曲



『美しきパースの娘』はビゼーが、1866年に作曲した全4幕のオペラ・コミックです。

ウォルター・スコットの小説『The Fair Maid of Perth』を元に台本が作成され、18671226日に、パリのリリック座にて初演されました。


 物語の舞台は14世紀、内乱期のスコットランドの首都パース。

 婚約間近のキャサリンとヘンリーが、誤解やすれ違いからいさかいになり、領主やジプシーの女王らを巻き込みながらも、最後には結ばれるという愛憎劇です。

 歌劇はあまり人気を得られず、今日でもほとんど上演されませんが、

これを惜しんだビゼーは、第2幕から5曲を選び、演奏会用の組曲としました。


 組曲は「前奏曲」「オーパード」「セレナード」「行進曲」「ジプシーの踊り」の構成です。

このうち、第2幕と第4幕で歌われるアリア「セレナード」こそが、 後にNHK「みんなのうた」で、「小さな木の実」として知られることになる歌の原曲です。

 石川皓也編曲・海野洋司作詞により、1971年、1983年、1995年に放送されました。


オペラではヘンリーが恋人を取り戻そうと、切々と歌い上げるアリアですが、「小さな木の実」は父を亡くした少年の、物語性のある歌になっています。

 海野洋司さんが交通遺児を励ます趣旨で作詞されたとのことです。


 『美しきパースの娘』は、実はもうひとつ有名な旋律を生んでいます。

 『アルルの女』第2組曲の、フルートソロが印象的な「メヌエット」です。


この旋律は『美しきパースの娘』第2幕の、ロスシー伯爵とマブの二重唱の伴奏を、ギローが編曲・転用したもので、原曲とは大きく異なっています。

 

 

 































































































もう一度 ”真珠採り” を・・・




 

作品一覧 

オペラ

オペレッタ

劇付随音楽

管弦楽曲

合唱曲

ピアノ曲

歌曲

編曲作品

曲名詳細はWikipedia を参照してください。














 

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121 : Astor Piazzolla [楽興の時]

 

 




 

Astor Piazzolla

 
















 

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Astor Piazzolla

 















 

 

アストル・ピアソラ(Astor Piazzolla, 1921311 - 199274日)はアルゼンチンの作曲家、バンドネオン奏者。

タンゴを元にクラシック、ジャズの要素を融合させた独自の演奏形態を産み出した。

















 

















♪アルゼンチン・タンゴの歴史を根底から塗り替えたピアソラ

  

バンドネオンは鍵盤式のアコーディオンと違い、ボタン式の難しい楽器です。

アルゼンチン・タンゴのイメージがあまりに強いこの楽器ですが、そもそもは教会でオルガンの代わりに用いられた簡易式のオルガンでした。

つまり、オルガンが無い時に人々は、バンドネオンで賛美の歌をうたっていたのです。 

アストル・ピアソラはアルゼンチン・タンゴの破壊者、改革者といわれます。

 単に心地よく踊るためだけにあったアルゼンチン・タンゴを、 激しい心情の表現手段として、芸術の域にまで高めたのがピアソラです。 

4歳でニューヨークに移住したピアソラは、最も多感な青年期を過ごしたその地で、 当時流行のジャズを始めとする様々な音楽に触れました。

そのことが後のピアソラの音楽性の幅広さに、大きな影響を与えています。

 一時は本格的にクラシックを学ぶためにフランスに渡ったほどです。 

しかしそこでタンゴこそが自分の原点だと再確認した彼は、帰国後、エレキギターを取り入れたブエノスアイレス八重奏団を結成。

保守的なファンからは非難を受けることになる、前衛的な音楽を展開していきました。

そしてバンドネオン、ピアノ、ヴァイオリン、コントラバス、エレキギターという、五重奏団を基本としながら、数多くの楽団の結成・解体をくり返しました。 

ピアソラの音楽にはジャズや現代音楽、バロックやフーガといった、 様々なジャンルの音楽のエッセンスが、渾然一体となっています。

“踊れないタンゴ”とも評された、ピアソラの斬新な音楽は、そのことで返ってタンゴ・ファン以外の注目を集め、タンゴをより広範囲の音楽ファンへと広めるきっかけをつくりました。 

リベルタンゴは1974年に発表されたピアソラの代表作のひとつです。

Libertangoとは、自由-libertad とタンゴ-tangoを合わせて作った造語です。

CMでも知られるヨーヨー・マのチェロ演奏も、高い人気を集めています。
















 




 

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アルフレッドアーノルドバンドネオン














 

 

ピアソラの生涯 

少年期からバンドネオン奏者時代 

1921年、アルゼンチンのマル・デル・プラタにイタリア移民三世(イタリア系アルゼンチン人)の子として生まれる。

四歳の時に一家でニューヨークに移住し、15歳までを過ごす。

この頃既にジャズに親しんでいたが、当初はバンドネオンやタンゴへの興味は薄かったという。

1931年にブロードウェイのラジオ局でバンドネオンのフォルクローレを録音し、以降ステージやラジオなどの演奏を行うようになる。

1932年に処女作『42番街に向けて着実に』を作曲している。 

アルゼンチンに移住後、父の開いたレストランでバンドネオン、ハーモニカを演奏していたが、1938年にラジオで先鋭タンゴ「エルビーノ・バルダーロ楽団」に感動して初めてタンゴの音楽性を知る。

1939年に当時最先端だったトロイロ楽団に参加し、バンドネオン奏者として徐々に頭角を表すようになる。

また、1940年から5年間、アルベルト・ヒナステラに師事して音楽理論を学ぶ。 

1944年にトロイロ楽団を脱退後、自らの楽団を率いて活動を開始、先鋭的なオーケストラ・タンゴを展開するが同時にタンゴの限界にも行き当たり、楽団を解体した後しばらく裏方活動に徹するようになった。

なお古典的なタンゴの作・編曲やクラシック作品の製作はこの頃に集中している。
















 

















 

パリ留学とタンゴ革命 

1954年、タンゴに限界を感じたピアソラはクラシックの作曲家を目指して渡仏し、パリでナディア・ブーランジェに師事する。

当初自分のタンゴ奏者の経歴を隠していたが、ナディアにタンゴこそがピアソラ音楽の原点であることを指摘され、タンゴ革命の可能性に目覚める。

 19557月に帰国後、エレキギターを取り入れたブエノスアイレス八重奏団を結成、前衛的な作風に保守的なタンゴファンから猛攻撃を受け「タンゴの破壊者」と罵られるほどだった。命を狙われたこともあったという。

結果楽団としては成功せず、いくつかのアルバム録音を残した後に新天地を求めて家族で古巣のニューヨークに移住する。

ニューヨークでは歌手の伴奏などを行ったほか、実験的なジャズ・タンゴと称する編成を組んだ。 

1959年に父の死に捧げた代表作『アディオス・ノニーノ』を作曲する。

翌年帰国後に初演。バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバス、エレキギターからなる五重奏団を結成し、以後ピアソラの標準的グループ構成となる。

















 

















五重奏団以降 

これ以後のピアソラは理想的な音楽編成を求めて数多くの楽団の結成・解体をくり返す。

1963年 新八重奏団1971 - 1972年 九重奏団1978 - 1988年 後期五重奏団1989年 六重奏団  などである。

これらピアソラの楽団に所属することはサッカー王国アルゼンチンでナショナルチームに所属することと同じほどの名誉だったとされる。

この間1973年の心臓発作による休養や1988年の心臓バイパス手術など、健康面に不安を見せながら傑作の数々を残している。

1990年パリの自宅で脳溢血により倒れ闘病生活に入る。

大統領専用機でアルゼンチンに帰国する。

1992年ブエノスアイレスの病院にて死去。71歳。







































 

ピアソラの音楽 

ナディア・ブーランジェはピアソラの原点はあくまでタンゴだと指摘した。

しかし、少年時代のニューヨーク生活などの経験から、タンゴ奏者でありながらもタンゴを外から眺める目もまた持っていた。 

元来タンゴは踊りのための伴奏音楽であり、強いリズム性とセンチメンタルなメロディをもつ展開の分かりやすい楽曲であった。

ピアソラはそこにバロックやフーガといったクラシックの構造や、ニューヨーク・ジャズのエッセンスを取り入れることで、強いビートと重厚な音楽構造の上にセンチメンタルなメロディを自由に展開させるという独自の音楽形態を生み出した。

これは完全にタンゴの表現を逸脱しており、「踊れないタンゴ」として当初の評判は芳しいものではなかった。

一方で、ピアソラの音楽はニューヨークなどのあまりタンゴと関わりを持たない街で評価された。

現在では、タンゴの可能性をローカルな音楽から押し広げた功績は、アルゼンチンのみならず国際的に高く評価されている。 

ピアソラの音楽は共演者から「二十年先行していた」と評価され、ピアソラ一代で完全に閉じているためにタンゴ全体の未来はピアソラの先にない、という見方がある。















 





























































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バンドネオン



































アストル・ピアソラの作品については、Wikipedia を参照されたい。











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120 : Bartók Béla Viktor János [楽興の時]

 

 




 

Bartók Béla Viktor János

 
















 

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Bartók Béla Viktor János













 

 

バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(Bartók Béla Viktor János [ˈbɒrtoːkˌbe̝ːlɒˈviktorˌjɑ̈ːnoʃ], 1881325 - 1945926日)はハンガリー王国のバーンシャーグ地方のナジセントミクローシュに生まれ、ニューヨークで没したクラシック音楽の作曲家、ピアノ演奏家、民俗音楽研究家。

 作曲以外にも、学問分野としての民俗音楽学の祖の1人として、東ヨーロッパの民俗音楽を収集・分析し、アフリカのアルジェリアまで足を伸ばすなどの精力的な活動を行った。

またフランツ・リストの弟子トマーン・イシュトバーン(1862114 - 1940922日)から教えを受けた、ドイツ・オーストリア音楽の伝統を受け継ぐピアニストでもあり、コンサートピアニストやピアノ教師として活動した。

ドメニコ・スカルラッティ、JS・バッハらの作品の校訂なども行っている。










 



 

♪打楽器のような野性味あふれるピアノ



  20世紀の音楽史上欠くことのできない人物とされるバルトーク。

様々な革新的な試みもさることながら、なぜ他の現代音楽作曲家とは一線を画す位置づけにあるのか・・・


 それはきわめて現代的な手法の中にも、古典に対する敬意が、作風にしっかりと表れているためといわれます。これはプロコフィエフにも同じことがいえるかもしれません。 

「アレグロ・バルバロ」はバルトークがピアノを、打楽器のように使い始めた中期の作品で、パリでのピアノ演奏会の際“ハンガリーの野蛮(バルバロ)な若造”と書かれたことへの皮肉ともいわれています。同時代のストラヴィンスキーからの影響も垣間見られます。









 

生涯 

幼少期 

1881年、ナジセントミクローシュ(現在のルーマニア、ティミシュ県のスンニコラウ・マレ)に農学校校長で同名の父バルトーク・ベーラ(1855-1888年)とピアノ教師でドイツ系の母パウラ・ヴォイト(1857年-1939年。スロヴァキアのマルチン出身)の間に生まれる。

父は町に音楽協会を設立するほどの熱心な音楽愛好家でもあり、自身でもピアノやチェロをたしなむ人物であった。

母のパウラによれば、バルトークは病弱だったが、きちんと言葉をしゃべる前から母のピアノ演奏のダンスのリズムを区別し、3歳くらいから母のピアノ演奏に合わせて太鼓を叩き、4歳では自己流で40曲のピアノ曲を弾くなど音楽的素養を見せていた。

そこで彼女は娘を出産した後の5歳頃から息子に正式なピアノ教育を始める。 

しかし7歳の時に父が病気(アジソン病だったと言われている)で32歳の若さで急死、ピアノ教師として一家を支えることとなった母の仕事の都合でナージセレーシュ(現在のウクライナ、ヴィノフラージウ)に転居、その後各地を転々とする。

9歳前後から習作的なピアノ曲も書き始め、10歳の時にはピアニストとしての初舞台を踏むが、彼女は息子を天才少年ピアニストとして売り出す気はなく、まずは普通に教育を受けることになる。

1893年に音楽活動の活発だったポジョニに母と赴いた際、作曲家エルケル・ラスローに指導してもらう機会を得る。

翌年、母がポジョニに仕事を得たため同地へ引っ越し、当地のギムナジウムに入学。エルンスト・フォン・ドホナーニと知り合い友人となる。









 



 

音楽家への道と民謡との出会い 

学内でもピアニストやオルガニストとして活動し、ヨハネス・ブラームスの影響を受けた作曲活動にも取り組んでいたバルトークは、1898年にはウィーン音楽院に入学を許可される。

しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリーの作曲家としての自分を意識すべきだというドホナーニの薦めに従い、翌年ブダペシュト王立音楽院(後のリスト音楽院)に入学。

作曲をハンス・ケスラー、ピアノをトマーン・イシュトヴァーンに指導を受ける。ここではワグネリアンの学長からリヒャルト・ワーグナーの洗礼を受けるが、既にブラームスの影響を脱して先に進もうとしていた彼に、ワーグナーは答えをくれなかったと回想している。 

1902年、21歳の時にリヒャルト・シュトラウスの《ツァラトゥストラはこう語った》に強烈な衝撃を受け、交響詩《コシュート》を作曲。1848年のハンガリー独立運動の英雄コシュート・ラヨシュへの賛歌であった為、当時ハプスブルク帝政の支配下にあったブダペシュトの世論を騒がせた。

1904年にはゲルリーツェプスタ(現在スロヴァキア領)で初めてトランシルヴァニア出身者の歌うマジャル民謡に触れる。 

1905年、パリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場。

作曲部門では入賞せず奨励賞の第2席、ピアノ部門では2位であった(優勝者はヴィルヘルム・バックハウス)。

自分の人生をピアニストとして描いていたため、優勝を果たせずかなり落胆したようであるが、それ以上に作曲部門での結果の方がショックだったようである。

しかし、ハンガリーでは知られていなかったクロード・ドビュッシーの音楽を知るという収穫を得た。

また民謡について科学的アプローチを始めていたコダーイ・ゾルターンに出会う。 

1906年からコダーイやその他の研究者達と共にハンガリー各地の農民音楽の採集を始める。

1913年にアルジェリアへ赴いた他は、専ら当時のハンガリー国内で民族音楽を採集していた。 

1907年、26歳でブダペシュト音楽院ピアノ科教授となる。

ピアニストとして各地を旅するのではなく、ハンガリーに留まったことで、更なる民謡の採集が進み、民謡の編曲なども行う。

この時点でも、彼の大規模な管弦楽作品はまだブラームスやリヒャルト・シュトラウス、さらにはドビュッシーの影響を感じさせるものであるが、ピアノ小品や親しかった女性ヴァイオリン奏者シュテフィ・ゲイエルに贈ったヴァイオリン協奏曲第1番(ゲイエルの死後発表)の2楽章などでははっきりと民謡採集の影響が表れている。

1908年の弦楽四重奏曲第1番にも民謡風要素が含まれている。

またトマーンの紹介で知己を得ていたレオポルド・ゴドフスキー、バルトークの作品を評価したフェルッチョ・ブゾーニの推挙も得て、ピアニストとしてだけではなく作曲家としての名も次第に浸透し始める。 








 



 

スタイル確立と第一次世界大戦 

1909年、ツィーグレル・マールタ(Ziegler Márta)と結婚。

1910年には長男ベーラ(バルトーク・ジュニア)が生まれる。

この年、フレデリック・ディーリアスと知り合い、彼の作品の影響も受ける。

 1911年、ただ1つのオペラとなった《青ひげ公の城》を書き、ハンガリー芸術委員会賞のために提出したが、演奏不可能という事で拒絶された。

結局この曲は1918年まで演奏されなかった。

当時バルトークは、政治的見解から台本の作家バラージュ・ベーラの名を伏せるように政府より圧力をかけられていたが、これを拒否し、同時に自身の作品がなかなか顧みられない現状に疲れてしまい、ピアノ科教授以外の公的な立場から身を引いた。

その後の人生でバルトークは民謡への愛着は別として、ハンガリー政府や組織とは深く関わらないようにしている。

芸術委員会賞に失望した後23年の間、作曲をせず、民謡の収集と整理に集中していた。

 1914年、第一次世界大戦の勃発により、民謡の収集活動が難しくなったため作曲活動に戻り、1914年から16年にかけてバレエ音楽《かかし王子》、1915年から17年には《弦楽四重奏曲第2番》を書いている(採集活動自体は1918年まで行っている)。

1918年には《かかし王子》の初演が成功し、ある程度国際的な名声を得た。

引き続き《青ひげ公の城》が初演される。

同年、レンジェル・メニヘールトの台本によるパントマイム《中国の不思議な役人》の作曲を開始する。

しかし第1次世界大戦で敗戦国となったハンガリーはトリアノン条約による国土の大幅な縮小とその前後の政治の混乱に巻き込まれ、ピアニストや民俗音楽の研究家としての名声が高まるのとは裏腹に、本人としては不本意な時期が続く。 

1921年から22年にかけてヴァイオリンのためのソナタを2つ書き、イェリー・ダラーニのヴァイオリンと自らのピアノで初演。

更に彼女に同行してイギリスやフランスで演奏旅行を行う(この際、モーリス・ラヴェルやストラヴィンスキーと会っている)。

これはそれまでに作曲した中で和声上、構成上最も複雑な作品である。

また民謡的要素を自分の作品の中で生かすということに自信を深めたのか、それまで編曲作品と自作を区別するために付けていた作品番号を、ソナタ第1番の出版譜からは付けなくなった。

 



 

様々な活躍と、第二次世界大戦 

1923年、ツィーグレル・マールタと離婚し、ピアノの生徒であったパーストリ・ディッタ(Pásztory Ditta)と結婚。

1924年には次男ペーテル(バルトーク・ペーテル、Bartók Péter)が誕生している(ペーテルは後年アメリカで録音技師として活躍し、父親の作品を中心に優秀な録音を世に出した。また楽譜の校訂にも大きな功績がある。)。

 同じ1923年には、政府からの委嘱により、ブダペシュト市政50年祭のために《舞踏組曲》を提出。

この後、1926年にピアノ・ソナタやピアノ協奏曲第1番などを発表するまで3年ほど作品を発表せず、民俗音楽の研究や演奏会活動にやや力を入れるが、1927年から翌年にかけて、彼の弦楽四重奏曲としてもっとも高い評価を受けている第3番と第4番を作曲した。

またピアノ協奏曲第1番をヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮と自らのピアノで初演する。

その後も演奏家として1929年から30年にはアメリカやソヴィエトへの演奏旅行を行い、ヨゼフ・シゲティやパブロ・カザルスらと共演している。 

1934年には音楽院ピアノ科教授の任から離れ、科学アカデミーの民俗音楽研究員となり、作曲とピアノ以外は自分や後進の研究者達が収集したコレクションの整理に取り組める環境を得る。

1936年、バーゼル室内管弦楽団を率いていたパウル・ザッハーの委嘱で《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》を作曲。

翌年ザッハーの手で初演が行われた。 

1939年には《弦楽四重奏曲第6番》を作曲したが、第二次世界大戦が勃発し、民俗音楽の研究を出来る環境を求めており、またその文化政策などからナチス嫌いでもあったバルトークは、同年の母の死を機にヨーロッパを去ることを考え始めていたことをうかがわせる作品となった。

この頃、反ユダヤ主義者との対話の中で、自らの祖父ヤーノシュがユダヤ人だったことを示唆しているが、ヤーノシュはマジャル人の父とクロアチア人の母の間に生まれ、ユダヤ人ではなかった(ただし、ディッタ夫人はユダヤ系の血をひいている)。

 


 

アメリカ移住と死 

母親の死以前から、バルトークは政治的に硬化していくハンガリーを去り、自身のライフワークである民俗音楽の研究に打ち込める環境を求めて他国へ移住することも検討し始めていた。

はじめはトルコのアンカラへの移住を検討するが環境が整わないことから断念した。

最終的には1940年春にアメリカ合衆国への演奏旅行の際、友人達にアメリカへ移住の可能性を打診、彼らの協力でコロンビア大学の客員研究員として南スラブの民俗音楽の研究に取り組む手はずを整えると一旦帰国。

108日にブダペストのリスト音楽院の大ホールで告別コンサートを開き、長男とコダーイに後を託し、ザッハーやかつての恋人・ゲイエルなど友人達の助力を受け、妻と膨大な研究資料や自作資料と共にアメリカ合衆国へ移住した。

なお、次男ペーテルは全寮制の学校に在学中のためハンガリーに残ったが1年後単身アメリカに渡り、その後アメリカ海軍の招集に応じた。

 少々自己中心的で人と打ち解けるタイプではなかったバルトークにとって、アメリカは決して居心地は良くなかったし、研究や講演以外はピアニストとして生計を立てるつもりだったとはいえ、作曲する気にもならなかったようで、演奏会活動を行う以外は、先のコロンビア大学での研究の他、ヨーロッパから持ち込んだ民俗音楽の研究に没頭していた。

しかし1940年ごろから右肩周辺に痛みを感じるなどの不調があった健康状態は次第に悪化、1942年になると断続的に発熱を繰り返すようになった。

1943年初頭にはとうとう入院してそれらの活動はすべて中断する。 

フリッツ・ライナーなどアメリカ在住のバルトークの友人たちは、戦争で印税収入が滞るなど収入源の無くなってしまった彼を支援するため「作曲者・著作者・出版者の為のアメリカ協会 (the American Society for Composers, Authors, and Publishers) 」に医療費を負担させるよう働きかけ、更に当時ボストン交響楽団を率いていた指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーに、彼の財団と夫人の思い出のための作品をバルトークに依頼させる。

すると驚異的なスピードで《管弦楽のための協奏曲》を完成。

この依頼があって作曲への意欲が引き起こされたようで、ヴァイオリン・ソナタを演奏会で取り上げる際にアドヴァイスを求めに来て親しくなったユーディ・メニューインの依頼で《無伴奏ヴァイオリンソナタ》にも着手し、1944年には両曲の初演にそれぞれ立ち会う。

出版社との新しい契約で収入面の不安もやや改善され、健康状態も小康を取り戻して民俗音楽の研究も再開した。しかし、その病は白血病だった。 

1945年、《子供のために》や《管弦楽のための協奏曲》の改訂をする傍ら、妻の誕生日プレゼントにしようと軽やかで新古典派的な《ピアノ協奏曲第3番》、ウィリアム・プリムローズから依頼された《ヴィオラ協奏曲》に着手するが、ともに完成させることができずに、926日、ニューヨークのブルックリン病院で没した。

前者はほとんどできあがっており(オーケストレーションが17小節残された)、草稿段階にとどまった後者とともに、友人でハンガリー系の作曲家シェルイ・ティボール(Sérly Tibór)によって補筆完成された。 

遺体は「ナチスドイツや共産主義ソ連の名前が残っている内は祖国に埋葬しない」との遺言に基づき、ニューヨーク州ハーツデイルのファーンクリフ墓地に埋葬されたが、ハンガリー社会主義労働者党が一党独裁放棄を決めるなど民主化が進んだことから、バルトークの二人の子息と指揮者ゲオルグ・ショルティらの尽力で亡骸が198877日ハンガリーに移送され、国葬によりブダペシュトのファルカシュレーティ墓地に埋葬された。

現在ファーンクリフには記念碑が残されている。










 


 

作風 

本人が「若い頃の私にとって、美の理想はベートーヴェンだった」と回想しているようにドイツ・オーストリア音楽の強い影響から出発したが、ハンガリー民族やハンガリー王国内の少数民族の民謡をはじめとした民俗音楽の収集による科学的分析から、その語法を自分のものにしていった(同様の活動を行った先人にチェコのヤナーチェクがいる)側面と、同時期の音楽の影響を受けた側面のバランスの中で作品を生み出す、という独自の道を歩んだ。

ただし、彼の楽曲は民俗音楽の旋律やリズムだけではなく構造面も分析したうえで、なおかつソナタ形式など西洋の音楽技法の発展系を同時に取り入れて成立していることや、過去の音楽に目を向けて新しい音楽を生み出そうとした点など、音楽史的には新古典主義の流れの1人と位置付けても間違いではないだろう。

 


 

ピアニストとして 

体格的には決して大柄ではなかったが、手はかなり大きかった。

そしてヴィルトゥオーゾとして自身の未来を思い描くほどの実力を持つリスト直系の弟子であり、晩年までピアニストとしての活動も行った。

手紙などでは伴奏家としての腕前も自負していたようで、多くのソリストとの共演歴もある。

自作自演やシゲティとの共演などの録音も残しているため、彼の演奏はCDなどで聴くことが出来る。 

ドイツ・オーストリア音楽をレパートリーとしていたが、スカルラッティの編纂を行って自ら演奏したり、自らに多大な影響を与えたドビュッシーの作品も多く取り上げていた。

自作のピアノ曲も自身が演奏会に取り上げるために書かれたものが少なくない。 

また作曲は教えなかったが、ピアノ教育には熱心だった。

自作でも教育のための作品は重要な位置を占めており、リスト音楽院ではピアノの教授として多くの弟子を育てた。シャーンドル・ジェルジやリリー・クラウス、ゲザ・アンダなどのピアニストを直接指導したほか、指揮者のアンタル・ドラティや、作曲家でバルトークの民俗音楽研究の助手も務めたヴェレッシュ・シャーンドルなどがピアノの弟子である。

また、指揮者ゲオルグ・ショルティは直接の弟子ではなかったが、指導教授の代役として一時バルトークのピアノのレッスンを受けたことがあったことを回想している。

 





















 
   
   









 

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119 : Johan Halvorsen [楽興の時]

 

 

 

Johan Halvorsen
















 

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Johan Halvorsen

 

 

 

 

 

ヨハン・ハルヴォシェン(Johan Halvorsen, 1864315日 ドランメン - 1935124日)はノルウェーの作曲家・指揮者。

うら若い頃から洗練されたヴァイオリニストとして活動し、ノルウェー楽壇の著名人となった。

日本では一般にヨハン・ハルヴォルセンとして知られており、以下その慣例に従う。














 






 

 

 

 

クリスチャニア(現オスロ)とストックホルムで音楽教育を受け、ベルゲンでコンサートマスターに就任した後、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に入団。

その後8年間を音楽活動と学習のために国外で過ごし、スコットランドのアバディーンでコンサートマスターとして過ごしたのを皮切りに、次いでヘルシンキで教授に就任し、最終的には再び学生に戻ってサンクトペテルブルクやベルリン、リエージュに留学した。


















 












♪ヴァイオリンとヴィオラが奏でる美しい二重奏



ハルヴォルセンは大作曲家グリーグを義父に持つ、ノルウェーのヴァイオリニスト、指揮者、作曲家です。


作曲を始めたのは20歳代後半になってからで、グリーグやスヴェンセンなどの影響を受けつつも、ノルウェーの民族的ロマン主義を発展させた、独自の音楽様式を築きました。


「ヘンデルの主題によるパッサカリア」はそんなハルヴォルセンを現代にも伝える、代表的な曲のひとつです。


ヴァイオリンとヴィオラの二重奏曲であるこの作品は、ヘンデルの「チェンバロ組曲第7番ト短調」の終楽章の主題に基づき、変奏曲として展開されています。

主題はヘンデルですが、ハルヴォルセンの持ち味が充分に織り込まれた独創的な作品です。


パッサカリアとは、スペイン語の“パサカージェ”を語源に持つ、古い舞曲による音楽形式のひとつです。


繰り返される一定の低音パートの上で高音が様々に変化していく変奏曲のことを指します。



 

 



 



 

 

 





 

1893年にノルウェーに帰国し、ベルゲン国立劇場のオーケストラの指揮者に就任する。

1885年にベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターとなり、1893年には首席指揮者に抜擢された。

1899年には新設されたクリスチャニア国立劇場のオーケストラの指揮者に任命され、1929年に引退するまで30年間にわたってその座にあった。

舞台音楽に加えて30曲のオペラ公演を指揮し、30曲以上の劇付随音楽を作曲した。

劇場を引退してからは、折に触れて作曲に専念し、3つの壮大な交響曲や2つのノルウェー狂詩曲を作曲した。

 
















ハルヴォルセンの作品は、華麗な管弦楽法を特徴とする作風によって、エドヴァルド・グリーグによって実現されたロマン主義的な国民楽派の伝統を発展させたものである。

ハルヴォルセンはグリーグの姪と結婚し、またグリーグのいくつかのピアノ曲に管弦楽法を施した。

『ペール・ギュント』が1886年に再演された際の追加曲「花嫁の行列の通過」はその一つである。

また、ハルヴォルセン編曲の《リカルド・ノルドローク追悼の葬送行進曲》は、グリーグの葬儀で演奏された。 

こんにち最も有名な作品は、《ロシア貴族の入場(Bojarenes inntogsmarsj)》と《ベルゲン賛歌(Bergensiana)もしくはベルゲンの昔の旋律によるロココ変奏曲》のほかに、ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲《ヘンデルの主題によるパッサカリアとサラバンド》である。

















































































































































































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 猛暑 お見舞い

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特大の 練乳掻き氷を どうぞ・・・ ^^

 

 

 

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118 : Agustín Pío Barrios [楽興の時]

 

 




 

Agustín Pío Barrios
















 

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Agustín Pío Barrios

 










 

 

アグスティン・ピオ・バリオス(スペイン語: Agustín Pío Barrios, 188555日 サン・ファン・バウティスタ・デ・ラス・ミショーネス - 194487日 サンサルバドル)はパラグアイのギタリスト・作曲家・詩人である。

アグスティン・バリオス=マンゴレ(スペイン語: Agustín Barrios Mangoré)とも呼ばれる。 

パラグアイの5万グアラニー紙幣に肖像が使用されている。









 




















生い立ち 

少年時代から音楽と文学に熱中する。

バリオスはグアラニー語とスペイン語の二つを話したが、さらに3つの言語(フランス語、英語、ドイツ語)を読むことが出来た。

バリオス少年が音楽に目覚めたきっかけは、ポルカやバルスを含むパラグアイのフォルクローレであった。

十代にならないうちから楽器に興味を持つようになり、とりわけギターを好んだ。 

1898年にバリオスは、グスターボ・ソーサ・エスカラダによって公式にクラシック・ギターの音楽に開眼する。

その頃バリオスはすでにいくつかギター曲を創っており、旧師のアリアスが作曲した《 La Chinita 》や《 La Perezosa 》といった曲も弾いていた。

新たな教師ソーサ・エスカラダに影響されて、ソルやアグアド、ビナス、タルレガの作品を研究し、演奏するようになった。

ソーサ・エスカラダは、この新しい弟子に感銘を受け、バリオスの両親に、息子をアスンシオンに行かせて音楽教育を続けさせるように説き伏せた。 

1901年にアスンシオンに行くと、13歳にして、奨学金を得てアスンシオン国立大学(英語版)音楽学部に通い、パラグアイの歴史上で最も若い大学生となった。

大学での音楽の学習を別にすると、数学やジャーナリズム、文学の分野でも教員から称賛を浴びた。

1905年ごろになると真剣に作曲活動に取り掛かったのだが、この頃にはすでに大方のギター奏者の演奏技巧や演奏能力を上回るようになっていた。















 














演奏活動 

1906年に21歳で大学を卒業すると、首都アスンシオンで本格的な演奏活動に入り、その後は音楽活動と詩作に生涯を捧げることとなる。

バリオスは、実演や録音を通じて、驚異的な演奏力で名を馳せた。

1910年にはアルゼンチンやウルグアイでもしばしば演奏し、1916年にはブラジルに赴いてこの地で15年ほど生活することになる。

その間に、自作の演奏によってエイトル・ヴィラ=ロボスを驚嘆させた。 

しかし、旅を愛するロマンティックな流浪の詩人でもあったためか、1931年にはブラジルを離れて諸国を転々とするようになり、同年のベネズエラ公演では、興行主の依頼に応じて鳥の羽根で頭を飾り、パラグアイの伝統的な民族衣裳を身に着けて舞台に上がった。

数年間「ニツガ・マンゴレ(Nitsuga Mangoré)」との偽名を名乗ったこともある。

Nitsuga とはすなわち Agustin の逆綴りであり、Mangoré とはパラグアイにいた伝説の大酋長の名前のことである。

グアラニー族の血を享けたことを誇りとしたからであった。 

大方散逸したとはいえ、バリオスは300曲以上のギター伴奏歌曲を作曲し、それらの歌詞もバリオスが手ずから書き上げている。

頻繁な南米旅行を通じて幾多の友情にも恵まれ、友人や支持者に自作の詩を手書きで与えていたことは有名だった。

そのためにバリオスの詩作品は、中南米(ラテンアメリカ)各地やアメリカ合衆国で、異なる版が出回る結果となっている。 

その後も中南米の多くの国で演奏活動を続け、1934年から1936年にはヨーロッパを訪問して名声を博した。

晩年は中米のエルサルバドルの音楽院でギター科教授を勤めている。
















 














最期 

1944年に、心臓病のためエルサルバドルに客死し、サンサルバドルのロス・イジュストレス墓地に埋葬された。59歳であった。

パラグアイでは、バリオスは今なお尊敬されており、すべての時代を通じて最も偉大な音楽家の一人と見られている。















 













作曲 

バリオスは20世紀の音楽家であったが、その作品は後期ロマン主義音楽の特徴が見受けられる。

作品の多くは、中南米の民俗音楽に感化されている。

超絶技巧を要する作品も非常に多い。 

バリオスの作品は、3つの根本的なカテゴリーに分けることができる。

国民楽派、パスティーシュ、宗教性である。

中米や南米の民謡を模倣した楽曲を創り出すことによってバリオスは母国の音楽伝統や民衆に敬意を払っている。

バロック音楽やロマン派音楽の時代様式と作曲技法を模倣することは、バリオスの職人芸の一端であり、《大聖堂(La Catedral)》(1921年)はバッハの摸作と看做し得る。

この《大聖堂》は、バリオスの宗教体験に触発されており、したがって宗教的な楽曲に分類してもよい。

信仰心や宗教体験は、バリオスの作曲過程においても重要な役割を担っている。

「最後のトレモロ」という通称で知られる《神様のお慈悲に免じてお恵みを(Una Limosna por el Amor de Dios)》は、信仰心に触発されたもう一つの例である。

バリオス作品を分析してこれら3つのカテゴリーに分けることは、ギター音楽愛好家にとって、作曲者の音楽的な意図を理解する手引きになるであろう。















 













作品

(評価と受容) バリオスの作品をクラシック・ギターの最もすぐれた楽曲として擁護した先駆者は、分けてもジョン・ウィリアムズであった。

ウィリアムズは、1953年にアリリオ・ディオスにバリオスのパラグアイ舞曲やショーロを教えられてから、バリオスに傾倒するようになったという。 

曰く、「バリオスは、ギタリスト兼作曲家として、評判はどうあれ、たくさんの中の最高の一人である。

その音楽は、大半が巧みに構成され、大半が詩的であり、大半が何かしらの美点を含んでいる。

しかもこれらの大半は、時代を超越しているという見方ができるのだ。 

バッハに触発された《大聖堂》は、バリオスの作品中では最も印象深いとしばしば評され、アンドレス・セゴビアさえも称賛を惜しまなかった。

とはいえセゴビアはバリオスの作品を過小評価しており、バリオスが死後に作曲家ならびに演奏家として非難を受けたのも、「ギターの神様」と見做されたセゴビアが手回ししたためだと伝えられる。

皮肉にも、ジョン・ウィリアムズはセゴビア最後の高弟の一人であった。 

メキシコ在住のペルーのギタリスト、ヘスス・ベニーテス=レジェスは1974年にバリオスを再発見し、バリオス研究家から「マンゴレ最後の使徒」と見做されてきた。

ベニーテス演奏によるバリオス作品集の2枚組CDは、2007年にメキシコと日本でだけ頒布された(また、全音楽譜出版社より、ベニーテス編纂による全4巻のバリオス作品集も出版されている)。

この録音は、バリオス研究家によると、ジョン・ウィリアムズの解釈よりも繊細ですぐれているという。 

バリオス作品を録音している演奏家は世界中におり、シラ・ゴドイやデイヴィッド・ラッセル、シャロン・イスビン、ベルタ・ロハス、アベル・カルリェバロ、カルルシュ・バルボサ=リマ、エドゥアルド・フェルナンデス、セザール・アマロ、ラウリンド・アルメイダ、アンティゴニ・ゴーニ、ヤコヴォス・コラニアン、ヴルフィン・リースケ、アンヘル・ロメロ、エンノ・フォールホルスト、李潔、村治佳織、木村大らの名が揚げられる。

 バリオスは、ちょうどラフマニノフと同じく、並外れて大きな手をもつ演奏家であった。

このためその作品は、技巧的に難度が高い箇所だけでなく、一般的には不可能な運指が左手に要求された箇所も散見される。

このような場合は、かなり長い指を持った演奏者でさえも苦戦を味わうことが多い。
















 




 

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Agustín Pío Barrios 1922















































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117 : Maria Theresia von Paradies or Paradis [楽興の時]

 

 

 

Maria Theresia

von Paradies or Paradis

 
















 

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Maria Theresia von Paradies or Paradis

 


 

マリア・テレジア・フォン・パラディス(ドイツ語: Maria Theresia von Paradies or Paradis, 1759515日 ウィーン - 182421日)は、オーストリアの女性音楽家(ピアニスト、歌手 )、作曲家。若い時に失明した。

      

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『ピアノ協奏曲第18番 変ロ長調』はパラディスのために書かれたと言われている。








 














♪モーツァルトとも交友のあった盲目の女流ピアニスト  

マリア・テレジア・フォン・パラディスは、モーツァルトとほぼ同時代にウィーンに生まれ生きた、女流作曲家、ピアニストです。 

わずか4歳で失明しますが、名付け親であるマリア・テレジア女帝の援助により高度な音楽教育を受け、ピアニストとしてヨーロッパ演奏旅行をしたり、作曲家としても数多くの作品を残しました。

晩年にはウィーンに音楽学校も建てています。 

パラディスと交流もあったモーツァルトは、彼女の為にピアノ協奏曲第18K.456を作曲し献呈しています。 

フォーレやレスピーギでも知られるシチリアーノは、シチリア半島を起源とする8分の6拍子の舞曲のことです。

パラディスのシチリアーノは室内楽曲として知られていますが、本来はピアノ独奏曲のようです。









 
















 

初期の人生 

パラディスの父親、ヨーゼフ・パラディスは帝国商務省長官で皇后マリア・テレジアの宮廷顧問官だった。

よく皇后が彼女の名付け親だと言われるが、事実はそうではない。

パラディスが視力を失ったのは、2歳から5歳の間だった。 

1766年の後半から1777年の中頃まで、パラディスは高名なフランツ・アントン・メスメルの治療を受けた。

メスメルはパラディスの症状を一時的に回復させることができたが、パラディスはメスメルの治療を取りやめた。

その理由は、一方ではメスメルが催眠療法に用いていた謎の楽器「グラス・ハーモニカ」が人を狂わせたり死に至らしめるという世間の混乱によって禁止令が発令されたのにかかわらず、メスメルは禁止令に反して不当にグラス・ハーモニカを療法に使い続けたというスキャンダルと、もう一方ではパラディスの障害者年金の含み損とも言われるが、いずれにせよ、メスメルと別れたことで、パラディスの視力は一生失われたままだった。

パラディスの治療を完遂できなかったことと、グラス・ハーモニカの禁止令に背いたことから、世界の催眠療法の先駆者であるメスメルはウィーン追放を命じられ、彼の人生にとっては大きな転機を強要させられる事件となった。 

パラディスは以下の人々から音楽教育を受けた。

Carl Friberth(音楽理論と作曲)

・レオポルト・アントニーン・コジェルフ(ピアノ)

・ヴィンチェンツォ・リギーニ(Vincenzo Righini)(歌)

・アントニオ・サリエリ(歌と作曲)

・ゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー(Georg Joseph Vogler)(音楽理論と作曲)  

 








委嘱

        

1775年まで、パラディスは歌手としてピアニストとして、ウィーンのさまざまなサロンやコンサートで演奏し、そのための曲を作曲家たちに委嘱した。代表的な作曲者と曲は以下の通りである。

     

・サリエリ『オルガン協奏曲』(1773年、第2楽章が紛失)

・モーツァルト『ピアノ協奏曲』(1784年、第18 K.456?

・ハイドン『ピアノ協奏曲(チェンバロ協奏曲)ト長調(Hob.III-4)』

      

おそらく初演は1784年、パリと思われるが、作曲は1770年代で、オリジナル譜は紛失している。

モーツァルトの曲に関して、Ruth Halliwellはその著書『The Mozart Family: Four Lives in a Social Context』の中でこう書いている。

      

この協奏曲が何であったかははっきりしない。

(父親の)レオポルトは(ウィーンから出した手紙の中で)(娘の)ナンネルに、「輝かしい協奏曲」と手短に説明し、パリで(nach Paris) マリア・テレジア・フォン・パラディスのために書いたものだと言った。

この文面から、彼もナンネルもその曲を知らなかったということが推察できる。もしそうなら、その曲は、その手紙の当時、ザルツブルクで最新作だったと思われるK.456より後の作品に違いない。

     

いずれにしても、パラディスが多数のソロ、宗教曲のレパートリー同様に、60曲以上の協奏曲を暗記していたことが広く伝えられていて、優れた記憶力ときわめて正確な聴力を持っていたことは確かである。

 


 










ヨーロッパ・ツアー 

パラディスの活動はウィーンだけにとどまらなかった。

1783年、パラディスはパリとロンドンに長期ツアーに出た。

母親と台本作家のヨハン・リーディンガー(Johann Riedinger)が同行した。リーディンガーはパラディスのための表記法システムを発明した人物である。

その年、一行はザルツブルクのモーツァルト家を訪問した(父子からパリについてのアドバイスを受けにだろうか?)。

8月のことだったが、ナンネルの日記では9月に会ったように書かれている。

パラディスはフランクフルトなどのドイツ各地で演奏した後、スイスにも行き、パリに到着したのは17843月のことだった。

4月、ル・コンセール・スピリチュエルで最初のコンサートが行われた(モーツァルトが曲を書いたのはこの直前だったという説もある)。

Journal de Paris」の批評はこうである。

「……誰もが彼女の演奏のタッチ、正確さ、流暢さ、生命感を解釈するために演奏を聴いたに違いない」。パリでの14回の公演はどれも、好評と賞賛を博した。

さらにパラディスはValentin Hauy(「盲人たちの父にして使徒」)の最初の盲学校設立を援助し、それは1785年にオープンした。 

1784年後半にはロンドンに渡り、続く23ヶ月、宮廷やカールトン・ホール(プリンス・オブ・ウェールズの家)、ハノーヴァー・スクエアのプロフェッショナル・コンサート、その他で公演した。

ジョージ3世のためにヘンデルのフーガを演奏し、後では、プリンス・オブ・ウェールズ(のちのジョージ4世)がチェリストとして伴奏した。

しかし、パリほどの好評は得られず、コンサートの人気もなくなった。

西ヨーロッパ・ツアーはなおも続けられ、ハンブルクではカール・フィリップ・エマヌエル・バッハと面会した。

さらにベルリン、プラハを経て、1786年、ウィーンでツアーは幕となった。

さらにイタリア各国やロシアへのツアーが行われたが、結果は得られなかった。

1797年、パラディスはオペラ『Rinaldo und Alcina(リナルドとアルチーナ)』の制作のためにプラハに戻った。









参 考

モーツアルトがパラディスのために作曲した、ピアノ協奏曲第18番 変ロ長調


 



  



作曲活動と後半生 

ヨーロッパ・ツアー中、パラディスはピアノ・ソロのための曲と声楽と鍵盤楽器のための曲の作曲を始めた。

パラディスの初期の作品として挙げられる、1777年頃から作られた4つのピアノ・ソナタは、実はピエトロ・ドメニコ・パラディーシ(Pietro Domenico Paradisi)の曲で、パラディスの作品の殆どが間違って彼のものとされている。現存するパラディスの最も初期の主要な作品は『Zwolf Lieder auf ihrer Reise in Musik gesetzt』という歌曲集で、1784年から1786年にかけて作曲された。

パラディスの最も有名な曲といえば『ピアノ四重奏のためのシチリアーノ変ホ長調(Sicilienne)』だが、この曲については、曲の発見者であるサミュエル・ドゥシュキン[1]の偽作だという説があり[2]、原曲はウェーバーのソナタ(Op.10 No.1:J.99)とも言われている。 

1789年には、パラディスは演奏よりも作曲により時間を費やすようになっていて、それは1789年から1797年にかけて、5つのオペラと3つのカンタータを作曲した事実からも明らかである。

しかし、1797年のオペラ『Rinaldo und Alcina』の失敗以降、パラディスはそのエネルギーを教育に移行させた。

1808年、パラディスはウィーンに自身の音楽学校を設立し、少女たちに歌、ピアノ、音楽理論を教えた。

学校での日曜コンサートでは、学校の傑出した生徒たちの作品が目玉となった。

パラディスの授業は亡くなる1824年まで続けられた。

 作曲に当たって、パラディスは、パートナーで台本作家のリーディンガーが作った表記法システムを使った。

それは、ヴォルフガング・フォン・ケンペレンの発明した手刷印刷機に類似したものだった。

パラディスの歌曲はほとんどがオペラ形式で、コロラトゥーラとトリルが誇示されていた。

劇形式の場面にはサリエリの影響も見受けられた。

舞台作品の多くはウィーン風のジングシュピール形式を手本とし、一方、ピアノ作品は恩師であるコジェルフの強い影響が見られる。












 

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 この絵画は本文と何の関係もありません







 

作品リスト

舞台作品

カンタータ

器楽曲



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116 : Johann Pachelbel [楽興の時]

 




 

Johann Pachelbel

 
















 

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Johann Pachelbel

 

 

 

 

ヨハン・パッヘルベル(Johann Pachelbel, ドイツ語発音: [ˈjoːhan ˈpaxɛlbl̩], [ˈpaxl̩bɛl], [paˈxɛlbl̩], 165391日(受洗) - 170639日(埋葬))は、バロック期のドイツの作曲家であり、南ドイツ・オルガン楽派の最盛期を支えたオルガン奏者で、教師でもある。

 宗教曲・非宗教曲を問わず多くの楽曲を制作、コラール前奏曲やフーガの発展に大きく貢献したところから、バロック中期における最も重要な作曲家の一人に数えられる。





 
















♪黄金の和音進行は現代のポップスでも基本  

 

“カノン”とは「かえるのうた」の輪唱のように、ひとつの旋律を複数のパートで追っかけながら演奏する形式のことです。 

「パッヘルベルのカノン」の場合、3つのヴァイオリンパートが2小節ずつ遅れて同じ旋律を演奏します。

バックでは通奏低音がひとつの進行をずっと繰り返しています。 

この和音(コード)進行は現在のJ-POPなどにも多用され“黄金のコード進行(カノン進行)”などとも言われています。 

今から約300年以上も前の音楽基礎が、現代でも連綿と生き続けているのはすごいことですよね!





















パッヘルベルの作品は生前から人気が高かったため、師事する弟子も多く、またドイツ中部・南部の多くの作曲家の手本となった。

 

現在では彼の作品で最も有名なのは「パッヘルベルのカノン」(Canon in D) であるが、これは彼が生涯に書いた唯一のカノンである。

 そのほか、シャコンヌ ヘ短調、トッカータ ホ短調などのオルガン曲、鍵盤楽器用の変奏曲集『アポロンの六弦琴』(『アポロの六弦琴』とも。Hexachordum Apollinis)などが知られている。

パッヘルベルの音楽は、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガーやヨハン・カスパール・ケルルといった南ドイツの作曲家や、ジローラモ・フレスコバルディ、アレッサンドロ・ポリエッティなどのイタリアの作曲家、さらにはフランス、ニュルンベルク楽派などの作曲家から影響を受けていたとされる。

 

パッヘルベルの音楽は技巧的ではなく、北ドイツの代表的なオルガン奏者であるディートリヒ・ブクステフーデのような大胆な和声法も用いず、旋律的・調和的な明快さを強調した、明快で単純な対位法を好んで用いた。

 一方、ブクステフーデ同様に楽器を組み合わせた多様なアンサンブルの実験も行った。教会カンタータやアリアなどの声楽曲においてもそれが行われたことは特筆に価する。

ただ、それらに見られる管楽器を含む豪華な器楽編成は、パッヘルベルの作品中では例外的であり、器楽曲作品の大半は室内楽曲である。





 








[ぴかぴか(新しい)]







オルガン曲





 

 

♪崇高さと美しさを併せ持つオルガン曲の名作 

ドイツ・バロック期の作曲家ヨハン・パッヘルベルとヨハン・ゼバスティアン・バッハは、パッヘルベルがバッハよりも、32歳年上という世代の差がありながらも、実は一度だけ、出逢っていた可能性があると推測されています。 

パッヘルベルとバッハ家の交流は1677年、彼が24歳でアイゼナハに移り、宮廷オルガン奏者の職に就いた頃に始まっています。

アイゼナハは、J.S.バッハの父ヨハン・アンブロジウス・バッハの故郷です。パッヘルベルはそこでバッハ一家と出会い、アンブロジウス・バッハと親しくなり、彼の子供たちの家庭教師を任せられました。 

バッハ家との交流は、エアフルトに転居した、翌年の1678年からも続き、パッヘルベルは、長兄のヨハン・クリストフ・バッハの家庭教師を務め、ヨハン・クリスティアン・バッハの家に住んでいました。 

ヨハン・クリストフ・バッハは、後にヨハン・ゼバスティアン・バッハを引き取り、10歳で両親を亡くしたゼバスティアンの、親代わりとなって育てた人物です。

クリストフ・バッハが169410月に結婚した際、バッハ家の人々は1023日にオールドルフでそれを祝い、音楽を提供するため作曲家たちも招待されました。 

その時はすでにクリストフの教師ではなかった、パッヘルベルも参加したと思われ、そうであれば、J.S.バッハ(当時9歳)とパッヘルベルが出会った唯一の機会です。 

その後、作曲家となったJ.S.バッハは、パッヘルベルの作品を意識するようになり、自ら編曲を行うなどして、研究や勉強を怠りませんでした。

コラールを一行ごとに区切り、その旋律の縮小形による模倣から主旋律に入る「パッヘルベル・コラール」と呼ばれる様式は、J.S.バッハに大きな影響を与えました。 

オルガン曲の作曲家としても名高かったパッヘルベル。そんな彼の最高傑作と呼ばれるのが「シャコンヌ ヘ短調」です。 

多くのオルガン曲を作曲し、シャンコンヌも6曲が残されていますが、ヘ短調の格調の高さと、美しさは群を抜いています。 

シャコンヌとはバロック時代に流行した、ゆったりとした3拍子の変奏曲の一種で、低音が4小節または、8小節の短い定型を何度も繰り返しながら、その上で次々と新しい旋律が変奏されていきます。 

しかし、カノンの低音のように、まったく同じフレーズが繰り返されるのではなく、基本は保ちながらも、時には違った和音進行をとるなど、様々な変化を見せます。 

特に、変イ長調に転じる[7:24]からの展開は効果的であり、またとても美しいです。 

シャコンヌといえば大バッハとヴィターリが有名です。しかし、パッヘルベルも3大シャコンヌとして、ここに加えても遜色ないほどです。

カノンばかりが目立つ一発屋扱いも、これを聴けば不当だとお分かりいただけるはずです。

  











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パッヘルベルの生涯にとって重要な役割を果たした、ニュルンベルクの聖ゼーバルドゥス教会

生涯

  

1653年~1673年: 幼年期から学生時代(ニュルンベルク、アルトドルフ、レーゲンスブルク)

  

パッヘルベルは1653年、ニュルンベルクの中流家庭に、ワイン商のヨハン・(ハンス)・パッヘルベル(1613年ヴンジーデル生)とその後妻アンナ(アンネ)・マリア・マイアーの息子として生まれた。

正確な誕生日は分かっていないが、91日に洗礼を受けていることから8月下旬頃ではないかと見られている。

 

少年時代には、後に聖ゼーバルドゥス教会(ゼバルドゥス教会、ゼーバルト教会とも。ルター派)の聖歌隊先唱者となった音楽家・音楽教師ハインリヒ・シュヴェンマーから音楽の教育を受けた。

 同教会のオルガン奏者で、ニュルンベルク楽派の主要な作曲家でもあるゲオルク・カスパル・ヴェッカーにも師事していたとする文献もあるが、現在では疑問視されている。

シュヴェンマーとヴェッカーはいずれも、ニュルンベルク楽派の創始者の一人であるヨハン・エラスムス・キンダーマンに師事していた者たちである。

(なお、キンダーマンは一時期ヨハン・シュターデンの弟子であった人物)

  

パッヘルベルの生涯についての重要な文献とされている "Grundlage einer Ehrenpforte" (Hamburg, 1740) の著者ヨハン・マッテゾンによると、若い頃のパッヘルベルは音楽と学問の両面に優れていたという。

 

パッヘルベルは初等教育を聖ローレンツ基幹学校とニュルンベルクの "Auditorio Aegediano" で修めたのち、1669629日にアルトドルフ大学に入学、同年そこで聖ローレンツ教会のオルガン奏者に指名された。

 経済的な理由によって1年も経たないうちに大学を辞めざるを得なくなったが、彼は勉学を最後まで修めるため、1670年にレーゲンスブルクのギムナジウム・ポエティクムの奨学生となった。

その学校の教授たちは、パッヘルベルの学問の才能に感動したという。 

パッヘルベルは学外で音楽を学ぶことも許されていた。担当の教師は、ヨハン・カスパール・ケルルの弟子カスパル・プレンツであった。

ケルルはジャコモ・カリッシミをはじめイタリアの作曲家の影響を大いに受けていたため、プレンツを通じて当時のイタリアの音楽や、カトリックの教会音楽への興味を持ち始めたのかもしれない。

  

1673年~1690年: 音楽家としての活躍(ウィーン、アイゼナハ、エアフルト):省略(Wikipedia参照)

1690年~1706年: 晩年(シュトゥットガルト、ゴータ、ニュルンベルク):省略(Wikipedia参照) 





 








































































 

作品

パッヘルベルは生前からオルガン奏者として非常に有名であった。

彼は宗教曲・非宗教曲を合わせて200以上の器楽曲を制作し、当時あったあらゆるジャンルの音楽に挑戦している。

特にオルガン曲で知られ、『コラール変奏曲集』『コラール前奏曲集』など多数のコラール編曲を作曲している。

コラールを一行ごとに区切り、その旋律の縮小形による模倣から主旋律に入る「パッヘルベル・コラール」と呼ばれる様式を確立、J.S.バッハなどに影響を与えた。また、中部と南部の各地を転々としてきたことで学んだ、

歌唱的な南部の音楽様式と、中部の定旋律や対位法を用いた中部の様式を上手く統合させた作風も、パッヘルベルの特徴である。

声楽曲の分野でも多くの作品を書いており、約40曲の大作を含む100曲ほどが残されている。

わずかに室内楽曲も存在するが、アイゼナハやシュトゥットガルトで宮廷音楽家をしていた時期などにもっと多くの楽曲を作曲していた可能性もある。 

パッヘルベルの作品の主要な資料はいくつか存在するが、たとえばルイ・クープランにとってのオールダム手稿のように重要なものはない。

重要な資料のうちいくつかの手稿が第二次世界大戦の戦前・戦中に失われたが、ヴィンテルトゥール・コレクションのマイクロフィルムや、現在オックスフォード・ボドレー・ライブラリーが所有している2巻の手稿(パッヘルベルの後期の作品の中では主要なものの一つ)、弟子のヨハン・バレンティン・エッケルトが編集し、唯一パッヘルベルのサインが含まれている "Tabulaturbuch"1692年、現在はクラクフのヤギェウォ図書館 所蔵)の第一部のように部分的に現存するものもある。

ノイマイスター原稿と、いわゆる「1704年のワイマール・タブラチュア」は、パッヘルベルの作風を知る上で多くの情報をもたらしてくれるが、そのどれも確実に彼によるものとは言えないものばかりである。

  

今のところ、パッヘルベルの作品についての標準的な作品番号システムは存在しないが、Antoine Bouchard による「POP番号」(オルガン曲のみ)、Jean M. Perreault による「P番号」(アルファベット順。

現在最も完成度が高い)、Hideo Tsukamoto による「T番号」(主題によって分類されている)、Kathryn Jane Welter による 「PC番号」といった目録が使用されている。

   





























[ぴかぴか(新しい)]












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ニュルンベルクの St. Rochus墓地(Rochuskirchhof) にある、パッヘルベルの墓



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115 : Johann Sebastian Bach [楽興の時]

 

 

 

Johann Sebastian Bach

 










 

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Johann Sebastian Bach

 







 

 

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685331日(ユリウス暦1685321日) - 1750728日)は、18世紀のドイツで活躍した作曲家・音楽家である。

バロック音楽の重要な作曲家の一人で、鍵盤楽器の演奏家としても高名であり、当時から即興演奏の大家として知られていた。

バッハ研究者の見解では、バッハはバロック音楽の最後尾に位置する作曲家としてそれまでの音楽を集大成したとも評価されるが、後世には、西洋音楽の基礎を構築した作曲家であり音楽の源流であるとも捉えられ、日本の音楽教育では「音楽の父」と称された。 

バッハ一族は音楽家の家系で(バッハ家参照)数多くの音楽家を輩出したが、中でも、ヨハン・ゼバスティアン・バッハはその功績の大きさから、大バッハとも呼ばれている。JS・バッハとも略記される。









 





 

生涯 

1685331日、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下、「バッハ」とする)は、アイゼナハの町楽師でありルター派の音楽家のバッハ家の一員であるヨハン・アンブロジウス・バッハの8人兄弟の末子として生まれた。

アイゼナハ周辺にはバッハ一族80余名が生活しており、同姓同名の者もおり、そのことはバッハ史研究の難易度を上げている。

バッハが9歳の時に母が死去した。父は再婚したもののバッハが10歳の時に死去した。

バッハはオールドルフの兄ヨハン・クリストフの家に引き取られて勉学に励んだ。

1700年にリューネブルクに移り、修道院付属学校の給費生となった。   

1703年にヴァイマルの宮廷楽団に就職した。

バッハはヴァイオリンを担当したが、ヨハン・エフラーの代役でオルガン演奏もこなした。

同年、アルンシュタットの新教会(現在はバッハ教会と呼ばれる)に新しいオルガンが設置された。

その試奏者に選ばれたバッハは優れた演奏を披露し、そのまま同教会のオルガニストに採用され、演奏の他に聖歌隊の指導も任された。 

170510月、バッハは4週間の休暇を取り、リューベックに旅行した。

アルンシュタットからリューベックまでの約400kmを徒歩で向かったと言われる。

そして当地の聖マリア教会のオルガニストを務めるディートリヒ・ブクステフーデの演奏に学んだ。

当時68歳と高齢だったブクステフーデもバッハの才能を買い、自分の娘マリア・マルグレータとの結婚を条件に後継者になるよう持ちかけた。

聖マリア教会のオルガニストの地位は若いバッハにとって破格であったが、彼はブクステフーデの申し出を辞退した。

マルグレータはバッハより10歳も年上の約30歳であり、2年前にもゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとヨハン・マッテゾンが付帯条件を聞いて後任を辞退している。









 





 

バッハがアルンシュタットに戻ったのは17061月末で、4週間の休暇に対し3か月以上も留守にしていた。

オルガン演奏の代役は従弟のヨハン・エルンスト・バッハに頼んでいたが、聖職会議は彼を叱責した。

会議はさらに、ブクステフーデから受けた影響であろう「耳慣れない」音を演奏時に出すことや、聖歌隊に対する指導の不備を糾弾した。

その後11月にはまた聖職会議に呼ばれ、合唱隊の中に見知らぬ娘を入れて歌わせたということも非難された。

この娘は後に最初の妻となる遠戚でひとつ歳上のマリア・バルバラであったとも考えられる。

バッハは教会の上層にあるオルガン演奏席にも見知らぬ娘を招き入れて演奏したり、聖歌隊の音楽としては不適切な、当時としては前衛的な作品を作曲して演奏したりしたことも教会からの評価を下げた。 

その頃、すでにバッハの能力は高く評価されていた。

170612月にミュールハウゼンのオルガン奏者ヨハン・ゲオルク・アーレが亡くなり、後任の募集が行われた。ミュールハウゼンはマリア・バルバラの親戚が市参事会員であった縁もあり、バッハは応募し合格した。

17076月に移り住んだバッハは、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに招かれた。

その報酬はアルンシュタット時代とさほど変わらないが、いくぶんか条件は良かった。

同じ年、マリア・バルバラと結婚。2人の間に生まれた7人の子供のうち、フリーデマンとエマヌエルは高名な音楽家になった。

バッハの生活は決して楽なものではなく、常に良い条件の職場を探し求めていた。

生活の足しにするために、短い曲を作曲してはそれを13ターラー程度で売るという事もしていた。

その一方で、契約した先々で様々な些細なトラブルも起こしていた。

あるときは5つの仕事を同時に引き受けていたが、5つのうち4つでトラブルを抱えていた。











 


 

1708年、再びヴァイマルに移って宮廷オルガニストとなった。

多くのオルガン曲はこの時期の作品である。

1714年には楽師長に昇進、一月に一曲のカンタータを作曲、上演した。

しかし最終的には主家のお家騒動の余波を受けて1ヶ月間投獄され、その後ヴァイマルを追放された。

問題となったのはバッハの契約問題で主家の許可なく他の契約をしたためといわれる。 

1717年、ケーテンの宮廷楽長となり、恵まれた環境の中で、数多くの世俗音楽の名作を作曲した。

17195月、ハレに帰郷し家族とともに過していたヘンデルに、そこから4マイル離れたケーテンにいたバッハが会いに訪れたが、到着した日にはヘンデルが出発した後であったため会うことができなかった。

1720年夏、領主レオポルト侯に随行した2ヶ月間の旅行中に妻が急死する不幸に見舞われた。

バッハが帰郷したときは妻はもう埋葬された後であった。

翌年、宮廷歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚した。

彼女は有能な音楽家であったと見られており、夫の仕事を助け、作品の写譜などもしている。

有名な『アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳』は彼女のためにバッハが贈った楽譜帳で、バッハの家庭で演奏されたと思われる曲が折々に書き込まれている。

アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子どものうち、多くは幼いうちに世を去っている。

しかし末子クリスティアンは兄弟の中では音楽家として最も社会的に成功し、イングランド王妃専属の音楽家となった他、モーツァルトに大きな影響を与えた。

彼らの他にも、バッハには成人した4人の息子がいるが、みな音楽家として活動した。









 

 

1723年、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル「トーマスカントル」に就任した。

カントルの選考会ではバッハは第5番目の候補とされたが、1-4番目に選ばれた候補者4人ともが様々な理由によって辞退ないし就任することができず、バッハにカントルの仕事が回ってきた。

バッハにライプツィヒ市の音楽監督にもなり、教会音楽を中心とした幅広い創作活動を続けた。

ルター派の音楽家として活動していたが、王のカトリックへの宗旨変えに応じ、宮廷作曲家の職を求めカトリックのミサ曲も作曲した。 

17291月にはハレ滞在中のヘンデルに長男フリーデマンを派遣。ヘンデルのライプツィヒ招待を申し出たが断られた。

結局、バッハはヘンデルとの面会を強く望んでいたものの、ヘンデルとの面会は生涯実現することはなかった。

当時のヨーロッパにおいては、ヘンデルはバッハよりもはるかに有名であり、バッハはヘンデルの名声を強く意識していたが、ヘンデルの方はバッハをあまり意識していなかったと言われる。

ただし、ゲオルク・フィリップ・テレマンやヨハン・マッテゾン、クリストフ・グラウプナーなど、バッハとヘンデルの両名と交流のあった作曲家は何名か存在している。












 

1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命された。

1747年にはエマヌエルが仕えていたベルリンのフリードリヒ大王の宮廷を訪問、これは『音楽の捧げもの』が生まれるきっかけになった。 

しかし17495月末、バッハは脳卒中で倒れた。

聖トーマス教会の楽長という高い地位を妬む者たちが働きかけ、市参事会は後任にゴットロープ・ハラーを任命した。

さらに、以前より患っていた内障眼が悪化し視力もほとんど失っていた。

しかしバッハは健康を回復したため、ハラーの仕事はお預けとなった。 

17503月、イギリスの高名な眼科医ジョン・テイラーがドイツ旅行の最中ライプツィヒを訪れた。

バッハは3月末と4月半ばに2度にわたって手術を受けた。

手術後、テイラーは新聞記者を集めて「手術は成功し、バッハの視力は完全に回復した」と述べた。

しかし実際には、手術は失敗していた。

テイラー帰国後にバッハを診察したライプツィヒ大学医学部教授によると、視力の回復どころか炎症など後遺症が起こり、これを抑えるための投薬などが必要になったという。

 2度の手術に後遺症、薬品投与などの治療はすでに高齢なバッハの体力を奪い、その後は病床に伏し、728日午後815分に65歳でこの世を去った。

なお、後年にヘンデルも同医師による眼疾患の手術を受けたが失敗に終わっている。 

生前のバッハは作曲家というよりもオルガンの演奏家・専門家として、また国際的に活躍したその息子たちの父親として知られる存在にすぎず、その曲は次世代の古典派からは古臭いものと見なされたこともあり、死後は急速に忘れ去られていった。

それでも鍵盤楽器の曲を中心に息子たちやモーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、リストなどといった音楽家たちによって細々と、しかし確実に受け継がれ、1829年のメンデルスゾーンによるマタイ受難曲のベルリン公演をきっかけに一般にも高く再評価されるようになった。











 

作品 

ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、幅広いジャンルにわたって作曲を行い、オペラ以外のあらゆる曲種を手がけた。

その様式は、通奏低音による和声の充填を基礎とした対位法的音楽という、

バロック音楽に共通して見られるものであるが、特に対位法的要素を重んじる傾向は強く、当時までに存在した音楽語法を集大成し、さらにそれを極限まで洗練進化させたものである。

したがって、バロック時代以前に主流であった対位法的なポリフォニー音楽と古典派時代以降主流となった和声的なホモフォニー音楽という2つの音楽スタイルにまたがり、結果的には音楽史上の大きな分水嶺のような存在となっている。 

バッハは、ドイツを離れたことこそなかったが、勉強熱心で幅広い音楽を吸収した。

とりわけ、古典派のソナタにも比すべき論理性と音楽性を持つフーガの巨匠として名高い。 

現代においてもなお新鮮さを失うことなく、ポップスやジャズに至るまで、あらゆる分野の音楽に応用され、多くの人々に刺激を与え続けている。 

ヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品はシュミーダー番号(BWV、「バッハ作品目録」 Bach Werke Verzeichnis の略)によって整理されている。

「バッハ作品目録」は、1950年にヴォルフガング・シュミーダーによって編纂され、バッハの全ての作品が分野別に配列されている。

また、1951年からドイツのヨハン・ゼバスティアン・バッハ研究所(ゲッティンゲン)で「新バッハ全集」の編纂が開始され、1953年にバッハアルヒーフ(ライプツィヒ)もこの編纂に参加するが、10年で終わると予想されていた編纂作業はドイツの東西分断などの事情で難航し、「新バッハ全集」103巻が完成したのは2007年のことであった。

「新バッハ全集」には1100の作品が収められている。

現在も作品の整理が継続中である。 

管弦楽・協奏曲 

室内楽曲 

器楽曲 

 オルガン曲 

 クラヴィーア曲 

 その他器楽曲 

声楽曲 

特殊作品 

作品詳細についてはWikipediaを参照されたい。





























































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ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (1715)








 

 

その他 

ベートーヴェンは、「バッハは小川でなく大海だ」と評した(ドイツ語の“Bach”が文字通りには小川を指すことからくる駄洒落)。 

ただし、「小川」を意味する現代ドイツ語(新高地ドイツ語)の"Bach"は音楽家"Bach"とは元々の語源が違う。

ゲルマン語より古いゴート語にもさかのぼることができる語の"pah""pacht"という綴りが語源で、意味は流しの芸人に与える「おひねり」とか「ギャラ」を意味する。英語の"pact"が同じ語源である。

バッハの祖先が元々は流しの音楽家をしていたこととも符合する。 

バッハのチェンバロ作品全集を世界で最初に完成させたのはモダンピアノとムーア二段ピアノによるGunnar Johansen、その次にモダンピアノによるJoao Carlos MartinsとモダンピアノによるIvo Janssenが達成している。

モダンチェンバロではMartin Gallingただ1人が達成、ヒストリカルチェンバロで達成したものは誰もいない。

グレン・グールドとスコット・ロスは完成を目指したが及ばなかった。 

それに比べるとオルガン作品全集を達成した人物は数十人に及び、比較的ハードルの低いトライである。

ただし、歴史的オルガンで新発見の補遺を含む最も完全な集成を達成した人物は、Gerhard Weinbergerのみである。 

ハードロックバンドのディープ・パープルのギタリストであったリッチー・ブラックモアとキーボードのジョン・ロードはクラシック音楽から強い影響を受けており、バッハの曲のコード進行をハイウェイ・スター等の楽曲で数度引用している。 




 







 

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バッハの墓(ライプツィヒ・聖トーマス教会内部)












現代のバッハ






  
   
   









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ライプツィヒ・聖トーマス教会前に立つバッハ像











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114 : Aram Il'ich Khachaturian [楽興の時]

 

 

 

Aram Il'ich Khachaturian

 








 

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Aram Il'ich Khachaturian

 





 

 

アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン(アルメニア語: Արամ Խաչատրյան,グルジア語: არამ ხაჩატურიანი ロシア語: Арам Ильич Хачатурян (Aram Il'ich Khachaturian), 1903524日(グレゴリオ暦66日) - 197851日)は、旧ソビエト連邦の作曲家、グルジア出身のアルメニア人指揮者。

姓は、ハチャトゥリャーン、ハチャトゥリャンなどとも表記される。

ソ連人民芸術家。プロコフィエフ、ショスタコーヴィチと共にソヴィエト3巨匠の一人と称された。

















♪民族性を前面に打ち出した激しいリズム 

1991年の12月、旧ソ連の解体により独立したアルメニア共和国。

神秘思想家のグルジェフなど様々な著名人を輩出していますが、その中のひとりに作曲家、指揮者として国際的に名声を博したトリビシ生まれのアラム・ハチャトゥリアンがいます。 

大作曲家であるプロコフィエフ、ショスタコーヴィチと共にソヴィエト3巨匠のひとりとも称されました。

しかしハチャトゥリアンが彼らとは違ったのは、アルメニア出身による民族色の強さが作風に出ていたことです。

モスクワ音楽院での教授時代、彼が生徒たちに打ち出した方針は“それぞれ自分が属する民族のテーマを作品の中に展開せよ”というものでした。 

そんな自らの教えの範を垂れたような作品が、若いアルメニア人女性を主人公にしたバレエ「ガイーヌ」です。

このバレエの初演前日、新たに“クルド人が剣を持って戦いの踊りを踊る”場面が追加されることになり、急遽作曲されたのが「剣の舞」です。

踊りにふさわしいリズムを机を叩きながら徹夜で考案した末に、閃いたリズムから一挙に曲を作り上げたと伝えられています。 

後に彼が「ミスター剣の舞」とまで呼ばれる大ヒットになり、ひとり歩きを始めたこの曲についてハチャトゥリアンが「こんなことになるのを知っていれば書かなかったよ」とぼやいていた姿が、弟子の寺原伸夫氏によって証言されています。 
















来歴 

トビリシに生まれたアルメニア人で、甥に作曲家カレン・ハチャトゥリアンがいる。

モスクワで音楽を学んだ。

レーニン賞など多数の賞を受け、高い評価を受ける一方、自作の指揮者としても活躍。

映画音楽も手がけ、チェコスロバキア国際映画祭個人賞も受賞した。

作品の中でも、バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」から抜粋した演奏会用組曲がとりわけ演奏機会が多く、中では「剣の舞」が、アンコールピース、オーケストラ入門曲、映像BGMなどとして知られる。

民族的な伝統を大切にし、独自の価値観とエネルギーに満ちた作風であり、異色の光彩を放っている。

仮面舞踏会はミハイル・レールモントフ(18141841)の演劇「仮面舞踏会」がモスクワのヴァフタンゴフ劇場で公演されるのに合わせて作曲された。

虚飾と欺瞞に満ちた帝政ロシアの貴族社会における悲劇として描かれた。 

アルメニアで発行されている50ドラム紙幣に肖像が使用されている。








 









年譜 

1903 - 製本工の息子として、グルジアに生まれ、カフカス地方で民族音楽に親しみながら育つ。

1921 - 大学入学のためモスクワに向かう途上に演奏会に出たのがきっかけで音楽の才能を認められ、音楽の勉強を正式に始める。

1922 - グネシン音楽専門学校のチェロ科、作曲科。

1929 - 1934 - モスクワ音楽院でミャスコフスキー、ワシレンコなどに学ぶ。

1933 - ミャスコフスキーの弟子であったニーナ・マカロワと結婚。1936 - 「ピアノ協奏曲変ニ長調」で名声を博す。

1948 - スターリン主義的文化政策の中心ジダーノフによる音楽批判(ジダーノフ批判)の対象となり、「形式主義的退廃音楽家」とされる。(1959年に名誉回復)

1956 - グネーシン音楽学校とモスクワ音楽院で教授。

1953 - 論文「創造の大胆さとインスピレーションについて」(社会主義リアリズム音楽理論の発展)に関して、アメリカの音楽評論家タウブマンと論争を展開。

1963 - 来日。京都市交響楽団、結成直後の読売日本交響楽団と共演する。

1978 - 没。

















ハチャトゥリアンの音楽 

グルジア出身のハチャトゥリアンは、アルメニア・アゼルバイジャン・グルジアなどカフカス地方の民族音楽の影響がうかがわれる、オリジナリティ溢れる印象的な曲の数々を作曲した。 

作風は大胆、強烈と評価され、国民楽派の延長として民族的要素を取り入れた社会主義リアリズムの代表的作曲家と見なされる。   

作品 

作品詳細はWikipediaを参照してください。






 






























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モスクワにある記念碑





























 

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アルメニア 50ドラム紙幣










 

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113 : Tekla Bądarzewska-Baranowska [楽興の時]

 

 

 

Tekla Badarzewska-Baranowska










 

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Tekla Bądarzewska-Baranowska












 

 

テクラ・ボンダジェフスカ=バラノフスカ(波: Tekla Bądarzewska-Baranowska1834/1838 - 1861929日)は、ポーランド出身の作曲家・ピアニスト。

二重姓の後半は夫の姓(の女性形)でしばしば省略されることがあり、日本ではオゴネクを省いたラテン文字表記からの転写等で一般にテクラ・バダジェフスカ、あるいはテクラ・バダルジェフスカと表記される(ポーランド語では rz という綴りで一音の有声そり舌摩擦音を表す)。










 










 

 

♪優美な上昇旋律が印象的なピアノ小品 

ベートーヴェンの「エリーゼのために」などと共に、ピアノ入門として必ず通過するような有名曲です。

オルゴールなどでもおなじみですね。 

バダジェフスカはショパンと同じポーランド出身の女流ピアニストです。

生涯に35曲ほどのサロン用ピアノ曲を残していますが、中でも最もよく知られる「乙女の祈り」は彼女が18歳の時の作品で、1859年にフランスの音楽雑誌の付録として紹介されるとまたたく間に人気が広がり、当時は百種類以上の楽譜が出版されました。

曲そのものはシンプルな変奏曲ですが、3つしかない和音の上を駆け上がる優美な旋律は愛らしく、一度聴いたら忘れられないような印象を残します。 

バダジェフスカはわずか27歳という若さでこの世を去っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人物・来歴 

ボンダジェフスカはワルシャワから北北西に100km離れた町ムワヴァ(Mława)の生まれで、生年を1834年とする説と1838年とする説がある。

彼女は本格的な音楽教育は受けていなかったが、サロンでのピアノ演奏家として活躍し自ら作曲も行っていた。

1856年、18歳あるいは22歳ごろの時に作曲した『乙女の祈り』(波: Modlitwa dziewicy, : La prière d'une vierge)がパリの音楽ニュース雑誌に掲載され、その名が広く知られるところとなった。

この曲を作曲したのち、J・バラノフスキと結婚し5人の子供をもうけたとされる。

この曲を含め小品を35曲ほど作曲したが、1861年に病弱のためにワルシャワにて23歳あるいは27歳ほどで夭折。

彼女に関する作品や資料については第二次世界大戦等により大半が消失したため、現在では『乙女の祈り』以外はほとんど知られておらず、特に本国ポーランドでは認知度が低い。

これは「祈り」という言葉が、共産圏の影響下にあったポーランドで不適切とみなされたためとの見方のほか、音楽に高い芸術性を求められた時代、音楽教育を受けていないこの『少女』に対して、「浅薄な素人くささを超えられなかった」と、19世紀の音楽事典が酷評したことからも、当時の「偏見」の存在を理由とする見方もある。












 














『乙女の祈り』 

ボンダジェフスカの『乙女の祈り』は、明治時代に、ピアノ教本と共に楽譜が持ちこまれ、日本に伝えられて以来、ピアノ経験者によく知られるのみならず、オルゴール曲の定番として、日本で広く愛されている。

余談であるが、台湾では、ゴミ収集車が『乙女の祈り』をゴミの回収時に流す地域が多いため、台湾でも耳馴染みの者は多い。








 
















再評価 

近年、日本に留学したポーランド人などによりボンダジェフスカの存在が「再発見」され、母国ポーランドにおいて彼女の業績を広く知ってもらうための彼らの活動が実を結び、ポーランドでも少しずつ再評価がなされてきている。 

2007年にキングレコードからユリヤ・チャプリーナのピアノ演奏によるボンダジェフスカの作品集がリリースされた。収録曲のほとんどが初録音である。














 






思いを込めて・・・もう一度・・・






主要作品 

ピアノ曲

・乙女の祈り

・かなえられた乙女の祈り








 





































































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ピエニィニ山地(ポーランド)

















 

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112 : Niccolò Paganini [楽興の時]

 

 

 

Niccolò Paganini

 












 

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Niccolò Paganini

    

    

 

ニコロ・パガニーニ(Niccolò(あるいはNicolò Paganini, 17821027 - 1840527日)はイタリアのヴァイオリニスト、ヴィオリスト、ギタリストであり、作曲家である。

特にヴァイオリンの超絶技巧奏者として名高い。






 























 



 

 

 

略歴 

パガニーニがヴァイオリンを弾き始めたのは5歳の頃からで13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれ、その頃から自作の練習曲で練習していた。

それら練習曲はヴァイオリン演奏の新技法、特殊技法を駆使したものと言われる。 

そのヴァイオリン演奏のあまりの上手さに、「パガニーニの演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」と噂されたという。

そのため彼の出演する演奏会では聴衆は本気で十字を切ったり、本当にパガニーニの足が地に着いているか彼の足元ばかり見ていた観客もいたという。 

少年時代から病弱であったが、1820年に入ると慢性の咳など体調不良を訴え、『毒素を抜くため』に下剤を飲み始める。

1823年には梅毒と診断されて水銀療法とアヘンの投与が開始された。

さらに1828年頃には結核と診断され、甘汞を飲み始め、さらに下剤を飲み続けた。

その後、水銀中毒が進行して次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、1834年頃についに引退する。

そして1840年に水銀中毒による上気管支炎、ネフローゼ症候群、慢性腎不全によりニースで死去。 

一般に死因は喉頭結核もしくは喉頭癌といわれているが、主治医の診断から結核ではなかったことがはっきりとしており、記録に残る症状(歯肉炎、振戦、視野狭窄など)から、水銀中毒だったことは明らかである。 

前述の噂が原因で埋葬を拒否され、遺体は防腐処理を施されて各地を転々とし、改葬を繰り返した末に1926年にジェノヴァの共同墓地にようやく安置された。


 









 

 

 

人物 

病弱だったためにやせていて浅黒く、そのことが前述の伝説に貢献した。

猛特訓の末に左手が柔軟になっていた事が彼の超絶技巧を可能にした。

これは、マルファン症候群によるものという説があり、アイザック・アシモフはその著書において、悪魔的とまで言われた演奏技術は、マルファン症候群特有の指の長さや、関節のなめらかな動きがもたらしたものではないかとする見方を示している。

しかし、パガニーニが中背だったという記録が残っている(絵画等には長身の人物として描かれているものもある)ことから、この説は考えにくいという説もある(ただし、マルファン症候群の罹患者は全て長身と言うのは俗説であり、身長はマルファン症候群と診断する際の必須の条件ではない)。

青年時代には、恋愛と賭博を好み、ナポレオン1世の妹のエリーズ・ボナパルトとポーリーヌ・ボナパルトと浮名を流した。

賭博では、演奏会の前日に商売道具のヴァイオリンをばくちに大負けしてとられたことがある。

興行師としての才能もあり、木靴に弦を張って楽器として演奏しひともうけした後、金に困った女性を助けたなどの逸話もある。

また演奏会にて、弾いている最中にヴァイオリンの弦が切れていき、最後にはG弦しか残っていなかったのに、それ一本で曲を弾ききったと言う逸話もある。

しかしながら弦が頻繁に、高いほうからつごうよく順に切れていったこと、一番低いG弦は決して切れなかったこと(弦楽器は開放弦より低い音を出す事は出来ない)などから、パガニーニ本人がパフォーマンスの一環として、伸ばして鋭くした爪で演奏中に弦をわざと切っていたと言われている。

自身の利益や金銭に執着する人物であったと言われる。

高い評価や人気を得るにつれ、演奏会のチケット代は高額を要求するようになった。

やがて偽造チケットも多く出回ったため、自ら会場の入口に立ち、チケットをチェックするほどの徹底ぶりであったと言われる。










 





 




 

 

 

楽器 

パガニーニが演奏するのに使用したヴァイオリンは1742年にグァリネリ・デル・ジェスが製作した「カノン」が有名である。

上記のように賭博でヴァイオリンを賭け、それを取られてしまうということがあったが、1802年にリヴロンという商売人がパガニーニに、演奏会で自身が所有する上記のグァリネリのバイオリンを使用してほしいことを申し出た。

パガニーニはそれを承諾し、演奏会でそのヴァイオリンを使用したところ演奏会は予想以上の成功を収めた。

それを見てか、リヴロンは感激し貸したヴァイオリンを「一生使用する」ことを条件に譲渡した。

以後パガニーニはこの楽器を音の大きさから「カノン」と命名し、愛用した。

 なお「カノン」はパガニーニの遺言で「他人に譲渡、貸与、演奏をしない」ことを条件に故郷ジェノヴァ市に寄贈した。

この遺言は当初は守られたが、1908年に定期的な修理をかねてヴァオリニストに貸与することを決定。

1937年の全面修理を経て、現在にいたるまでパガニーニの遺言を無視する形で貸与と演奏がされている。 





 

 


 











 

 

 

 

影響

ロマン派作曲家 シューベルトはパガニーニがウィーンに来た時、家財道具を売り払ってまで高いチケットを買って(友人の分まで奢って)パガニーニの演奏を聞き(ちなみに、この時にシューベルトが聞いたのが「鐘のロンド」を持つヴァイオリン協奏曲である)、「天使の声を聞いた」と感激した。

金銭に関して執着しないシューベルトらしい逸話である。

この台詞は正確には「アダージョでは天使の声が聞こえたよ」と言ったものである。

派手な超絶技巧よりもイタリアオペラに近い音色の美しさをとらえるシューベルトの鋭い感性も覗える。

リストは初恋に破れ沈んでいた20歳の時にパガニーニの演奏を聞いて「僕はピアノのパガニーニになる!」と奮起し超絶技巧を磨いたという逸話もある(リストはヴァイオリン協奏曲第4番を聞いたといわれている)。 

その他 イングヴェイ・マルムスティーンがギドン・クレーメルによる演奏がきっかけで非常に深い影響を受けるなど、ヘヴィメタル(特にネオクラシカルメタル)の世界に対する影響力は大きい。

1866年に友愛数(1184, 1210)を発見した10代の少年ニコロパガニーニとは別人。

1985年にパガニーニの子孫を名乗るマーク・パガニーニ(ボーカル)によるドイツのヘヴィメタルバンド「パガニーニ」が結成されたが、音楽性は正統派のアメリカン・ロックであったという。 

 

 





 










 

 

 

 

作品一覧 

パガニーニは作曲家としても活躍しヴァイオリン曲を残したが、極めて速いパッセージのダブルストップ・左手のピチカート・フラジョレット奏法など、どれも高度な技術を必要とする難曲として知られている。

パガニーニ自身は技術が他人に知られるのを好まなかったため、生前はほとんど自作を出版せず自分で楽譜の管理をしていた。 

その徹底ぶりは凄まじいもので、自らの演奏会の伴奏を担当するオーケストラにすらパート譜を配るのは演奏会の数日前(時には数時間前)で、演奏会までの数日間練習させて本番で伴奏を弾かせた後、配ったパート譜はすべて回収したというほどである。

しかも、オーケストラの練習ではパガニーニ自身はソロを弾かなかったため、楽団員ですら本番に初めてパガニーニ本人の弾くソロ・パートを聞くことができたという。

その背景として、パガニーニ自身が無類の”ケチ”だったと言う事の他に、この時代は、著作権などがまだ十分に確立しておらず、出版している作品ですら当たり前のように盗作が横行していた為、執拗に作品管理に執着するようになったとする説もある。 

このようにパガニーニ自身が楽譜を一切外に公開しなかったことに加えて、死の直前に楽譜をほとんど焼却処分してしまった上、彼の死後に残っていた楽譜も遺族がほぼ売却したため楽譜が散逸してしまい、大部分の作品は廃絶してしまった。

現在では、無伴奏のための24の奇想曲や6曲のヴァイオリン協奏曲(12曲あったといわれている)などが残されている(第3 - 6番が見つかったのは20世紀に入ってからである)。

現存している譜面は、彼の演奏を聴いた作曲家らが譜面に書き起こしたものがほとんどだと言われている。

また、同じ理由から弟子をカミッロ・シヴォリ一人しかとらず、そのシヴォリにも自分の持つ技術を十分には伝えなかったため、演奏の流派としてはパガニーニ一代で途絶えることとなってしまった。

パガニーニは、1800年から1805年にかけて表立った活動をやめ、ギターの作品を数多く作曲している。

これは、フィレンツェの女性ギター奏者を愛人としていたためといわれている。 

 

 

 


 










 

 

 

 

作品詳細はWikipediaを参照してくたさい。











 

 

 








































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追加: lequiche さん ご紹介の チェントーネ・ディ・ソナタ


















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111 : Franz Joseph Haydn [楽興の時]





 

Franz Joseph Haydn

 

















 

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Franz Joseph Haydn

 











 

 

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn, 1732331日 ニーダーエスターライヒ州ローラウ(英語版)) - 1809531日 ウィーン、但し遺体はアイゼンシュタット)は、古典派を代表するオーストリアの作曲家。

また、弟ミヒャエル・ハイドンも作曲家として名を残している。 数多くのの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。 

弦楽四重奏曲第77番第2楽章にも用いられた皇帝讃歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」の旋律は、現在ドイツの国歌として用いられている。

















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生涯

生涯の大半はエステルハージ家に仕えていて、そのために作られた曲もかなりある。

このとき、ほかの音楽家との交流や流行の音楽との接触があまり無かったため、徐々に独創的な音楽家になっていった。



 

生い立ち、少年期


1732年に、当時はハンガリー王国領との国境に位置したニーダーエスターライヒ州(当時は下オーストリア大公国)ローラウ村に生まれる。

ローラウはハラッハ家(Harrach)の館がある地である。祖父は現在のブルゲンラント州(当時はハンガリー王国領)のモションテーテーニの出身。

幼いころから音楽に才能を発揮し、6歳のときに親戚の家に送られ、音楽の勉強を始める。

1740年、ウィーンのシュテファン大聖堂のゲオルク・フォン・ロイター(Georg von Reutter)に才能を認められたことから、ウィーンに住むようになる。

その後はここで聖歌隊の一員として9年間働いた(後半の4年間は弟ミヒャエル・ハイドンも聖歌隊に加わった)。

ロイターはろくに隊員に食事を与えず、教育も適当であったが、音楽の都でプロの音楽家として働くという少年時代の経験からハイドンが得たものは大きかった。

  

1749年、声変わりのため、聖歌隊で高音部を歌うのが不可能になったので解雇され、その後友人の家に住み着くようになり、フリーの音楽家としての活動を始めた。

この生活は10年間ほど続き、この間に幅広い仕事に従事している。

知識不足を補うため勉強に勤しみ、初めての弦楽四重奏曲とオペラを作曲した。このころから評判が上がり始める。





























 

 

エステルハージ家での仕事

1759年、ボヘミアのカール・モルツィン伯(Karl von Morzin)の宮廷楽長の職に就いた。

ここで小さなオペラを指導し、またここのアンサンブルのために、初めての交響曲を作曲している。

その後、モルツィン伯が経済的に苦しい状況になり、ハイドンは解雇されてしまったが、すぐに1761年、西部ハンガリー有数の大貴族、エステルハージ家の副楽長という仕事を得た。

老齢だった楽長のグレゴール・ヴェルナー(Gregor Werner)が1766年に死去した後、楽長に昇進した。

  

エステルハージ家のお仕着せ召使いとして、主要な3つの邸宅に仕えた。

ひとつはハンガリー西部でエステルハージ家の主要な中心地であるアイゼンシュタット(現在はブルゲンラント州の州都)の邸宅と、冬を越すためのウィーンの宮殿、それにアイゼンシュタット東部に1760年代に建設された新しく立派な宮殿エステルハーザ( Eszterháza、現在はハンガリーのフェルテード)の3つである。

ここで作曲やオーケストラの運営、室内楽の演奏、オペラ作品の上演などの責任者となった。

これらの仕事はひどく骨の折れるものだったが、仕事があるだけで満足であった。

エステルハージ家の当主ニコラウス(ミクローシュ)・エステルハージ侯爵は音楽に対する理解者であり、ハイドンの作品に理解を示し、芸術家としての成長に必要なものとして、たとえば専属の小オーケストラを毎日貸すなど、様々な形で創作環境を整えた。

  

1760年、初妻のマリア・アンナ・ケラー(Maria Anna Keller)と結婚した。これは彼の楽長としての地位を保持することにもなった。

ただこの結婚は長く続かず、子供も作らなかった。彼は長く付き合っていたエステルハージ家お抱えの歌手ルイジャ・ポルツェッリ(Luigia Polzelli)と1人、あるいはもっと多くの子をもうけたのではないかと言われている。

  

彼は30年近くもの間エステルハージ家で働き、数多くの作品を作曲した。

音楽のスタイルもより向上し、エステルハージ家の外でもハイドンの人気は上がり、徐々にエステルハージ家のためだけではなく、出版するためにも曲を書くようになった。

この時期の重要な作品として、パリ交響曲(交響曲82番~87番)、『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』といったものがあるが、これらは外国からの依頼により作曲された。

  

1781年頃、ハイドンはモーツァルトと親しくなった。

ハイドンとモーツァルトは弦楽四重奏を一緒に演奏するなどして交流を深めた。彼はモーツァルトの作品に深い感銘を受け、モーツァルトの最も得意とするジャンルであるオペラや協奏曲の作曲をほとんどやめてしまった。

モーツァルトはこれとは対照的に、ハイドンの最新の作品番号33番の弦楽四重奏曲「ロシア四重奏曲」(37番~42番)に応えて、6つの弦楽四重奏曲(ハイドン・セット)を作曲した。

モーツァルトはこの作品をハイドンに献呈している。

また後にハイドンは、モーツァルトの遺児(カール・トーマス・モーツァルト)の進学(音楽留学)の世話をしている。





























 

 

エステルハージ家からの離職後

  

1790年、エステルハージ家のニコラウス(ミクローシュ)侯爵が死去。

その後継者パウル・アントン(パール・アンタル)侯爵は音楽に全くと言っていいほど関心を示さず、音楽家をほとんど解雇し、ハイドンを年金暮らしにさせてしまった。

ただしハイドンにしてみれば、自由に曲を書く機会が与えられながら、同時に安定した収入も得られるという事で、必ずしも悪い話ではなかった。

ハイドンはいくつかのやり残した仕事を完成させるため、ドイツで音楽関係の仕事で活躍する興行主ヨハン・ペーター・ザーロモンからの儲け話(イギリスに渡って新しい交響曲を大きな管弦楽団で演奏する計画)を受け入れた。

  

1791年から1792年、および1794年から1795年のイギリス訪問は大成功を収めた。

聴衆はハイドンの協奏曲を聴きに集まり、ほどなくハイドンは富と名声を得た。なお、このイギリス訪問の間に、ハイドンの最も有名な作品の数々(「驚愕」、『軍隊』、『太鼓連打』、『ロンドン』の各交響曲、弦楽四重奏曲『騎士』やピアノ三重奏曲『ジプシー・ロンド』など)が作曲されている。

  

ハイドンはイギリスの市民権を得て移住することも考えていたが、最終的にはウィーンに帰ることにした。

ハイドンはウィーンに自らの大邸宅を建て、合唱やオーケストラのための宗教的な作品の作曲にとりかかった。

このときにオラトリオ『天地創造』と『四季』、それに、エステルハージ家に捧げるためのミサ曲を6つ作曲している(ハイドンは1796年にエステルハージ家の楽長に再就任しており、エステルハージ家もこの頃までにまた音楽に理解あるニクラウス2世侯が当主になっていた)。

ハイドンはまた、生涯に数多く作曲した弦楽四重奏曲の最後の9曲(『皇帝』、『日の出』、『五度』など)を作曲している。

この時ハイドンはすでに齢60を過ぎていたが、その創作意欲は衰えることは無かった。

  

1802年、ハイドンは持病が悪化して、もう作曲ができないほど深刻になった。これは新しいアイディアが次から次へと湧いてくるハイドンにとって、耐え難いものであったことは間違いない。

晩年、ハイドンは使用人に看護してもらい、たくさんの見舞いの客がハイドンのもとに訪れたが、しかしこの時期はハイドンにとって、少しも楽しいものではなかった。

ハイドンは時々ピアノに向かい、自分でかつて作曲したオーストリアの祝歌を弾くことを慰めとしていたようである。

  

1809年、ハイドンはナポレオンのウィーン侵攻の中で死去。

ハイドンの最後の言葉は、近くに大砲が命中して混乱している使用人たちを何とか落ち着かせようとするものであったという。

  

遺体はアイゼンシュタットに葬られている。

なお、ハイドンの埋葬については奇怪な話があり、それは頭の部分だけが150年間切り離され続けたというものである。

ハイドンの死後、オーストリアの刑務所管理人であるヨハン・ペーターという者と、かつてエステルハージ家の書記だったローゼンバウムという男が首を切り離したのである。

彼らはハイドンの熱烈な崇拝者だったようで、頭蓋骨を持ち去り、丁寧に薬品処理を行なうなどして保存し続けた(ヨハンは、当時流行していた骨格及び脳容量と人格の相関関係についての学説の信奉者であり、他に何人かの囚人の頭蓋骨を収集していた。

ハイドンの天才性と脳容量の相関関係を研究したが、脳容量は通常人と変化なかったため、自説を補強することはできなかった。

このとき書いた論文のため、のちに頭蓋骨の所在が知れた)。が、結局は露見し、最終的に頭蓋骨は1954年、アイゼンシュタットに葬られている胴体と一緒になることができた。




















































































































































































 

 

作品  

作品の総数は膨大な数に及ぶため、これらをひとつにまとめることは困難 

●交響曲 

●協奏曲 

●弦楽四重奏曲  

●舞台作品 

歌劇 

人形歌劇 

ジングシュピール 

劇付随音楽 

その他の舞台作品  

●管弦楽曲 

シンフォニア(序曲) 

ディヴェルティメント、他  

●室内楽曲 

ピアノ三重奏曲 

バリトン三重奏曲 音楽時計  

●ピアノのための作品 

ピアノ・ソナタ 

その他のピアノ曲  

●声楽曲(カンタータ・合唱曲) 

●宗教曲・ミサ曲 

●歌曲 

●民謡編曲

 

顕彰 

1950年に発行された20オーストリア・シリング紙幣に肖像が使用されていた。










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110 : Samuel Barber [楽興の時]

 




 

Samuel Barber



















 

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Samuel Barber



















 

サミュエル・バーバー(Samuel Barber191039 - 1981123日)は、米国の作曲家。

特に弦楽のためのアダージョが有名。















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20世紀の弦楽曲中でも突出した魅力を持つ名作  

初めての20世紀生まれの作曲家です。

バーバーは時代的には現代音楽真っ只中を生きましたが、伝統を重んじまた、豊かな旋律美から“新ロマン主義”あるいは“最後のロマンティスト”と呼ばれました。 

自身の弦楽四重奏曲第2楽章を編曲した「弦楽のためのアダージョ」は彼の代表作のひとつであり、ジョン・F・ケネディの葬儀、アメリカ同時多発テロ慰霊祭など、レクイエムとして使用されることも多い名曲です。






 




















生涯・作風

ペンシルベニア州ウェスト・チェスター出身。

外科医の父とアマチュアピアニストの母の間に生まれる。

19世紀のアメリカ東部で名声を博したオペラ歌手、ルイーズ・ホーマーの甥に当たる。

その夫シドニーは19世紀のニューイングランドなどで人気の歌曲作曲家であった。 

フィラデルフィアのカーティス音楽学校でロザリオ・スカレロに作曲を学ぶ他、ピアノ・声楽を専攻。また、フリッツ・ライナーに指揮も学ぶ。

最優等を得て卒業した後、1935年に、ローマのアメリカ学士院より奨学金を得て、翌年よりイタリア留学を果たす。

同地で《弦楽四重奏曲第1番ロ短調》を作曲、この第2楽章が後に弦楽合奏用に編曲され、《弦楽のためのアダージョ》として広く親しまれるに至った。

同世代のパリに留学したアメリカ人作曲家、たとえばコープランドやカーターなどとは違ってモダニズムや実験的姿勢に走らず、和声法や楽式において、かなり伝統に従っている。

バーバー作品は豊かで華麗な旋律が特徴的で、新ロマン主義音楽の作曲家に分類されている。

同じくイタリア留学組のハワード・ハンソンと並んで、「最後のロマンティスト」と評されるゆえんである。

とはいえ、いくつかの作品、たとえば《ヴァイオリン協奏曲》のフィナーレにおける無調、《ピアノ・ソナタ》の中間楽章における12音、《ピアノ協奏曲》におけるプロコフィエフばりの打鍵主義など、現代的な要素が皆無というわけではない。 

ピアノ伴奏ないしは管弦楽伴奏の歌曲集は、とりわけ英語圏出身の歌手にとっては不可欠の、20世紀の古典的レパートリーとなっている。

初版では弦楽四重奏とバリトンのための《ドーヴァー・ビーチ》、中世アイルランド無名作家による詩に基づいた《隠者の唄》、ソプラノと管弦楽伴奏のための《ノックスヴィル、1915年夏》などは特に有名である。

《この輝ける夜にSure on this Shining Night 》作品13-3は、エリー・アメリングなどのレパートリーにも入った人気の歌曲で、後にオーケストラ伴奏版も作成された。

バーバー自身は優れたバリトン歌手であり、声楽の訓練も受けたことがあった。声楽家兼作曲家としてカーティス四重奏団と共に自作の演奏旅行をしたり、《ドーヴァー・ビーチ》などの自作の録音を残し、レコードが発売されたこともある。

ただし、バーバーの声楽家としての録音点数は少ない。

大規模な合唱曲として、《キルケゴールの祈り》(1954年)と《恋人たち》(1971年)がある。

また、《弦楽のためのアダージョ》にラテン語の典礼文を載せた《アニュス・デイ》といった秘曲もある。

 バーバーはまた優れたピアニストでもあり、人前で舞台に立つことこそなかったが、1日の仕事を始める前に、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》などを弾く習慣があり、とりわけスクリャービンやラフマニノフのピアノ曲に傾倒したと言われる。

また、ラフマニノフの使っていたピアノを所有していた。

《ピアノ・ソナタ》は1949年に作曲され、ホロヴィッツによって初演された。それゆえこの作品は、国際的に有名な演奏家によって公式に初演された、最初のアメリカ人作曲家によるピアノ曲と見なされている。

またこの作品は、リチャード・ロジャーズとアーヴィング・バーリンが創設した楽譜出版社から出版されている。 

その他の器楽曲のうち、純粋な管弦楽作品としては、弦楽合奏のためのセレナーデ、2つの交響曲(《第1番ホ短調》(1936年)、《第2番》1944年)、演奏会用序曲《悪口学校》(1932年)、《シェリーによる一景のための音楽》、3つの《管弦楽のためのエッセイ》(順に1938年、1942年、1978年)がある。 

ほかに協奏曲では、《ヴァイオリン協奏曲ト長調》、《チェロ協奏曲》、《ピアノ協奏曲》(1962924日にジョン・ブラウニングとボストン交響楽団によりニューヨークで初演)がある。

晩年にニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団からオーボエ協奏曲の作曲を依頼されたが、他界する前に緩徐楽章を遺すにとどまった。

この作品は後に第三者(チャールズ・ターナー)によってオーボエと弦楽合奏のための《カンツォネッタ》として編曲されている。

バーバーの没後の初演では、当初から予定されていたオーボエ奏者ハロルド・ゴンバーグが引退した直後であったが、特にその演奏のために独奏者として一回だけ復帰し、ズビン・メータ指揮で演奏された。

また《カプリコーン協奏曲》は、いくつかの独奏楽器と弦楽合奏のための、近代化された一種のコンチェルト・グロッソである。

 バーバーにはいくつかの歌劇があり、40年余りの間私生活のパートナーだったジャン・カルロ・メノッティの台本による《ヴァネッサ》は、ニューヨークにおいてメトロポリタン歌劇場において初演され、評論家筋や聴衆から圧倒的支持を受けて成功を収め、バーバーにピューリッツァー賞が授与された。

しかしながらヨーロッパ初演では冷遇され、その後も国際的な檜舞台に上るまでには至っていない。

1966年の《アントニウスとクレオパトラ》は、フランコ・ゼフィレッリの台本によるが、失敗。

その後、ジャン=カルロ・メノッティの改訂が加わり、再演された。

マーサ・グラハムのために作曲されたバレエ音楽《メデアの瞑想と復讐の踊り》は、印象主義的な部分と表現主義的な部分の交錯する晦渋な作風をとり、近年では一種の交響詩(あるいは舞踊詩)として演奏されるようになりつつある。 

1981年、リンパ腺癌によりニューヨーク市内の自宅にて死去。

 
































 























































 

主な作品リスト

 




 

交響曲交響曲

1番 ホ短調 Op.9 (193536/1943改訂)

交響曲 第2 Op.19 (1944/1947改訂) 1964年に撤回されるが、死後にパート譜が一揃い発見され、再び演奏されるようになっている。  

管弦楽曲序曲

『悪口学校』 Op.5 (1932)

弦楽のためのアダージョ Op.11 (1937)

オーケストラのためのエッセイ夜間飛行 Op.19a (1964) 撤回した交響曲第2番の第2楽章を改訂し、出版したもの。 

吹奏楽曲

コマンド・マーチ (1943) 

協奏曲

ヴァイオリン協奏曲

カプリコーン協奏曲

チェロ協奏曲

ピアノ協奏曲

オーボエと弦楽のためのカンツォネッタ Op.48 (197778)(オーボエ協奏曲の緩徐楽章として計画。未完。オーケストレーションはチャールズ・ターナーが補筆。) 

室内楽曲・器楽曲

弦楽のためのセレナード Op.1 (1929/1944弦楽オーケストラ編)

弦楽四重奏曲第1番 ロ短調 Op.11(1936/後に第2楽章を編曲(弦楽のためのアダージョOp.11))

弦楽四重奏曲第2 (1948)

夏の音楽 Op.31 (1956)

ヴァイオリン・ソナタ (1931)

チェロ・ソナタ Op.6 (1932)

弦楽四重奏曲(第2楽章のみ)(1949) 

ピアノ曲

ピアノ・ソナタ

夜想曲

組曲  

オルガン曲 

合唱曲 

管弦楽と声楽のための作品 

歌曲

 

























































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109 : Leonard Bernstein [楽興の時]

 





 

Leonard Bernstein















 

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Leonard Bernstein







アカデミー賞ノミネート 1955年 アカデミードラマ・コメディ音楽賞:『波止場』




レナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein, 1918825 - 19901014日)は、ユダヤ系アメリカ人の作曲家・指揮者である。

またピアノの演奏家としても知られている。

アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者になり、ヘルベルト・フォン・カラヤンと並んで、20世紀後半のクラシック音楽界をリードしてきたスター音楽家だった。

愛称はレニー。夫人のフェリシア・モンテアレグレはチリ出身の女優・ピアニスト。

19541118日、バーンスタインはCBSのテレビ・ドキュメンタリー・シリーズ「オムニバス」に出演し、ベートーヴェンの交響曲第5番の解説を行った。

これが一連の教育番組『青少年コンサート』(Young Peoples' Concert)の出発点となる。

ニューヨーク・フィルの常任指揮者就任の前年、39歳だった1957年に彼の代表作『ウエスト・サイド物語』が生み出された。

 情熱的できびきびした音楽作りが魅力でもあったバーンスタインは、晩年にはゆったりとした重厚な表現を好むようになる。

時には極めて主観的な演奏を展開し、楽譜から表現しうる限界といえるほどの感情移入も厭わなかった。

彼が最も愛した3つのオーケストラはニューヨーク・フィル、ウィーン・フィル、そしてイスラエル・フィルであった。  





















生涯

バーンスタインは、ウクライナ系ユダヤ人移民の2世として、マサチューセッツ州ローレンスに生まれる。

生まれた当初の名前はルイス(後にレナードに改名する)。父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒であった。

家族には音楽的な環境は全くなかったが、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったという。理髪店を経営した父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志した。

ボストン・ラテン・スクールを経て、ハーバード大学・カーティス音楽院で学ぶ。

彼が指揮者を志したのはディミトリ・ミトロプーロスの刺激だった。

指揮ではフリッツ・ライナーやセルゲイ・クーセヴィツキーに師事し、作曲はウォルター・ピストンに師事した。

ピアノはイサベラ・ヴェンゲーロワに師事している。

カーティス音楽院を卒業後、しばらく仕事を得られない時期があったが、1943年夏にアルトゥール・ロジンスキーの指名によりニューヨーク・フィルハーモニックの「副指揮者」(Assistant Conductor)に就任した。

19431114日、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現・ニューヨーク・フィルハーモニック)を指揮、この日のコンサートはラジオでも放送されていたこともあり一大センセーションを巻き起こす。

この時の曲目は以下の通りである。

ロベルト・シューマン『マンフレッド序曲』

ミクロス・ローザ(ハンガリー出身の作曲家、映画「ベン・ハー」の音楽などが代表作)『主題、変奏曲と終曲 Op.13a

リヒャルト・シュトラウス『ドン・キホーテ』(チェロ:ジョゼフ・シュスター、ヴィオラ:ウィリアム・リンサー)

リヒャルト・ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕前奏曲

1958年、アメリカ生まれの指揮者として史上初めてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任する。

バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、同フィルの黄金時代をもたらした。作り出す音楽の魅力、気さくでおおらかな性格、指揮者としての情熱的な指揮ぶり(興に乗ると指揮台上でジャンプすることもあった)などでファンを魅了し、スター性も備えていた。

CBSレコードと録音契約を交わした際には「彼の録音に際しては、録音曲目の決定をほぼ彼に一任する」待遇を受け、当時としては画期的なレパートリーも数多く録音した。

1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、ウィーン・フィル、イスラエル・フィル、バイエルン放送交響楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などに客演した。

ことに同じユダヤ系作曲家であるグスタフ・マーラーの交響曲の演奏は自ら“自分で書いたような気がしてくる”と言うほどで、数々の演奏を残した。

音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行った。

マイケル・ティルソン・トーマス、小澤征爾、大植英次、佐渡裕など多くの弟子を世に送り出したことでも有名である。

19858月に広島を訪れ、被爆40周年を悼むための「広島平和コンサート」を開催した。

1989年のクリスマスには、直前に起きたベルリンの壁崩壊を受け、ベルリンで東西ドイツ・アメリカ・ソ連・フランス・イギリスの各オーケストラの混成メンバーでベートーヴェンの交響曲第9番を指揮、この時第4楽章の「歓喜の歌」の“Freude”を“Freiheit(自由)”にして演奏し、東西冷戦終結を象徴する演奏会として記憶されることとなった。

また翌19906月にも、民主化されたチェコスロバキアのプラハの春音楽祭で同曲を指揮した。

これらのように音楽家として社会的なメッセージを発信する活動も数多く行ったが、時にはそうした行動が物議を醸すこともあった。

19906月には札幌でパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を開始し、後進の育成にも力を入れようとしていたが、既にバーンスタインは病に冒されていた。

同年819日のタングルウッド音楽祭におけるボストン交響楽団との演奏(ブリテン:「4つの海の間奏曲」、ベートーヴェン:交響曲第7番)が最後の舞台となり、109日に指揮活動からの引退を表明する。

それから5日後の1014日に、肺癌のためニューヨーク市内の自宅で逝去した。

この年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞している。

バーンスタインは生涯に7度来日した。

































♪作曲家バーンスタインとしての代表作 

20世紀後半、指揮者としてカラヤンと人気を二分したバーンスタイン。

カラヤンが音楽をサウンドや様式美から作り上げたとするなら、バーンスタインは音楽の内に潜む精神性を徹底して掘り下げ、脇目も振らぬ主観的な表現で独自の世界を築いた人でした。 

年齢を重ねるほどその傾向は深まっていき、最晩年には音楽が崩壊するぎりぎりの線にまで至っていました。

あまりに極端なその演奏は傍から見れば滑稽かもしれませんが、一度はまった者にとってはそれ以外考えられないほどの魔力をも秘めています。 

音楽に限らずとかくきれいごとで済ましがちな現代の風潮にあって、まるで昔のスポ根のように、スマートではなくとも胸座に掴みかかってくるような表現をする指揮者でした。 

バーンスタインの音楽にはまず“人間”が存在するのです。

19731月、アメリカのニクソン大統領就任式の前夜に、祝賀演奏会がケネディセンターで開かれました。

ベトナム戦争を背景にオーマンディとフィラデルフィア管弦楽団は戦勝を意味するチャイコフスキーの序曲「1812年」を演奏。 

一方、バーンスタインはワシントン大聖堂で、有志による無料コンサートを開きました。

指揮したのは平和を祈る宗教曲、ハイドンの「戦時ミサ曲」。 

雨にも拘らず会場は満員で、外には12,000人が集まりました。

これがもとでニクソンに疎まれたバーンスタインは、以後、活動の拠点を米国外に置くようになります。 

他にも「広島平和コンサート」や東西ドイツ統一後の「第九」指揮など、音楽と人道的な活動が直結した人でもありました。 

作曲家としての代表作のひとつである「ウェストサイド物語」も、角度を変えれば争いの絶えない世界と、その中にあって輝く愛の尊さを描いた作品ともいえます。

 バーンスタインは常に平和な理想世界「Somewhere」を求めていたのかもしれません。Tonight」は対立する立場のトニーとマリアによる美しい二重唱です。





















エピソード

ヘビースモーカー

バーンスタインはヘビー・スモーカーとしても有名で、14歳の時に煙草を覚えたという。

煙草にまつわるエピソードも多く、1986年(68歳の時)には米国の新聞紙面で「私は20歳代の半ばに肺気腫の兆候があると診断された。煙草をやめなければ35歳までに死ぬと言われた」と語ったことがある。

著名なミュンヘンの音楽評論家であるヨアヒム・カイザーの談話によれば、彼は1日に煙草を100本(5箱)とウイスキー1本を飲む事を日課としていたという。

















 

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バーンスタインの作品の特徴

ウェスト・サイド物語

初期はブロードウェイ・ミュージカルで音楽活動の基盤を築き、その分野では早くから人気作曲家になっていた。

 いっぽうでシリアス・ミュージックの作曲家としては、交響曲第1番『エレミア』、交響曲第3番『カディッシュ』など、ユダヤ教の影響を受けた宗教的作品を数多く残している。

それらは宗教的なメッセージを孕みながら決して難解ではなく、むしろ時に啓蒙的な作風であるのが特徴と言える。

現代の「信仰の危機」というテーマを、ローマ・カトリックの典礼文を下敷きに、ミュージカルシアター作品として書き上げた『ミサ』は、大衆性と宗教的モティーフとの両面を統合した点で、作曲家バーンスタインを象徴する作品である。

 作風はひとことで言えば「折衷的」なスタイルで書かれたものが多い。

1つの作品の中で、ジャズやクラシックなどの様々な音楽の要素を巧みに織り交ぜることで、彼の生前には批判が多かった点の1つだった。

しかし現代にあっては、むしろ多様な表現様式の融合は音楽の潮流ともなっており、「ウェスト・サイド物語」「キャンディード」といったもともとミュージカルシアターのために書かれた作品がミラノ・スカラ座をはじめトップクラスの歌劇場で上演されるようになったのも、バーンスタインの作品への再評価の動きの表れである。













































主要作品

・交響曲 第1番『エレミア』 (Symphony No.1 "Jeremiah") (1942年)

・第2番『不安の時代』(ピアノと管弦楽のための) (Symphony No.2 "The age of anxiety") (1947-1949/1965年改訂)

・第3番『カディッシュ』(管弦楽、混声合唱、少年合唱、話者とソプラノ独唱のための) (Symphony No.3 "Kaddish") (1963/1977年改訂)

・バレエ『ファンシー・フリー』 (Fancy Free) (1944年)

・ミュージカル『オン・ザ・タウン』 (On the Town) (1944年初演)

・ミュージカル『ワンダフル・タウン』(Wonderful Town) (1953年初演)

・ミュージカル『ウエスト・サイド物語』 (West Side Story) (1957年初演)

・ミュージカル『キャンディード』 (Candide) (1956年初演/1989年最終改訂)

・オペラ『タヒチ島の騒動』 (Trouble in Tahiti) (1952年) この作品は後年に大幅な拡大改訂が施され、オペラ『静かな場所』 (A Quiet Place)となった。(1983年)

・クラリネット・ソナタ (Sonata for Clarinet and Piano) (1942年)

5つの子供の歌『私は音楽が嫌い』 (I Hate Music) (1943年)

・合唱曲『チチェスター詩篇』 (Chichester Psalms) (1965年)

・歌手と演奏家、踊り手のためのミサ曲 (Mass - A theatre piece for singers, dancers, and players) (1971年)

・合唱曲『ソングフェスト』 (Songfest) (1977年)

・前奏曲、フーガとリフ (Prelude, fugue and riffs) (1949/1952年改訂)

・映画『波止場』 (On the Waterfront)の音楽 (1954年)

・セレナード (Serenade) (1954年)

・バレエ『ディバック』 (Dybbuk) (1974年)

・政治的序曲『スラヴァ! (Slava! A Political Overture) (1977年)

・オーケストラのためのディヴェルティメント (Divertimento for Orchestra) (1980年)

・ハリル (Halil) (1981年)

・ピアノ曲『タッチズ』(コラール、8つの変奏とフーガ) (Touches - Chorale, Eight Variations and Coda) (1981年)

・アリアとバルカロール(メゾ・ソプラノ、バリトンと4手ピアノのための) (Arias and Barcarolles) (1988年)









指揮活動

レナード・バーンスタインの指揮活動は、大きく分けて3つの時期に大別することができる。

1943-1958年 デビュー・コンサートからニューヨーク・フィルハーモニック常任指揮者就任まで

1958-1969年 ニューヨーク・フィルハーモニック常任指揮者時代

1969-1990年 ニューヨーク・フィル常任指揮者辞任から晩年まで










































 

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バーンスタインとカラヤンの聴き比べ  チャイコフスキー:交響曲第6番

   








 

 

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108 : Henry Purcell [楽興の時]

 

 




 

Henry Purcell

















 

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Henry Purcell

 















 

ヘンリー・パーセル(英:Henry Purcell1659910? - 16951121日)は、バロック時代におけるイングランドの作曲家。

イタリアやフランスの影響を受けつつ独自の音楽を生み出した、最も優秀なイギリス人の作曲家の1人として知られている。

弟にダニエル・パーセルがいる。 

36歳という短い生涯の間に彼が残した曲はおよそ400曲以上あるが、どれもエリザベス朝時代のイギリス音楽が持つ諸要素と彼が取り入れたイタリア・フランスの風が巧く融合し、自由奔放な彼独特の世界観を醸し出している。











































 

生涯 

イングランド共和国のウェストミンスターに生まれる。

少年期については資料が残されていないため、はっきりしないが、1667年前後(おそらく9歳か10歳の頃)に王室礼拝堂に付属する少年聖歌隊の一員となり、聖歌隊長のヘンリー・クック(Henry Cooke)とペラム・ハンフリー(Pelham Humfrey)から音楽の指導を受けたという。

そこでは自国の作曲家の作品を学び、またハンフリーのフランスとイタリアから影響を受けた音楽様式にパーセルは影響を与えたという。 

1673年に15歳で変声期を迎えたため聖歌隊を退いて、同年6月に王室の楽器管理を担当していたジョン・ヒングストン(John Hingeston)の助手として1年間ほど務めた。

1674年にはウェストミンスター寺院のオルガン調律師に任じられ、同時にオルガニストとして務めていたジョン・ブロウに師事している。

また写譜係をしながら、ウィリアム・バード、オーランド・ギボンズ、トマス・タリスなどの作曲家たちの作品の研究していたが、これらを通して古い音楽の伝統を身に着けていた。

なお作曲はこの頃からしていたとされるが、初期の作品はほとんど紛失している(ごくわずかに残されている歌曲とアンセムはこの時期のもの)。 

1677年にマシュー・ロックが没し、弱冠18歳のパーセルは彼の後任として王室の弦楽合奏隊の専属作曲家(兼指揮者)に就任する。

この弦楽合奏隊はチャールズ2世が、フランスのルイ14世の「24のヴァイオリン(ヴァンカトル・ヴィオロン)」に倣って1660年の王政復古の後に宮廷に設置したもので、音楽を好んでいたチャールズ2世がパーセルの才能を見抜いて抜擢したとされる。

1679年にはブロウの後任としてウェストミンスター寺院のオルガニストに任命され、年俸とともに家も貸与されるなど、音楽家としてのキャリアを本格的に始めた時期でもあった。 

1680年、ロンドンに帰還したチャールズ2世のための祝賀音楽をはじめとする一連の歓迎歌やオードを作曲し、また同時に祝祭音楽や劇場で上演されるための付随音楽、宗教曲を含む合唱曲などの作曲を通して名声を高め、付随音楽『テオドシウス』(Theodosius,Z.626)などの最初の大作が生まれたのもこの時期であった。

1682年、王室付属礼拝堂の3人のオルガン奏者の一人に選ばれ、16831月にはヒングストンの死に伴い後任として王室の楽器管理職に就任するなど要職を兼務し、彼の名声はさらに高まっていき、多忙ながらも充実な生活を送っていた。

この年に出版された作品には、12曲からなる「ファンタジア」と題されたヴィオールのためのトリオ・ソナタや鍵盤楽曲(主にハープシコード)『音楽のはしため』などがある。 

1689年、バロック期のオペラの最高傑作のとして位置づけられるオペラ『ディドとエネアス』(Dido and Aeneas,Z.626)が12月にロンドンにて初演され、限られた手法で劇的な効果を上げたものにしている。

1690年以降は一連の舞台作品(主にオペラと付随音楽)の創作に力を注ぎ、オペラ『アーサー王』(1691年)、『妖精の女王』(1695年)、『アブデラザール』(1695年)など40曲以上を手がけている。 

16951121日、36歳の若さでこの世を去る。

師のブロウはその死を悼んで『ヘンリー・パーセルの死に寄せる頌歌』を作曲し、パーセルが務めていた宮廷の楽器管理の後を継いでいる。

彼の亡骸は職場であったウェストミンスター寺院に眠っている。








 












































♪イギリスのバロック音楽の代表的な作曲家 

わずか36年の生涯に800にも上る楽曲を残したヘンリー・パーセル。

叔父の元で音楽教育を受け、9歳で作曲を始めたと伝えられます。 

20代は礼拝堂のオルガニストを務める傍ら宗教曲を書き、後に代表作となるオペラや劇音楽の作曲を始めるのは、もうじき30代に入ろうという1680年代終わり頃からのことでした。 

パーセルが活動したのはバロック音楽全盛時代。

イタリアやフランス、ドイツ等と比べてイギリスは当時決して音楽が盛んとは言えませんでした。 

ルネッサンス時代にはダウランドのような吟遊詩人の活躍もあり、イギリスはむしろ音楽の先進国であったにも関わらずです。

クロムウェルの共和制時代に、音楽が禁止されたという背景もそこにはありました。 

そのため一般に、イギリスバロックはパーセルさえ聴けば事足りるとまでいわれるほどです。もちろん他にも有名な作曲家たちはいましたが、それで通ってしまうこともまた事実です。 

パーセルの音楽にはイギリスの伝統と、当時のフランス、イタリアの音楽を融合させたような、自由で独特の趣きがあります。

数が多いとは言えない、彼の鍵盤音楽においてもそれをうかがう事はできます。 

小曲のひとつであるエアも、外国が由来の舞曲です。























 






 

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107 : Hermann Necke [楽興の時]

 

 

 

Hermann Necke

 












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ヘルマン・ネッケ(Hermann Necke, 1850118 - 1912215日)は、ロマン主義時代のドイツの作曲家。






















 

経歴 1850年、ヴィーエ(Wiehe, 現テューリンゲン州キフホイザー郡の都市)に生まれる。

1877年にデューレン市自衛消防団音楽隊の創立指揮者に就任する。

元々同市の音楽の教師であった。

元々アマチュアの音楽家ばかりが参加していたが、ネッケの努力もあり次第にプロの音楽家も参加するようになった。

地元でも評判になり、この自衛消防団音楽隊は1896年にデューレン市に完全移管された。

ヘルマン・ネッケもそのままデューレン市の音楽監督に就任して、1911年に退任までこの地位に留まる。 

作品番号から見ても生涯に300曲近く作曲し出版しているものの、現在では唯一『クシコス・ポスト』(郵便馬車、チコーシュポシュット)の作曲者としてのみ名を知られる。 




























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『クシコス・ポスト』 (Csikos Post) は、ドイツの作曲家ヘルマン・ネッケ (Hermann Necke) が作曲した楽曲である。 

解説 『クシコスの郵便馬車』という邦題で呼ばれることもあるが、原題の"Csikos Post"はハンガリー語で、"csikós"(チコーシュ)は「馬」を、"post"(ポシュット)は「郵便」をそれぞれ意味し、"Csikos Post"全体では「郵便馬車」という意味である。

このため、邦題のひとつである『クシコスの郵便馬車』は、"Csikos"を地名と誤解したために誤って付けられたとする説があり、現在はクシコス・ポストと呼ばれることが一般化している。

 一方、"csikós"はカウボーイに似た馬使いのことであり、"Csikos Post"は馬を使った曲芸のことであるとする説もある。

 日本では、運動会でよく親しまれる楽曲である。

運動会では吹奏楽または管弦楽で演奏されるものがよく聴かれるが、原曲はピアノ曲とされる。

長らく日本以外ではほとんど知られていない曲であったが、近年では、ヨッシーのクッキーやダウンタウン熱血行進曲などの日本製ゲームソフトでよく使用されているために徐々に知られるようになっている。 

嘉門達夫(曲名は『地獄の運動会』)やマイナスターズ(「動物シリーズ」)が歌詞をつけてカバーしている。

 ハンガリー出身とされるリストはハンガリー狂詩曲第2番でこの主題をフリスカに登場させており、後世のネッケがうまく取り入れている。

 

 

 

 

 

 

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106 : Otto Nicolai [楽興の時]

 

 

 

Carl Otto Ehrenfried Nicolai




















 

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Carl Otto Ehrenfried Nicolai

 


















 

カール・オットー・エーレンフリート・ニコライ(Carl Otto Ehrenfried Nicolai, 181069日 – 1849511日)は、ドイツの作曲家・指揮者。

1842年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(の前身Philharmonische Academie )の創設、およびシェイクスピアの喜劇に基づくオペラ『ウィンザーの陽気な女房たち』で知られている。

5つのオペラのほか、管弦楽曲・合唱曲を作曲している。


























♪ウィーン・フィルハーモニーの創設者としても名高い作曲家 

ニコライは181069日生まれの、ドイツ出身の指揮者・作曲家です。 

幼い頃から天与の才能を見せ始め、父親の手ほどきでピアノを習得。

16歳で親元を離れると、ベルリンに遊学し音楽を研修します。 

この時に保護を受けたのは、ベルリンのカール・フリードリヒ・ツェルターで、ベルリン・ジングアカデミーの学生として教会音楽を中心に学んでいました。 

また有名なメンデルスゾーンによる、バッハのマタイ受難曲の蘇演の際、ニコライはジングアカデミーの学生として、イエス・キリストのパートを歌っています。

メンデルスゾーンはニコライと同じくツェルターの弟子だったのです。 

その後は1833年に駐ローマ・プロイセン大使館付き礼拝オルガニストとなり、1840年代にはウィーンに拠点を移し、ケルントナートーア劇場の楽長に就任しました。

そして18423月にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の前身である宮廷楽団員の自主演奏団体「フィルハーモニー・アカデミー」による最初の演奏会を催しています。 

1847年にベルリン歌劇場の音楽総監督となった2ヶ月後に、後の代表作となる歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』を発表。大成功を収めました。 

この作品はシェークスピアの同名喜劇をモーゼンタールが台本に書き上げ、三幕七場にまとめた魅惑的な喜歌劇で、184939日にベルリン王立歌劇場(現在のベルリン国立歌劇場)にて初演されました。 

またそれに先立つ184741日には同じく王立歌劇場で、ニコライ自身が創立したウィーン・フィルハーモニー管弦楽団により、作品の抜粋と序曲が演奏されています。 

このオペラは同時期のドイツ語による喜歌劇 - ジングシュピールの中でも、ユーモアと新鮮さにおいて傑出しているとされ、分けても序曲は人気で、現代でも演奏会用としてコンサートで広く取り上げられています。












 





生涯 

プロイセン王国のケーニヒスベルク(現カリーニングラード)に生まれた。

幼少のころ天与の才を示し、音楽家であった父親が神童と銘打って売り出そうと躍起になったことから、16歳で親元を離れ、ベルリンのカール・フリードリヒ・ツェルターの保護を受けてベルリン・ジングアカデミーの学生として教会音楽を中心に学ぶ。

1831627日に行われた演奏会で、ツェルターとその弟子のフェリックス・メンデルスゾーンとともにバッハのマタイ受難曲を蘇演したジングアカデミーの学生として、イエス・キリストのパートを歌った。

1833年には交響曲第1番を初演するなど、ドイツでの初期の成功を収めた後に、駐ローマ・プロイセン大使館付き礼拝オルガニストとなった。

1840年代にウィーンに活動の拠点を移し、ケルントナートーア劇場の楽長に就任した。特筆すべき活動として、18423月にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の前身である宮廷楽団員の自主演奏団体「フィルハーモニー・アカデミー」による最初の演奏会を催している。 

1844年に、ベルリンの宮廷礼拝堂Koenigliche Hofkapeleの楽長職を務めていたフェリックス・メンデルスゾーンが退任して空席となったため、ニコライが後任に推されたが、彼自身は晩年の1849年に至るまで、ベルリンに生活の拠点を移すことはなかった。

 喜歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』の初演から約2ヵ月後、ベルリンの王立歌劇場(現ベルリン国立歌劇場)・宮廷礼拝堂楽長就任の2日前にあたる1849511日、脳梗塞で倒れて息を引き取った。

亡くなる数日前にプロイセン王立芸術アカデミー会員への推薦がなされ、死後アカデミー会員に加えられた。























作品

・オペラ

Rosamonda d'Inghilterra(エンリーコ2世、1839年)

Il Templario(神殿の騎士、1840年)

Odoardo e Gildippe1841年)

Die Heimkehr des Verbannten(追放された男、1844年)

ウィンザーの陽気な女房たち(1849年) 

・交響曲

交響曲第1番 ハ短調

交響曲第2番 ニ長調 

・ミサ曲

ミサ曲ニ調(1835年)











 



















































































































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105 : František Alois Drdla, [楽興の時]

 

 

 

 

František Alois Drdla









 

 

 

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フランティシェク・アロイス・ドルドラ

 

 

 

 

フランティシェク・アロイス・ドルドラ(František Alois Drdla, 18681128 - 194493日)は、ライト・クラシックの作曲で著名なチェコのヴァイオリニスト。

ドイツ語式にフランツ・ドルドラ(Franz Drdla)とも呼ばれる。

 

 

 

 









 

生涯

モラビアのズジャール・ナド・サーザヴォウ(Žďár nad Sázavou)に生まれる。

ヴァイオリンと作曲を最初にプラハ音楽院で学んだ後、ウィーン音楽院でヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世にヴァイオリンを、アントン・ブルックナーに音楽理論を、フランツ・クレンに作曲を師事。

しかしながらドルドラの作風にこれらの教師の影響は見出されない。有名な演奏会ヴァイオリニストとして欧米各地を巡演する。

1944年にオーストリアのバート・ガスタインにて他界。

























 

 

 

 

 

 

 

 






































 

作品

3つのオペレッタや1つのヴァイオリン協奏曲、数点の管弦楽曲や2つのピアノ三重奏曲などの大作を遺しているものの、作曲家のドルドラに国際的な名声をもたらしたのは、後期ロマン派様式による軽めの性格的小品である。

わけても有名なのは、ヴァイオリンとピアノのための《思い出》と《幻影 Vision 》のほか、ピアノ五重奏のためのハンガリー舞曲《ヘイ ハイ! Hej, Haj! 》作品30-4である。

ドルドラの性格的小品は、人気のあるボヘミア風の旋律とハンガリー風の旋律を混ぜ合わせ、「ハンガリー風に」表現したものである。



























♪ヴァイオリンらしさにあふれた可憐な小品 

フランティシェク・ドルドラはチェコ出身でオーストリアを中心に活躍したヴァイオリニスト、作曲家です。 

室内楽やヴァイオリン協奏曲、オペレッタなどの大作も残しましたが、作曲家としての彼の名を広めたのは「思い出」に代表されるヴァイオリンの小品です。

日本でもほぼこの曲のみによって知られています。 

「思い出」の作曲についてはこんな話が伝えられています。

ある日、ドルドラは友人宅を訪ねるためにウィーン郊外の電車に乗っていました。

車両がちょうどシューベルトのお墓の前を通り過ぎた時、ふいに旋律を思いつきあわてて切符に書きとめました。

それが「思い出」です。 

思いついたメロディーをあり合わせの紙に書き留めるという行為は、生前のシューベルトの癖としても有名です。   単なる偶然でしょうか?














 

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104 : Clément Philibert Léo Delibes [楽興の時]

 

 




 

 

Clément Philibert Léo Delibes



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Clément Philibert Léo Delibes

 



クレマン・フィリベール・レオ・ドリーブ(Clément Philibert Léo Delibes, 1836221 - 189116日)は、バレエ音楽や歌劇で知られるフランス・ロマン派の作曲家である。

「フランス・バレエ音楽の父」と呼ばれる。

迫力や壮大などといった言葉とは無縁の、優美で繊細な舞台音楽を残した。




























 

♪自動のからくり人形コッペリアを中心に展開する物語

“フランス・バレエ音楽の父”と呼ばれる、クレマン・フィリベール・レオ・ドリーブは、1836221日に、フランスのサン・ジェルマン・デュ・ヴァルに生まれました。

12歳にしてパリ国立高等音楽・舞踊学校(パリ音楽院)に入学。

バレエ『ジゼル』で知られるアダンに師事し、作曲を学びました。

 卒業後はリリック劇場の伴奏者や、教会堂のオルガン奏者を務めましたが、19歳から作曲を始めた歌劇は、その後10年間で20曲に及び、29歳でグランド・オペラの合唱団次長に就任しています。

ドリーブを有名にしたのは『ナイラ』『コッペリア』『シルヴィア』のバレエ音楽で、1881年にはパリ音楽院の作曲家教授になっています。

また1884年にはマスネの後を継いで、アカデミー会員に推されました。

 代表作のひとつ『コッペリア』は、パリ・オペラ座で1870525日に初演されました。

 物語はE.T.A.ホフマンの『砂男』にヒントを得ています。

 人形作り職人のコッペリウスが製作した一体の美しい人形コッペリアを中心に、『砂男』とは正反対の、陽気で明るい喜劇が展開するこの作品。

 劇中でも特に知られるのが、第1幕の『スワニルダのワルツ』です。

 主役のスワニルダは、コッペリアを恋してしまう青年フランツの恋人で、『スワニルダのワルツ』は第1幕で登場する彼女によって踊られる曲です。

 流れるように優雅な旋律はとりわけ有名で、バレエ名シーンのひとつの象徴のような音楽にもなっています。

バレエ音楽は後に、5曲からなる組曲にもなっています。






















生涯

1836年、フランスの現在のサルト県に位置するサン・ジェルマン・デュ・ヴァル(Saint-Germain-du-Val)に生まれる。

彼の父は郵便配達人で、彼の母親は、才能のあるアマチュア音楽家であった。彼の祖父はオペラ歌手であった。

彼は、彼の父が1871年に死亡してからは、母親と叔父の手によって育てられた。

1871年、35歳の折、彼はLéontine Estelle Denainと結婚した。

彼の兄弟であるMichel Delibesは、スペインに移住したが、スペインの作家ミゲル・デリーベスの祖父である。

パリ国立高等音楽・舞踊学校(パリ音楽院)でアドルフ・アダンに師事し、作曲を学ぶ。

1853年には聖ピエール・ド・シャイヨ教会オルガン奏者を務める。

1891年、パリで没する。




























































































































作品 バレエ音楽

泉(La Source - 1866年作曲。

「ナイラ」(Nailä)とも。 エルンスト・フォン・ドホナーニが「バレエ『ナイラ』からのバレエ」としてピアノ用に編曲している。 

コッペリア(Coppélia - 1867年作曲。

オペラ座で1870525日初演。ドホナーニが「バレエ『コッペリア』からのバレエ」としてピアノ用に編曲している。

 シルヴィア(Sylvia - 1876年作曲。 歌劇2スーの石炭(オペレッタ)グリファール氏庭師とその主人王の言葉ニヴェルのジャン王の楽しみラクメカッシア 歌曲カディスの娘たち
















 







 



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103 : Riccardo Eugenio Drigo [楽興の時]

 

 




 

Riccardo Eugenio Drigo

 


















 

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Riccardo Eugenio Drigo

 



リッカルド・エウジェニオ・ドリゴ(Riccardo Eugenio Drigo, 1846630日 パドヴァ - 1930101日 同地)は、イタリアのバレエ作曲家、指揮者。ロシア・サンクトペテルブルクの国立バレエ団(Imperial Ballet)のカペルマイスターおよび音楽監督としての長いキャリアで知られる。

 

















 




♪昭和初期の日本で軽音楽として流行 

「ドリゴのセレナーデ」の名で知られる「愛のセレナーデ」の作者として有名なリカルド・ドリゴは、19世紀から20世紀にかけて活躍したイタリア出身の作曲家、指揮者です。 

音楽家としては主に、ロシアのペテルブルグの劇場でバレエ音楽の作曲や指揮などをしていましたが、ロシア革命以降はあまり恵まれない環境となり、故郷のイタリアへ帰ってそこで亡くなるまで過ごしています。 

「愛のセレナーデ」はほとんど唯一といっていいドリゴの代表作で、自作のバレエ音楽「百万長者の道化師」の中の1曲です。

日本には昭和1618(1941-43)頃に紹介され、ラジオから流れるその音楽に多くのファンが心躍らせたようです。 

当時の日本ではクラシックほど重くなく、流行歌ほど軽くない軽音楽(今でいうイージーリスニング)が登場し、とても人気を博していました。

この曲も原曲よりそうした軽音楽にアレンジした形で聴かれるのが一般的だったようです。

 























ドリゴはパドヴァで家族の友人Antonio Jorichに音楽を習った後、ヴェネツィアの音楽学校でアントニオ・ブッツォーラ(ガエターノ・ドニゼッティの教え子)に師事した。

彼はピアノ教師を務め、また故郷で作曲家・指揮者として成功を収めた。 

1878年にドリゴはロシアへ移住し、この地で40年以上を過ごすこととなった。1879年、彼はサンクトペテルブルクでイタリア・オペラの指揮者に任命された。

1886年に彼はこの地位を辞して、国立バレエ団の指揮者・作曲家の地位に就いた。彼はロシアで最先端のダンサーや振付師たち(マリウス・プティパ、レフ・イワノフら)と共に活動した。

彼が最初に指揮したのはチャイコフスキーの『眠れる森の美女』と『くるみ割り人形』であった。

1899年、彼はプティパ振り付けのバレエ『海賊』(Le Corsaire, サンクトペテルブルク、1899年)第二幕の有名なパ・ド・ドゥの音楽を作曲した。

ドリゴ自身が作曲を行った作品もまた有名なものであった。

1900年に初演されたバレエ『百万長者の道化師』(Les Millions d'Arlequin)は、国際的な名声を得ることとなった。 

ドリゴは自主的に亡命のような状態に身を置いたものの、時折はイタリアを訪れ続けていた。

最終的に1920年、彼はロシア革命後のロシアに身を置けなくなり、パドヴァへと戻った。

その後、地元の劇場のためのバレエ作品を数作作曲している。1930年、故郷パドヴァにて逝去。84歳没。

















 










「フローラの目覚め」

 (別名 Flora's Awakening, または Le Réveil de Flore; 時折、誤って「花の目覚め」 The Flower's Reawakening あるいは The Reawakening of the Flowers と呼ばれることがある) -

リッカルド・ドリゴ作曲、マリウス・プティパ振付の陽気なアナクレオン風の1幕物のバレエ。台本を書いたのはマリウス・プティパとレフ・イワノフ。

このバレエは、クセニア・アレクサンドロヴナ(皇帝アレクサンドル3世と皇后マリア・フョードロヴナの娘)とアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の結婚祝賀典のために作られた。 初演は1894728日(ユリウス暦、新暦では89日)で、ロシアのサンクトペテルブルクにあるペテルホフの劇場で帝室バレエ団が宮廷のために上演した。









主な作品 

バレエ

百万長者の道化師(Les Millions d'Arlequin

魔法の笛(La Flute magique

フローラの目覚め(Le reveil de Flore

タリスマン(Le Talisman





















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102 : Claude Achille Debussy [楽興の時]

 

 

 

Claude Achille Debussy

 















 

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Claude Achille Debussy

 

 

クロード=アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862822 - 1918325日)は、フランスの作曲家。

長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などとを用いて独自の作曲を実行した。 

ドビュッシーの音楽は、代表作『海』や『夜想曲』などにみられる特徴的な作曲技法から、「印象主義音楽(印象派)」と称されることもある。

また歌詞やテーマの選択は象徴派(象徴主義)からの影響が色濃いと目されることもあるのだという。 

尚、名前は生後1890年(23歳)まで「アシル=クロード」、1890年(23歳)から「クロード=アシル」である。

 



















 

 

年譜 

1862 - 822日 誕生。

1871 - この年から3年ほど、モーテ・ド・フルールヴィル夫人にピアノのレッスンを受ける。

1872 - パリ音楽院入学。以後12年在籍。ピアノをマルモンテル、ソルフェージュをラヴィニャック、和声学をデュラン、作曲法をギローに師事。1880 - チャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴。

1884 - ローマ大賞を受賞。

1885 - ローマに滞在。1887 - パリに戻る。

1888 - 1度目のバイロイト行き。

1889 - パリ万国博覧会で東洋芸術に接触、2度目のバイロイト行き。

1890 - 名前を「アシル=クロード」から「クロード=アシル」に変える。『ベルガマスク組曲』。

1891 -2つのアラベスク』。この頃、初期のピアノ小品や歌曲を多く手がける。

1893 - メーテルリンクの戯曲「ペレアスとメリザンド」に出会う。1894 - 『牧神の午後への前奏曲』。

1899 - リリー・テクシエと最初の結婚。1902 - 『ペレアスとメリザンド』初演。

1905 - 『海』、エンマ・バルダックと同棲。長女クロード=エンマ(シュウシュウ)誕生。

1910 - 『前奏曲集第1集』。

1911 - 舞台音楽劇『聖セバスティアンの殉教』。

1913 - バレエ音楽『遊戯』。バレエ・リュスのために作曲。

1914 - 第一次世界大戦勃発、大腸癌を発病。「様々な楽器のための6つのソナタ」着手(完成は3曲)。

1918 - 325日夕方 死去。

1919 - 娘クロード=エマ死去。

 



















 

生涯 

幼少期 

1862822日午前4時半、イヴリーヌ県のサン・ジェルマン=アン=レーのパン通り38番地に、「アシル=クロード・ドビュッシー」として生まれた。

父親のマニュエル・アシル・ドビュッシーは陶器店を経営し、母親のヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシーは裁縫師であった。

5人兄弟の長男として生まれているが、彼が2歳(1864731日)になってから洗礼を受けている。

その年に一家は経営難のためサン・ジェルマン=アン=レーを離れ、母方の実家(クリシー)に同居する。 

1870年、カンヌに住む伯母クレメンティーヌ(父の姉にあたる)のもと、彼女の肝煎りでイタリアのヴァイオリニスト、ジャン・チェルッティ(Jean Cerutti)にピアノを習う(期間は不明)。

このカンヌでの滞在は1回だけであったが、後年ドビュッシーは鮮烈な印象を残したと手紙の中で語っている。 

1871年、詩人ヴェルレーヌの義母マリー・モテ・ド・フルールヴィル夫人に基礎的な音楽の手ほどきを受ける。

これは、偶然にも父親の知人であったヴェルレーヌの義兄で小唄作者のシャルル・デ・シヴリー(Charles de Sivry)と出会い、シヴリーが少年のドビュッシーを自分の母親のフルールヴィル夫人に引き合わせたとされる。

夫人はドビュッシーの才能を見抜き、親身に彼を教えたという。 

幼少期のドビュッシーについては、後年本人が語ろうとしなかったため、彼がどのように過ごしたのかは不明である。

ただしこの時期からピアノの手ほどきを受けていたことは確かである。

 



















 

 

音楽院入学とローマ賞

 18721022日、10歳の若さでパリ音楽院に入学する。

この時の合格者がドビュッシーを含むわずか33名であった。

1年後、エルネスト・ギロー(作曲)、オーギュスト・バジュ(ピアノ伴奏法)、アントワーヌ・マルモンテル(ピアノ)、エミール・デュラン(作曲)、アルベール・ラヴィニャック(ソルフェージュ)らに学ぶ。

元々ピアニストになるつもりで、入学当初はマルモンテルのピアノ科クラスに入り(同時にラヴィニャックのクラスに入る)、1873年の129日にJ.S.バッハの『トッカータ』(BWV915)を弾いた際、「魅力的な素質」と評価されて自信を持ち、ピアニストへの道に進むことを決めたという。

1874年に学内のコンクールにおいてショパンのピアノ協奏曲第2番の第1楽章を弾いて第2次席賞を獲得。1875年にショパンの『バラード第1番』で第1次席賞を得るが、1876年には獲得できなかった。

1877年にはシューマンの『ピアノソナタ第2番』(第1楽章)で再び第2次席賞を獲るが、1878年と1879年は2年続けて賞が取れずに失敗し、これによってピアニストになることを諦める決心をした。

この失敗を知った両親は落胆し、特に母親ヴィクトリーヌ・マヌリは「落伍者」と呼び、さらには「こんな汚辱の子を育てるより、蝮を生んだ方がましだった」と言い放ったという。

結局ピアノで賞を得ることができず(1位入賞を目標にしていたため)、その年にピアノ科を去り、10月にバジュ(バズィーユ)のピアノ伴奏法のクラスに入る。 

一方でドビュッシーは作曲にも挑戦している。

1878年にピアノ曲『フーガ』(L番号なし)を作曲し、これは現存するドビュッシーの最古の作品とされている。

1879年に歌曲『月に寄せるバラード』(L.1)と『マドリード』(L.2)を作曲する(ただし79年の2つの歌曲は紛失)。 

18807月、18歳のドビュッシーはチャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴し、『ピアノ三重奏曲』(L.3)や『交響曲 ロ短調』(L.10)の断片を作曲した。

また、『ボヘミア舞曲』(L.9)という小品を夫人の計らいでチャイコフスキーへ送るが、酷評を受けた(出版はドビュッシーの死後)。

メック夫人を通して、チャイコフスキーの当時の最新作であった交響曲第4番(1877年)などのロシアの作品も勉強しており、この経験が元でチャイコフスキーやロシア5人組に影響を受ける。また貴族趣味も芽生えた。 

パリに戻ったのち、この年の1224日にギローのクラスに入る(当初マスネに師事するつもりでいた)。

またセザール・フランクのオルガンのクラスに顔を出しているが、オルガンにおける「執拗な灰色の色調」に嫌気が差したためにわずか半年でクラスから逃げるように立ち去っている。 

1882年に歌曲『星の輝く夜』(L.4)を出版する。また10作以上の歌曲を作曲する。この年の5月にローマ賞に挑戦するも、予選落ちに終わる。 

18835月、2回目となるローマ賞に挑戦し、『祈り』(L.40)で予選を通過。カンタータ『剣闘士』(L.41)本選の第2等賞を獲得する。 

1884年に3回目となるローマ賞に挑戦し、カンタータ『春』(L.56)で予選を通過、カンタータ『放蕩息子』(L.57)でローマ大賞を受賞する。

審査員の中にはグノーやサン=サーンスもいた。

1885年から1887年にかけてイタリアのローマへと留学したものの、あまりイタリアの雰囲気には馴染めず、ローマ大賞受賞者に与えられる期間を繰り上げてパリに戻った。

これにはヴァニエ夫人という意中の人がいたためとも言われる。このヴァニエ夫人のために書かれたいくつかの歌曲のうちポール・ヴェルレーヌの「艶なる宴」に基づくものは後に『艶なる宴』(全2集)としてまとめられた。

またローマに留学していた頃に生み出された作品は、いくつかの歌曲や交響組曲『春』、合唱と管弦楽のための『ツライマ(ズレイマ)』(L.59、後に破棄されて現存しない)である(なおローマからパリへ帰郷してから作られた作品はカンタータ『選ばれた乙女』や『ピアノと管弦楽のための幻想曲』)。 

1888年の夏、銀行家のエティエンヌ・デュパンの支援によって念願であったバイロイトへ初めて行き、同地で『ニュルンベルクのマイスタージンガー』と『パルジファル』を聴く。
















 

 

中期 

1889年は27歳のドビュッシーにとって大きな転機の年となる。

1月には国民音楽協会に入会してエルネスト・ショーソンらと知り合い、新たな人脈と発表の場を得た。

6月にパリ万国博覧会でジャワ音楽(ガムラン)を耳にしたことは、その後の彼の音楽に大きな影響を与え、その後2度目に訪れたバイロイト音楽祭ではワグネリズムの限界を感じ、これを境にアンチ・ワグネリアンを標榜することになる。 

1890年の28歳のとき、名前を「アシル=クロード」から「クロード=アシル」に変えた。

18934月、『選ばれた乙女』、が国民音楽協会の演奏会で初演され、その後同協会の運営委員にも選出された。

また1229日に『弦楽四重奏曲』がイザイ弦楽四重奏団によって初演されている。 

18943月、テレーゼ・ロジェと婚約するがガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)の知るところとなり破談。この出来事でショーソンと疎遠になり、ショーソンが18996月に事故で没したときにも葬儀に参列しなかった。

1222日に『牧神の午後への前奏曲』が初演。 

1900年代に入ると、『ビリティスの歌』(1900年)、『夜想曲』(1900年)、『版画』(1904年)などが初演された。また、オペラ『ペレアスとメリザンド』が完成し、1902年に初演され大きな成功を収めた。

これらの一連の作品で成功したドビュッシーは作曲家としてのキャリアを確実なものとした。

1903年にはレジオン・ドヌール五等勲章を受勲している。 

1913年、バレエ音楽『遊戯』が完成し同年にピエール・モントゥーによって初演され、夏に『おもちゃ箱』の作曲に着手する(管弦楽化はアンドレ・カプレと協力)。

12月、モスクワとペテルブルクに演奏旅行に行く(クーセヴィツキーとジロティの要請による)。













 

 

晩年 

1914年、第一次世界大戦が勃発してエンマの息子などが兵士として動員されたことを受けて、戦争を恐れるようになっていたドビュッシーは、9月に家族とともにアンジェに避難したが、1か月後にパリへと戻る。

この時すでにドビュッシーの身体は病に侵されており、大腸癌を発病していた。この頃から「様々な楽器のための6つのソナタ」に着手するも、完成したのは3曲のみであった。 

1915年、『12の練習曲』や『6つの古代碑銘』などを生み出す。323日に母が死去、同じ頃にエンマの母もこの世を去っている。 

1916年は『ヴァイオリンソナタ』の構想や、未完に終わったオペラ『アッシャー家の崩壊』の台本(決定稿)の作成に取り掛かる。またこの年には2台ピアノのための『白と黒で』や『チェロソナタ』などを含む4つの作品が初演されている。私生活では、離婚した元妻のリリー(マリ・ロザリー・テクシエ)に対する月手当ての支払いが1910年以来ため、裁判所から3万フランの供託金の支払いを命令されている。 

19177月、一家はスペインの国境付近のサン=ジャン=ド=リュズに3か月滞在する。この地は保養地として有名であったため多くの著名人がこの地に訪れている。ドビュッシーは同地で自作の『ヴァイオリンソナタ』を演奏しているが、これが生涯最後の公開演奏となった。

この時期に計画していた残りのソナタとピアノ協奏曲の作曲を想起していたが、これらの作品はいずれも実現せずに終わっている。 

1918年初旬、病により床から離れなくなり、325日の夕方に静かに息を引き取る。葬儀は29日に行われ、遺体はパッシーの墓地に埋葬された(埋葬は翌年のことで、前年は仮に安置されていた)。

またドビュッシーが没した翌年の1919年に娘クロード=エマがジフテリアによる髄膜炎によって夭逝、妻エンマは16年後の1934年に世を去った。


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神奈川沖浪裏 - 葛飾北斎








 

神奈川沖浪裏 - 葛飾北斎の代表的な木版画、名所浮世絵の連作『富嶽三十六景』の一つ。この絵に対する印象から交響詩『海』を作曲したと言われる。

 






 

人物 

気難しい性格で、内向的かつ非社交的であった。

音楽院に入学してからは伝統を破壊しかねない言動(不平不満や文句)をしていたため、ギローなど担当教師らを困らせていた。

その性格に依るところがあるせいか、女性関係においてのトラブルも絶えなかった。元々18歳より弁護士の人妻マリー=ブランシュ・ヴァニエ夫人(Marie-Blanche Vasnier)と8年間の情事のあと別れ、1889年から(Rue Gustave Doré)にて同棲を続けていたガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)とは、自殺未遂騒動の末に1898年に破局を迎えた。

同じ頃、ソプラノ歌手のテレーゼ・ロジェ(Thérèse Roger)とも情通している。翌年にはギャビーの友人であるマリ・ロザリー・テクシエ(愛称リリー)と結婚するが、1904年頃から、教え子の母親、銀行家の人妻であるエンマ・バルダックと不倫関係になり、リリーはコンコルド広場で胸を銃で撃ち自殺未遂となり、離婚する(1905年)。

この事件がもとで、ドビュッシーはすでに彼の子を身ごもっていたエンマとともに一時イギリスに逃避行することとなり、友人の多くを失うこととなる。

長女クロード=エンマ(愛称シュシュ)の出産に際しパリに戻り、エンマと同棲した(1908年に結婚)。

シュシュはドビュッシーに溺愛され『子供の領分』を献呈された。 同じ印象派の作曲家とされることが多いモーリス・ラヴェルは、『ペレアスとメリザンド』に対しては彼が所属するグループ「アパッシュ」のメンバーとともに積極的に支持したが、『版画』の第2曲「グラナダの夕暮れ」が、彼が1895年に作曲した2台ピアノのための「ハバネラ」(後の『スペイン狂詩曲』の第3曲)と類似しているとしてドビュッシーに反発し、以来両者は疎遠となった。
































 

 

♪愛娘に捧げられた美しいピアノ曲集



 後に続く者への父親の優しい言葉をそえて私の可愛いシュウシュウへ


1905年、43歳のドビュッシーは再婚したエマ夫人との間に、自身にとって初めての子である娘クロード=エマを授かります。


ドビュッシーはこの娘をシュウシュウ(キャベツちゃん)と呼んで、とても可愛がりました。

そんなシュウシュウのために作曲されたのがピアノ曲集「子供の領分」です。

当時のフランス家庭では部屋の一画を囲って、そこにまだよちよち歩きの子供を入れて、積木やおもちゃで遊ばせていました。


もちろんシュウシュウのためにもそれは用意されました。

子供の領分と呼ばれるそのスペースで遊ぶシュウシュウの姿に、ドビュッシーは親ばかそのもので一喜一憂していました。


ピアノ曲集としての「子供の領分」は、決して子供向けの作品ということではなく、シューマンの「子供の領域」のように、大人が子供の気分に帰って楽しむような作品です。

天才ドビュッシーがここでは童心に帰って音と戯れているかのようです。


「グラドゥス・アド・パルナッスム」とは当時の著名な音楽教育者クレメンティの練習曲集のことで、これに“博士”とつけていやいや稽古に励む子供の姿を描くかのようなパロディにしています。

















 

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フランス紙幣

 

主な作品 

ピアノ曲

2台ピアノ・4手連弾のための曲

管弦楽曲・協奏曲

室内楽曲

バレエ音楽

歌曲

オペラ、カンタータ、劇付随音楽

その他の楽曲

 

 

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101 : Gaetano Donizetti [楽興の時]

 

 

 

Gaetano Donizetti

 














 

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Gaetano Donizetti

 




ガエターノ・ドニゼッティ(Gaetano Donizetti, 17971129 - 184848日)は、イタリアのベルガモに生れて同地で没したオペラの作曲家。

ジョアキーノ・ロッシーニやヴィンチェンツォ・ベッリーニと共に19世紀前半のイタリアを代表するオペラ作曲家として人気を博した。


























 

村の娘への純粋な愛を歌い上げる名アリア

世界3大テノールが競演の度に取り合いになったという曲です。
リリック・テノールのアリアの中でも最高傑作と謳われています。

作曲者のドニゼッティは19世紀イタリアオペラの重要人物です。
興隆を極めたロッシーニが37歳にして突如筆を折って間もなく、その後のイタリアオペラ界を担う二人の作曲家、ガエターノ・ドニゼッティとヴィンチェンツォ・ベッリーニが登場しました。
ヴェルディが現れるまでのイタリアオペラはこの二人の時代でした。

ドニゼッティは速筆で知られ、生涯に70作ものオペラを書いています。
方やベッリーニは慎重に推敲を重ねるタイプでした。

そのためドニゼッティの作品はベッリーニに比べ軽く見られがちですが、実際はひらめき型の天才で、一気に集中して書き上げるタイプだったようです。

また初期にはオペラより器楽曲の作曲が中心で、鍵盤楽器曲も数多く残されています。

「愛の妙薬」はオペラ作曲家としての地位を確立させた作品であり、同時に彼の代表作のひとつとして上演され続けています。
その第二幕第二場で、純粋な農村青年ネモリーノが、村娘アディーナを想い切々と歌い上げるのがアリア「人知れぬ涙」です。

台本作家フェリーチェ・ロマーニは当初、この名アリアを不要としましたが、最終的にはドニゼッティの主張でオペラに挿入されることになりました。




















生涯

1806(9) - サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の楽長を務めていたヨハン・ジモン・マイールの慈善音楽院で学ぶ。

1815(18) - マイールの尽力でボローニャ音楽院入学。

その後、法律家になる事を期待した父親の束縛を逃れる為に軍隊に志願。

兵籍のまま作曲を続ける。

1830(33) - オペラ『アンナ・ボレーナ』を発表し、名声を確立した。 

1839(42) - オペラ『ポリウト』をナポリで上演しようとしたが検閲官に拒否され、『殉教者』と改題しフランス語によりパリで初演。

1842(45) - 3月、ロッシーニの『スターバト・マーテル』のイタリア初演をボローニャで行い、大成功を収める。

1844(47) - この頃から梅毒や双極性障害が原因と思われる頭痛や神経性麻痺に見舞われ、1848年に故郷ベルガモに戻り50歳と4ヶ月で没する。

 

































































ソプラノ歌手の声と技巧の聴かせどころとしても有名な、このイタリア語歌曲を歌い上げ­るVITASの美声と麗しい容貌には、華麗な映像と相まって、心を揺さぶられるような­衝撃を受ける。

このMVがきっかけでVITASに興味を持つようになったというファン­も多い。

コンサートでも、よく二人の美人バイオリニストを従えてステージに現れる演出­を行う。オペラ作曲家ガエターノ・ドニゼッティ(Donizetti G.)が、1835年に書き上げたオペラ『ランメルモールのルチア(Lucia di Lammermoor)』の狂乱の場のシーンで、正気を失ったヒロイン、ルチアが延々­と歌い続けるイタリア語の歌が元となっており、後半は独自の編曲によるアレンジがなさ­れている。










 


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ガエターノ・ドニゼッティはオペラの作曲家で沢山のオペラがYoutubeに投稿されております。

ほとんどが演奏時間12時間にわたるものですので、オペラは割愛し短い演奏曲目を選定してあります。

ご希望の向きは、Youtubeでドニゼッティを検索されお楽しみください。










 

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100 : Albert Franz Doppler [楽興の時]

 

 

 

Albert Franz Doppler

 

















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ドップラー兄弟 左がフランツ、右がカール(弟)

 
















フランツ・ドップラー(ハンガリー語: Doppler Albert FerencAlbert Franz Doppler18211016日 オーストリア領ガリツィア・ルヴフ – 1883727日 バーデン・バイ・ウィーン)はフルート曲で有名なハンガリー人の作曲家。













 

 

だが生前は、むしろオペラやバレエなどの舞台音楽の作曲家として評価が高かった。

また、リスト・フェレンツの『ハンガリー狂詩曲』のいくつかを編曲したことでも知られている。

1828年から1831年まで、オーボエ奏者であった父親からフルートの指導を受ける。

18歳でブダペスト歌劇場の首席フルート奏者に就任。

その後はウィーン宮廷歌劇場の首席フルート奏者から首席指揮者の地位へと昇り詰め、1864年から1867年までウィーン音楽院のフルート科の教授も務めた。 

オペラやいくつかのフルート協奏曲のほか、超絶技巧を要する華麗なフルート小品を残している。

フルート二重奏曲やフルート二重奏のための協奏曲といった作品は、フルートのヴィルトゥオーソ兄弟としてヨーロッパ中を席巻した、弟カールとのデュエットのために作曲されている。

日本では、東洋的な曲想をもつ『ハンガリー田園幻想曲』作品26が人気が高い。

 

 弟カール・ドップラー(ドップレル・カーロイ) Karl Doppler ともどもフルートのヴィルトゥオーソにして作曲家であった。

カールの子である甥アールパード・ドップラー(ドップレル・アールパード Árpád Doppler)も作曲家となり、米国で活動した。












 

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ハンガリー風 馬の調教

 



























 

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ハンガリー大平原






















































































 

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099 : Enrico Toselli [楽興の時]

 

 

 

Enrico Toselli

 




「嘆きのセレナード」

 











 

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「嘆きのセレナード」は、 フィレンツェ出身の作曲家エンリコ・トセリ(Enrico Toselli )の作曲した曲です。

詞はアルフレード・シルベストリという人が書いています。

 

セレナードは、夕方に演奏される曲という意味合いももっています。

逆に朝に演奏される曲は、「マッティナータ」と言います。

セレナードで有名な曲は、この曲のほかに、「ドリゴのセレナード」 や「トスティのセレナータ」、、「シューベルトの「 セレナード」、グノーの「夜の調べ」があります。























♪イージー・リスニングとしても親しまれるセレナーデ


 エンリコ・トセリはイタリア出身の作曲家、ピアニストです。

主に歌劇やオペレッタなどを中心に作曲しましたが、ピアニストとしてもヨーロッパを舞台に活躍していました。

また元皇太子妃との恋物語も当時話題になったそうです。

トセリはピアノ曲や歌曲も残しましたが、その中で最も有名なのがこの「セレナーデ」です。

「トセリ(トセルリ)のセレナーデ」または「嘆きのセレナーデ」としても広く親しまれています。

この曲は日本では戦前から軽音楽としても聴かれ、現在でもムード音楽としてアレンジされ演奏されることもあります。

多くの作品を作曲したトセリですが、今ではこの「セレナーデ」のみが唯一残っています。












































































 

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098 : Antonín Leopold Dvořák [楽興の時]

 




Antonín Leopold Dvořák














 

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Antonín Leopold Dvořák

 




アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク(チェコ語:Antonín Leopold Dvořák [ˈantɔɲiːn ˈlɛɔpɔlt ˈdvɔr̝aːk] Cs-Antonin Dvorak.ogg 184198 - 190451日)は、チェコの作曲家。

チェコ国民楽派を代表する作曲家であり、後期ロマン派を代表する作曲家というにとどまらず、クラシック音楽史上屈指の人気作曲家でもある。

なお、チェコ語の発音に近いアントニーン・レオポルト・ドヴォジャークの表記が用いられることもある。

ブラームスに才能を見いだされ、『スラヴ舞曲集』で一躍人気作曲家となった。ベドルジハ・スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれる。その後、アメリカに渡り、音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させている。

代表作に、弦楽セレナード、管楽セレナード、ピアノ五重奏曲第2番、交響曲第7番、交響曲第8番、交響曲第9番『新世界より』、スラヴ舞曲集、この分野の代表作でもあるチェロ協奏曲、『アメリカ』の愛称で知られる弦楽四重奏曲第12番などがある。







 

 

3大交響曲に数えられる名曲


3大交響曲のひとつとされる「新世界より」から第1楽章です。

ナショナル音楽院の院長として招かれたドヴォルザークが、遠く離れた異郷の地アメリカから故郷ボヘミアを想い、その望郷の念を示した音楽による手紙のような作品です。

2楽章は「家路」として歌にもなり有名ですが、やはりこれも「第九」と同じで一番聴き応えがあるのは音楽的内容も充実した第1楽章だと思います。

特にコーダに向けての盛り上がりは圧倒的で、3大交響曲の名にふさわしい威厳さえ感じさせます。







 

 

♪アメリカ時代に生まれたチェロ協奏曲の傑作


ニューヨークに新設されたナショナル音楽院の学院長として招かれたドヴォルザークですが、元来純朴で田舎好きな彼は、次第にアメリカでの生活にストレスを感じるようになり、ついにはまだ契約途中であるにも関わらず、音楽院を去り故郷のボヘミアへ帰ってしまいます。

チェロ協奏曲はその直前に書かれました。

アメリカ時代のドヴォルザークは他に交響曲「新世界より」、弦楽四重奏曲「アメリカ」といった彼を代表する作品を残しています。

ハイドンやシューマン、サン=サーンスなども書いたチェロ協奏曲ですが、内容を総合的に見てまず筆頭にあげられるのが、ドヴォルザークのチェロ協奏曲です。

この曲はチェロ協奏曲の枠を越えて、チャイコフスキーのピアノ協奏曲やメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲と並んで、大きく「3大協奏曲」としてコンサートで取り上げられることもあります。

師匠のブラームスは最晩年、この曲を聴くと「チェロでこんな曲が作れると知っていたなら、私もとっくに書いていただろうに」と悔やんだといいます。

1楽章はチェロ独奏の登場まで4分近くあるほど、伴奏のオーケストラが充実しています。

ホルンが奏でる牧歌的な第2主題の部分は、全曲中でも特に印象的なシーンです。

 












 

 

 

♪胸に染み入るような若き日の名作


34歳の青年がわずか10日余りで書き上げた若き日の名作です。

この頃のドヴォルザークは国費奨学生に合格したわずか3ヶ月後で、オーストリアからの奨学金により生活も安定していました。

2年前に結婚した妻との暮らしも、穏やかで幸福なものでした。

そんな満ち足りた感情がこの曲には表れていると言われます。

ドヴォルザークは才能ある優れたメロディーメイカーとして、同じく名旋律を数多く残したチャイコフスキーとよく比較されます。

チャイコフスキーもまた有名な弦楽セレナーデを作っていますが、ドヴォルザークの方にはチャイコフスキーのような派手さはないものの、地味ながら染み入るような深い味わいがあります。

人生について大風呂敷を広げるような内容ではありませんが、例えば日曜日の午後、何も考えずにゆっくりとお茶でも飲みながら聴きたくなるような、親しみやすく美しい音楽です。












 

 

 

♪哀愁漂う旋律が魅力


 師匠であるブラームスの「ハンガリー舞曲」に倣って、ドヴォルザークがスラヴ民族の民謡や舞曲を基に作曲したのがこの「スラヴ舞曲」です。

それぞれ8曲からなる第1集と第2集があります。

共に最初はピアノ連弾用に書かれましたが、あまりの大成功にすぐさま管弦楽版も出版されました。

今回お届けする第2集第2番は、第1集からの通し番号で「スラヴ舞曲第10番」として、単独で演奏されることも多い有名曲です。

 

 













音楽史上の位置づけ

ドヴォルザークは西洋音楽史上、後期ロマン派に位置する作曲家である。

この時代にはドイツ・オーストリア、イタリア、あるいはフランスといった音楽先進地域の外で国民楽派が勃興し、ドヴォルザークは、1歳年上のピョートル・チャイコフスキー(ロシア)、2歳年下のエドヴァルド・グリーグ(ノルウェー)らとともに、同楽派を代表する存在である。

同時に、ベドルジハ・スメタナとともにチェコ国民楽派あるいはボヘミア楽派の創始者の一人として、ドヴォルザークはレオシュ・ヤナーチェクを初めとする以後の作曲家たちに大きな影響を与えた。

ドヴォルザークは、ワーグナー派対ブラームス派の対立が明らかとなった時代に学習期を迎えている。

1860年代後半、彼はワーグナーの音楽に心酔し、プラハでワーグナーのオペラを常時上演していたドイツ劇場(スタヴォフスケー劇場)に足繁く通った。

1871年に作曲したオペラ『王様と炭焼き』第1作には、ライトモティーフの使用や切れ間なく続く朗唱風の音楽に、ワーグナーの影響が明らかに見て取れる。

しかし、この作品は失敗作と見なされ、初演を迎えることはなかった。

ドヴォルザークは、この『王様と炭焼き』第1作と全く同じ台本に異なった音楽をつけ、ナンバー・オペラに仕立てた『王様と炭焼き』第2作以降、徐々にワーグナーの影響下を脱していく。

こうしたドヴォルザークの才能にいち早く着目したのは、ワーグナーと相対していたブラームスである。

ドヴォルザークは、ブラームスや「ブラームス派」の音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックらの推挙によって作曲家としての地位を築いた。

彼は、こうした先人たちの残した豊かな遺産を十全に活用し、ワーグナーから学んだドラマ性、ブラームスも着目する構成力を高い次元で兼ね備えた作曲家であった。

とはいえ、ドヴォルザークの音楽をとりわけ魅力的にしているのは、シューベルトと並び賞される、その親しみやすく美しいメロディーである。

彼の交響曲第9番の第2楽章は、日本語の歌詞がつけられて唱歌「家路」として親しまれるだけでなく、学校やデパートなどの終業時刻を知らせるメロディーとしても多く利用されている。

ピアノ曲『ユーモレスク』変ト長調(Op.101-7, B.187-7)はフリッツ・クライスラーによるヴァイオリン独奏をはじめとする様々な編曲で演奏され、耳に馴染んでいるメロディアスな作品である。

また、歌曲『我が母の教えたまいし歌』は、クラシック音楽の声楽家のみならず、ポピュラー・シンガーによっても愛唱されている。









 





アメリカ音楽史への影響

ナショナル音楽院は、作曲の学校を創設するという目的のために創設された音楽院であった。

創始者のジャネット・サーバー夫人は、メトロポリタン歌劇場に対抗して、アメリカ人作曲家による英語のオペラ上演を行うことが夢であった。

すなわち、この音楽院は、アメリカにおける国民楽派の創立を目指す拠点としての位置づけにあった。

チェコ国民楽派の大物作曲家であったドヴォルザークを招聘した目的もアメリカ国民楽派創立に向けての音楽教育、特に作曲分野での充実を図る狙いがあった。

ドヴォルザークがアメリカに到着した直後に、サーバー夫人はアメリカ人作曲家のためのオペラ賞の設立を発表している。

しかし、アメリカ時代のドヴォルザーク門下からは特筆するような作曲家や音楽作品は生まれず、サーバー夫人のもくろみは直接的には果たされなかった。その理由として、基本的な音楽教育が不備でありナショナル音楽院の学生のレベルが高くなかったこと、ドヴォルザークが教鞭を執った期間が短すぎたこと、ドヴォルザーク自身がネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を研究・吸収することに時間を費やし実践的教育にまで至らなかったことなど、さまざまな憶測がなされている。

しかし、これはドヴォルザークが以後のアメリカ音楽の発展に寄与しなかったということには当たらない。ドイツを範とする傾向が強かった当時のアメリカの作曲界に、国民音楽の潮流を生み出したことは間違いない。

渡米8ヶ月後の1893521日、「ヘラルド・トリビューン」紙上に『黒人の旋律の真の価値』と題するドヴォルザークの論文が掲載された。

また1895年、チェコに帰国した後ではあるが、ニューヨークの音楽雑誌に『アメリカの音楽』と題する論文を発表している。これらの論文を通してドヴォルザークは、黒人やネイティブ・アメリカンの音楽の豊かさを啓発したのだった。そして、その主張を何よりも雄弁に物語ったものは、交響曲第9番「新世界より」、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」、チェロ協奏曲といった彼自身の音楽作品そのものであった。

これらの作品は、スラヴ的であると同時にアメリカのフォークロアの影響が表れており、アメリカの国民音楽創設の可能性を示す作品でもあった。

ドヴォルザーク門下生たちは、黒人霊歌やジュビリーを素材とした短い歌曲やピアノ曲を少なからず作曲し、出版したし、直接ドヴォルザークとの接触を持たなかった他の作曲家たちも似たような傾向を持つ楽曲を作り始めた。

ドヴォルザークはアメリカの音楽愛好家に深く愛され、チェコに帰国するころまでには作品のほとんどがアメリカ初演を終えていた。

ニューヨーク・フィルハーモニックはアメリカ音楽の興隆に寄与したことを感謝し、ドヴォルザークを名誉会員に推挙したのであった。

 

 

   
   
    









 

主な作品



ドヴォルザークの作品には作品番号のないものもあり、また作曲順になっていないものも多い。

このためヤルミル・ブルグハウゼル(ブルクハウザー)(Jarmil Burghauser)の整理番号が併記される場合がある。この整理番号は通常「B.」で略記され「B番号」と呼ばれる。

交響曲

管弦楽曲

協奏曲

室内楽曲

器楽曲

ピアノ独奏曲

声楽曲

歌曲

歌劇

編曲








 

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097 : Georg Philipp Telemann [楽興の時]

 



 



Georg Philipp Telemann





 



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Georg Philipp Telemann

 







 



 

ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann、ドイツ語発音: [geɔrk/geːɔrk fiːlɪp teːleman](ゲオルク・フィーリプ・テーレマン)、1681314 - 1767625) は、ドイツの作曲家。

 



ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann, 1681314 - 1767625)は、後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家である。



生前は同時代の作曲家であったバッハやヘンデルより、人気と名声のあった作曲家とされる。 彼の作品は優に4000曲を超え、ベーレンライター社から作品集が出版されている。



しかし同時期に始まった新バッハ全集がとっくに終わり、今は補遺版の刊行が行われているのに比べて、いまだに整理がしきれていない。



マルティン・ルーンケによるテレマン作品目録(TWV)、ヴァルター・メンケによるテレマン声楽作品目録(TVWV)がある。



オペラ20曲、室内楽200曲、協奏曲100曲、管弦楽130曲、受難曲46曲、教会カンタータ1000曲という膨大な作品を残したが、その中心は器楽作品である。



晩年になっても創作意欲が衰えず、晩年の作品にはトリオソナタの編成で『ディヴェルティメント』とかかれたものも含まれている。 



日本でも人気は高く、日本テレマン協会は1969年に発足(当時は大阪テレマン協会)、これはこの種の作曲家名を冠する団体ではかなり古い部類に属する。














 



 



J.S.バッハ以上の人気を誇ったバロックの多作家 



テレマンは後期バロックから古典派時代にかけて活躍した、ドイツはプロイセンのマクデブルグ出身の作曲家です。

生前は同時代のJ.S.バッハやヘンデルをも凌ぐ人気と名声を得ていたと言われています。 

どちらかというと大衆にも親しみやすい音楽を数多く書き、そのジャンルはオペラ、室内楽、協奏曲、管弦楽曲、受難曲、教会カンタータと多岐に渡り、数にしておよそ4000にのぼるという多作家です。 

死後は長い間忘れ去られていましたが近年になって、オリジナル古楽器による演奏などで再評価が高まっています。 

「無伴奏フルートのための12の幻想曲」はバロックの音楽様式が一通り揃ったようなバラエティ感に富み、美しい旋律を持った洗練された名作です。








 


















 



 



 



人物 



テレマンは後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家で、40歳以降は北ドイツのハンブルクで活躍した。

18世紀前半のヨーロッパにおいては随一と言われる人気と名声を誇り、クラシック音楽史上もっとも多くの曲を作った作曲家として知られる。

自身も オルガン、ハープシコード、リコーダー、リュートなど多くの楽器を演奏することができ、特にリコーダーについては高い技術を有する名人であった。

同時代の作曲家であったゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとはライプツィヒ大学時代からの友人で、頻繁に手紙のやり取りをしていたほか、ヨハン・ゼバスティアン・バッハとも親密な交友関係にあり、バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親にもなった。

また、1750年にバッハが死去した時には、バッハの業績を最大限に称える追悼の言葉を送っている。 

彼の音楽様式には、20歳代~30歳代に触れたフランス・イタリア・ポーランドの民族音楽、特に舞曲からの影響があり、ドイツの様式も含めてそれらを使いこなし、ロココ趣味の作風も示した。

彼は86歳と長生きだったため、晩年はハイドンの青年時代などと重なり、高齢でも創作意欲が衰えなかった。

トリオソナタの編成で『ディヴェルティメント』と書かれた晩年の作品もあり、常に新しい音楽傾向の先頭に立ち続け、対位法を主体とする後期バロック様式からホモフォニーによる古典派様式への橋渡しをした作曲家であった。

日本ではテレマンへの注目も高く、日本テレマン協会が1969年に発足(当時は大阪テレマン協会)して現在に至っている。  







































































































[ぴかぴか(新しい)]


投稿者談

とっても綺麗なバロックの名曲にも係わらず、あまり知られていない。

 パッヘルベルのカノンやアルビノー二のアダージョにも負けない この曲を是非聴いてもらいたい。



この旋律を聞いて、私も日本人のフィーリングには合うような気がします。

なにか・・・懐かしい旋律です。 :般若坊

 

 




































 



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テレマンのサイン










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ソラウ(現在のポーランド領ジャリ)のテレマン像


 

 



主要楽曲 



序曲・組曲

管弦楽曲

協奏曲

器楽曲

室内楽曲

鍵盤楽曲

オラトリオ

教会カンタータ

オペラ





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096 : Auguste Durand [楽興の時]

 

 




 

Auguste Durand

 


















 

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Auguste Durand

 











デュラン(Durand & Cie)はフランスの楽譜出版社。 

18691230日に、オルガニストで作曲家のオーギュスト・デュラン(Auguste Durand)とその友人ルイ・シェーネヴェルク(Louis Schönewerk)によってDurand-Schoenewerk & Cieとして設立された。

いったんは解散したが、1891年にオーギュストとその息子ジャックによりDurand & filsとして再出発、オーギュストの死後はDurand & Cieに名前を変えた。  

普仏戦争でのナショナリズム高揚とビュシーヌとサン=サーンスによる国民音楽協会の設立を背景に、サン=サーンス、フォーレ、ダンディ、ドビュッシー、デュカス、ロパルツ、ルーセル、シュミット、ラヴェル、ミヨー、プーランク、デュリュフレ、ジョリヴェ、メシアンといった作曲家の多くの作品を出版し、フランス近代・現代音楽の発展を支えた。

サラベール社、マックス・エシグ社と合併し、現在はユニバーサル音楽出版グループ(Universal Music Publishing Group)傘下にある。

 






































♪初心者の練習曲としても知られるピアノ小品 



デュランはフランスのオルガニスト、音楽出版業者、作曲家です。

教会のオルガン奏者を務めながら作曲家・音楽評論家としても活躍。 

しかし何といってもデュランの名を有名にしているのは、音楽出版のデュラン社の設立者としての肩書きです。 

友人と共に起こしたピアノ製造会社を基盤に、そこでフラックスランド社の出版事業を引き継ぎ、会社は解散と再建を経てドビュッシーやラヴェルなど、フランス近代音楽の楽譜で知られるようになっていきました。 

それに対し作曲家としてのデュランはピアノ用のサロン小品「シャコンヌ」と「ワルツ」が知られるぐらいです。

特に「ワルツ」はピアノ初心者用の小品として親しまれ、発表会の定番曲としてご存知の方も多いかもしれません。 

聴けばお気づきのように、ショパンの「子犬のワルツ」を思わせるような、軽快で流麗な楽しい1曲です。









































































































































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095 : Paul Abraham Dukas [楽興の時]







 

Paul Abraham Dukas

 













 

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Paul Abraham Dukas

 






ポール・アブラアム・デュカス(Paul Abraham Dukas [pɔl abʁaam dykɑːs]1865101 - 1935517日)はフランスの作曲家。





















♪ゲーテ作のバラードを華麗な管弦楽で見事に表現 

ポール・デュカスは1920世紀に活動したフランスの作曲家です。

14歳で独学で音楽の勉強を始め、17歳でパリ音楽院に入学。

その後は地道な音楽活動を続け、パリ音楽院の教授も務めました。 

デュカスは孤独を愛した完全主義者で、元来多作家ではない上に、1920年代には大半の自作曲を納得いかずに破棄してしまいました。

そうして残ったのは、わずかに13曲ほどだといいます。 

そんな自信作のひとつが交響的スケルツォ「魔法使いの弟子」です。

ゲーテの同名のバラードの仏語訳を原典としています。 

…ある日のことです。老いた魔法使いが雑用を弟子に言い残して旅立ってしまいました。

残された弟子は言い付けられた水汲みに飽き、箒に魔法をかけて代わりに仕事をさせますが、未熟な弟子の魔法のため床は水浸しに。

 魔法を解く呪文を知らない弟子は困り果て、鉈で箒を真二つに割ってしまいます。

ところが今度は箒が2本となって、更にすごい勢いで水を汲み出し、辺りは洪水のようになってしまいました。

そこへ師の魔法使いが帰ってきて、たちまちこれを鎮め、弟子を叱りつける…という物語です。 

デュカスの交響詩はこれに沿って、音楽で情景を描写していきます。

フランクに学び、同世代のドビュッシーらの影響も受けた彼の音楽は、伝統的な構築性とフランス的な色彩感が融合した独特の世界をもっています。 

「魔法使いの弟子」といえば、ミッキーマウスが弟子に扮した、ディズニー映画「ファンタジア」での使用が特に有名です。

ディズニーは映画化にあたり、当時の名指揮者ストコフスキーに直接話を持ちかけ、数曲のクラシック曲を選んで映像化しました。

 映画での「魔法使いの弟子」は、ストコフスキーによるオリジナル編曲です。冒頭のピチカートを省略したほか、随所に手が加えられています。















[ぴかぴか(新しい)] 素晴らしい音楽アニメ![ぴかぴか(新しい)]







経歴

 1865 - パリでユダヤ人の家庭に生まれる。

1879 - 独学で音楽の勉強を始める。

1882 - パリ音楽院に入学。和声をデュボワ、作曲をギローに学ぶ。

1891 - 管弦楽曲《序曲『ポリュクト』》で注目される。

1902-1917 - この間、新聞や雑誌に評論を発表。ベートーヴェン、スカルラッティ、サン=サーンスら作曲家の作品の編曲、ピアノ連弾曲への編曲などを行う。

1910 - パリ音楽院の管弦科教授。

1927 - パリ音楽院の作曲科教授。

1934 - フランス学士院会員に選ばれる。

1935 - パリにて死去。 

デュカスは孤独を愛し、作品は完璧を目指すため、1年に1作、あるいは『アリアーヌ』のように10年を要したものもあった。

1920年代には大半の作品を破棄してしまい、今日残るのは20曲ほどと言われる。

同世代のクロード・ドビュッシーとは親しく交際していた。

作曲家の弟子としてメシアン、デュリュフレ、ポンセ、ロドリーゴらがいる。彼がメシアンに与えた助言「鳥の声を聞きたまえ」は、メシアンのその後の作曲の根本的な言語の一つとなった(ただし、本人はデュカスに言われる前から鳥の声に注目していたようだ)。




















青年期 

1865101日、銀行家の父ジュール・デュカス、ピアニストだったウジェニーの次男としてパリで生まれた。

ウジェニーはポールが5歳の時にピアノのレッスンを受けさせたが、彼は14歳になるまで特段音楽の才能を示さなかった(彼が5歳の時、ウジェニーは第三子マルグリット・ルーシーを出産後に世を去ってしまう)。

1881年の終わりに16歳でパリ音楽院に入学し、ジョルジュ・マティアスにピアノ、テオドール・デュボワに和声法、エルネスト・ギローに作曲を師事。

この時出会った音楽院の同僚、ドビュッシーとはこの後生涯続く友情を結ぶこととなる。

ごく初期の作品に、序曲『リア王』(1883年)、序曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1884年)等がある。1886年には対位法とフーガで一等を得、1888年作曲のカンタータ『ヴェレダ』ではローマ大賞第二等を含むいくつかの賞を獲得したものの、翌年は入賞できなかった。

失望したデュカスは1889年に音楽院を去り作曲家の道を捨て、ルーアンで従軍する。

しかし同地の軍楽隊でバンドマスターと知遇を得たのが契機となり、除隊後に作曲家および音楽評論家としてのキャリアをスタートさせることとなる。




















1890年代 

評論家としてのデュカスは『週刊批評(Revue Hebdomadaire)』、『音楽批評』、『芸術紀(Chronicle des Arts)』、『芸術新報(Gazette des Beaux-Arts)』の各誌上で活躍し、400を超える評論を執筆した。

時には自作品に対しても厳しく批評を行った。

もともと完璧主義者の彼だったが多くの評論を執筆したことでより徹底され、上記のように自身の作品の多くが破棄されることとなった。 

作曲家としては、1892年にラムルーの演奏会によって初演された序曲『ポリュークト』で本格的なデビューを果たした。

コルネイユ作の悲劇に基づいたこの序曲は、同時代の多くのフランスの作品のようにワーグナーやフランクの影響を見せながらも、すでにデュカスの個性が表れ始めている。

『ポリュークト』の成功の後、1892年に自身の台本『ホーンとイムニルド』によるオペラ作曲に着手した(結局1幕のみを作曲し未完)。

彼唯一の交響曲『交響曲ハ長調』(1895 - 1896年)では、ドイツ音楽にみられる構造性の中に印象派に代表されるモダニズムを昇華させることに成功し、(初演は賛否両論あったものの)自身に大きな実りをもたらし、この後彼の最も有名な作品である、交響的スケルツォ『魔法使いの弟子』(1897年)を生み出すこととなる。


























 

1900年以降 

『魔法使いの弟子』の後、2つの大規模なピアノ作品『ピアノソナタ変ホ短調(英語版)』(1901年)、『ラモーの主題による変奏曲・間奏曲・フィナーレ(英語版、フランス語版)』(1903年)を作曲する。

特に『ピアノソナタ』は彼の代表曲であるのみならず、「デュカスの中だけでなく、フランスピアノ音楽史史上最も野心的な作品」ともいわれている。

十分にレパートリー化されているとは言い難いものの、デュカスの弟子であるジャン・ユボー、フランソワ=ルネ・デュシャーブル、最近でもマルカンドレ・アムラン、マーガレット・フィンガーハット等多くの演奏家が定期的に取り上げている。 

1899年には2度目のオペラ『アリアーヌと青ひげ』の作曲に取りかかり、7年後に完成、1907年に初演が行われ、多くの称賛とシェーンベルクら同時代の作曲家の関心を獲得した。

この作品は、同じくメーテルリンクの戯曲が用いられたドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』と音楽的な類似性がある(デュカス自身も意図的にドビュッシーの作品から引用を行っている)。

彼の最後の主要な作品はロシア・バレエ団によって委託されたバレエ『ラ・ペリ』(1912年)であった。 

1916年、スザンヌ・ぺレイア(1883 - 1947年)と結婚、スザンヌは191912月に娘のエイドリアン・テレーズを出産した。























 

晩年 

晩年には作曲の教師としても知られるようになった。

シャルル=マリー・ヴィドールが1927年にパリ音楽院での作曲科の教授を退任すると、デュカスが後任に任命された。

また、パリのエコール・ノルマルでも教鞭を執った。

『ラ・ペリ』以後創作からは離れていたが、1920年には、1918年に亡くなった生涯の友ドビュッシーへの追憶となる『牧神の遥かな嘆き』を、1924年には詩人のド・ロンサール生誕400周年を記念した『ロンサールのソネット』を作曲している。 

1934年にフランス学士院会員に選出される。

1935517日、69歳でパリにて永眠。

パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されている。





























教え子達
 

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パリ音楽院でのデュカスの作曲クラス(1929年)。左後列2人不明、左前列よりピエール・マイヤール=ヴェルジェ、エルザ・バレーヌ、イヴォンヌ・デポルト、トニー・オーバン、ピエール・ルヴェル、ジョルジュ・ファーヴル、ポール・デュカス、ルネ・デュクロ、ジョルジュ・ユゴン、モーリス・デュリュフレ。右前列椅子、クロード・アリュー、オリヴィエ・メシアン。














 
   
  










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094 : Peter Ilyich Tchaikovsky [楽興の時]

 

 

 

Peter Ilyich Tchaikovsky
















 

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Peter Ilyich Tchaikovsky





ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(露: Пётр Ильич Чайковский [ˈpʲɵtr ɪlʲˈjitɕ tɕɪjˈkofskʲɪj]Ru-Pyotr Ilyich Tchaikovsky.ogg 発音を聞く[ヘルプ/ファイル];ラテン文字表記の例:PyotrあるいはPeter Ilyich Tchaikovsky184057日(ユリウス暦では425日) - 1893116日(ユリウス暦1025日))は、ロシアの作曲家。








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♪チャイコフスキー最期にして最高の傑作 

クラシックで3大交響曲といえば「運命」「未完成」「新世界より」ですが、「悲愴」はこの「新世界より」と入れ替わって3大交響曲と呼ばれることもあるほどの名曲です。 

チャイコフスキー自身も出版商に宛てた手紙に「傑作を書きました。この作品は私の心からの真実です。今までにないほどの誇りと満足とよろこびを感じています。」と記しています。

また甥に宛てた別の手紙では「私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた」とも書いています。 

特に第1楽章はこの交響曲中最長の演奏時間であるにもかかわらず、情熱の強さからわずか4日間で書き上げたといいます。

他の3つの楽章には半年ほどを費やしていますから、その集中度の差は大きいですが、その分第1楽章には他の楽章にはないインスピレーションが満ちています。 

音楽療法の世界ではカタルシスといって、まずは落ち込んだ患者に同調する曲から聴かせ、徐々に明るい曲へ持っていくという手法がありますが、この「悲愴」ほどそうした効果のある曲も無いのではないかと思います。

人間すべてに共通の根源的な不安や孤独感を明るみにしながら、美しい旋律と共にそれを昇華し浄化するような懐の深い音楽です。

 




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概略

叙情的で流麗・メランコリックな旋律や、絢爛豪華なオーケストレーションなどの要因で人気の作曲家となっている。またリズムの天才と言われ、一つのフレーズを発展の連結にしたり、半音階上昇させたり、または下降させたりと他の作曲家には見られないものがある。曲想はメルヘンチックであり、ロマン濃厚な表情が見られる。

作品は多岐にわたるが、とりわけ後期の交響曲・バレエ音楽・協奏曲などが愛好されている。

チャイコフスキーの繊細な心はあらゆる弱いものに向けられた。孤児や可哀想な動植物、同性愛などへも、彼らに理解を寄せて共に時間を過ごす事もあった。

 しかし、その弱いものへの深い愛情と共感について日記や手紙において熱烈な表現を使ったために、様々な憶測を呼んだ。

その手紙により、彼が晩年に男性への愛情を注いだに違いないと推測された人物は、実際のところ聾唖(ろうあ)の障害がある少年であった。












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♪ロシアの叙情と西洋的ロマンティシズムの融合 

ピアノ協奏曲の・・・というより クラシックの代名詞といってもいいほどの有名曲です。

 にもかかわらずチャイコフスキーの友人で名ピアニストだったニコライ・ルービンシテインは当初「無価値で演奏不可能」とこの曲を切り捨てました。 

そこでチャイコフスキーは彼への献呈をとりやめ、当時の大指揮者ハンス・フォン・ビューローに献呈すると「大変名誉に思います。この曲はいかなる点から見ても魅力的です。」との返事をビューローから受けました。 

その後同曲はビューローの指揮によって初演され、アンコールで終楽章を繰り返さなければならない程の大成功を収めました。 

ここに及んでルービンシテインも自分の非を認め、自らロシアでの指揮、ピアノ演奏を努めました。 

現在もこの曲は愛され続け、また多くのピアニストたちの指標ともなっています。

  












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略歴

1840年、ウラル地方ヴォトキンスクで、鉱山技師の次男として生まれる。チャイコフスキーとは祖父ピョートル・フョードロヴィチの代にチャイカ(Чайка; 伝統的なウクライナの苗字で、カモメを意味する)から改めた姓であり、家系は現在のポルタヴァ州に領地を持っていたウクライナ・コサックのチャイカ家に出自を持つ。

幼少のころから音楽的才能を示したが、両親には息子を音楽家にする意志はなく、10歳でサンクトペテルブルクの法律学校に寄宿生として入学させた。

1854年、コレラに罹患した母親が40歳の若さで亡くなり、チャイコフスキーは大きな打撃を受けた。

1859年、法務省に勤務する。

1861年、アントン・ルビンシテインが設立した音楽学校に入学。

1863年、法務省の職を辞して音楽に専念。

1866年、交響曲第1番『冬の日の幻想』(作品13)の初演、初のオペラ『地方長官』を完成。同年、アントン・ルビンシテインの弟、ニコライが創設したモスクワ音楽院に講師として招かれる。

1868年、オペラ歌手デジレ・アルトーと恋に落ち、毎晩、彼女の元へ通うようになる。この事が誰の目にも明らかになり、自分の父親に結婚したい旨を手紙で書き送る。婚約にまで至るが翌年破局。

1875年、ピアノ協奏曲第1番(作品23)を作曲。初演を依頼したニコライ・ルビンシテインの酷評を受け、ハンス・フォン・ビューローに楽譜を送る。ビューローによる初演は大成功し、ヨーロッパの各都市で演奏された。ニコライはチャイコフスキーに謝罪し、自らもこの曲を演奏するようになった。

1876年、富豪の未亡人ナジェジダ・フォン・メックから資金援助を申し出られる。チャイコフスキーとの間には頻繁に手紙が交わされたが、2人が会うことは一度もないまま、この交際は14年間にわたってつづいた。このころ作曲された交響曲第4番(作品36)はフォン・メック夫人に捧げられた。またトルストイとも知り合う。

1877年、アントニナ・イワノヴナと結婚。この結婚は失敗し、チャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図るほど精神的に追い詰められた。バレエ『白鳥の湖』完成、オペラ『エフゲニー・オネーギン』完成。

1878年から約10年間、ヨーロッパ周辺を転々とし、大作から遠ざかる。『弦楽セレナード』(作品48)、大序曲『1812年』(作品49)が書かれる。

1881年、友人ニコライ・ルビンシテインの死。彼の死を悼んでピアノ三重奏曲(作品50)の作曲を着手する。翌年完成し、ニコライの一周忌に初演。原稿には"A la mémoire d'un grand artiste"(ある偉大な芸術家の思い出のために)と書かれていた。

1885年、マンフレッド交響曲完成。

1888年、交響曲第5番(作品64)完成。バレエ『眠れる森の美女』(作品66)完成。この年と翌1889年はヨーロッパ各地で自作の演奏も行う。この際ライプツィヒで、かつての恋人デジレ・アルトーと旧交を温める。

1890年、フォン・メック夫人から財政援助を打ち切られる。

1891年、バレエ『くるみ割り人形』(作品71)作曲。アメリカに旅行、カーネギー・ホールのこけら落としに出演。

1893年、交響曲第6番『悲愴』(作品74)初演。それから9日後の116日に急死。死因には諸説があるが、後述するように現在ではコレラ及び肺水腫によるものとされている。











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4大ヴァイオリン協奏曲に数えられる名作 

1878年、チャイコフスキーはアントニーナとの結婚生活に疲れ果て、ヨーロッパに向けて保養の旅行に出ます。

この頃、彼はメック夫人という心強いパトロンを得て、生活にはまったく困らなくなっていました。

そのため音楽院の教授職も辞め、晴れて自由の身となっていたのです。 

保養先のスイスやイタリアでチャイコフスキーはすっかり元気を取り戻し、再び精力的に作曲に向かうようになりました。

旅先のひとつ、パリで見たサラサーテ独奏によるラロの「スペイン交響曲」に刺激され、弟子のヴァイオリニスト、ヨーゼフの助言を受けながらこのヴァイオリン協奏曲を書き上げました。 

ところが作品を献呈しようとした名ヴァイオリニストのアウアーに「演奏不能」と切り捨てられ、そのまま3年間この協奏曲は眠ったままでした(「ピアノ協奏曲第1番」も同じような経緯をたどっています)。 

その後、親しい友人のひとりブロドスキーが何度も演奏で取り上げることで、ようやく真価を認められるようになりました。

今ではベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスと並ぶ “4大ヴァイオリン協奏曲” のひとつとして愛されているのはご存知の通りです。

 











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死因について

チャイコフスキーが晩年に住んで作曲をしたモスクワ近郊のクリンの邸宅。現在は博物館となっている

急死の原因は主にコレラによるとする説(発病の原因として、観劇後の会食時にイタリアン・レストランで周りが止めるのを聞かずに生水を飲んだことが理由とされる)が死の直後からの定説である。なお直接的な死因は、死の前夜10時頃に併発した肺水腫であることが分かっている。

1978年にソ連の音楽学者アレクサンドラ・オルロヴァは、チャイコフスキーは貴族の甥と男色関係を結んだため、この貴族が皇帝アレクサンドル3世に訴えられ、秘密法廷(チャイコフスキーの法律学校時代の同窓生の、高名な裁判官、弁護士、法律学者等が列席)なるものが開かれ、そこでチャイコフスキーの名誉を慮って砒素服毒による自殺が決定・強要されたという説を唱えた。実際チャイコフスキーの死の直後にもこのような説を唱える者がいたという。

しかしこの説は、研究家であるアレクサンドル・ポズナンスキーの1988年の論文を皮切りに、チャイコフスキーを診た医者のカルテなど、残されている資料を調査した結果、やはりコレラ及びその余病である尿毒症、肺気腫による心臓衰弱が死因であるという反論が出され(例えばオルロヴァは埋葬式時に安置されたチャイコフスキーの遺体にキスをした者がいたという証言を持ち出して「消毒をしなければコレラ患者の遺体にありえないことだ」と主張したが、チャイコフスキーの遺体は安置される前に消毒されていた記録が残っている)、現在ではやはりコレラによる病死だったという説が定説となった。なおチャイコフスキー自身、発病当日にはオデッサ歌劇場の指揮を引き受ける手紙も書いている。

ポズナンスキーは緻密な検証を行った末、結局陰謀死説なるものが「21世紀の今となっては、歴史のエピソードに過ぎない」ことであり「まったく根拠のない作り話」であると結論付けている。














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作品評価の変遷

チャイコフスキー初期の作品ピアノ協奏曲第1番は、現在でこそ冒頭の部分などだれでも聞いたことのあるほどポピュラーだが、作曲された際にはニコライ・ルビンシテインによって「演奏不可能」とレッテルを貼られ、初演さえおぼつかない状態にあった(しかし、後にルビンシテインはこの曲をレパートリーとするに至った)。

ピアノ協奏曲同様、現在では非常に有名なヴァイオリン協奏曲の場合も、名ヴァイオリニストのレオポルト・アウアーに打診するも、「演奏不可能」と初演を拒絶されてしまった。そのためこの曲はアドルフ・ブロツキーのヴァイオリン、ハンス・リヒター指揮によって初演された。

しかし聴衆の反応は芳しくなく、評論家のエドゥアルト・ハンスリックからは「悪臭を放つ音楽」と酷評された。しかしこの作品の真価を確信していたブロツキーは各地でヴァイオリン協奏曲を演奏し次第に世評を得るようになったという。その後アウアーもこの曲を評価し自身のレパートリーにも取り上げるようになった。

最後の交響曲である交響曲第6番『悲愴』も、初演時の聴衆の反応は好ましいものでなかったとされる。不評の理由は作品のもつ虚無感と不吉な終結によるものと思われる。しかし、世評を気にしがちなチャイコフスキーも『悲愴』だけは初演の不評にもかかわらず「この曲は、私の全ての作品の中で最高の出来栄えだ」と周囲に語るほどの自信作だったようだ。

チャイコフスキーのバレエ作品としてのみならずバレエの演目の代表として知られる『白鳥の湖』も1877年のボリショイ劇場での初演は失敗に終わり、たいへん意気消沈した彼は再演を拒否するほどであった。しかし不評の原因は振り付けや演奏などの悪さによるものであり、死後2年後にマリウス・プティパらが遺稿からこの作品を発掘し、振り付けなどを変えて蘇演した。

この公演はたいへんな人気を博し、以降もたくさんの振付師が、独自の作品解釈でこの作品の振り付けと演出に挑戦している。現代では『白鳥の湖』はもっとも有名なバレエの演目のひとつであると同時に、多くの舞踏家振付師の関心をひく端倪すべからざる作品となっている。

なお数は多くないが、正教会聖歌も作曲している(『聖金口イオアン聖体礼儀』など)。これはロシア正教会の事前の許可を得ずに作曲されたものであったため、一時は教会を巻き込んだ訴訟沙汰にもなった。現在ではロシア正教会・ウクライナ正教会・日本正教会などで歌われている。

また、後のロシアの著名な作曲家による批評であるが、ストラヴィンスキーやプロコフィエフは作曲家としてのチャイコフスキーを高く評価する一方、ショスタコーヴィチは全く評価しなかったとの証言がある。

なお、宗教及びロシア帝国を否定した旧ソ連時代には、出版や演奏においてチャイコフスキーの宗教的および愛国的な作品のタイトルが改竄されたり(『戴冠式祝典行進曲』→『祝典行進曲』など)、ロシア帝国国歌の引用が削除される(『序曲「1812年」』。グリンカ作曲の歌劇『イワン・スサーニン(皇帝に捧げし命)』の終曲に差換え)などした。これらはソ連崩壊後に原典版に戻された。















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楽曲の種類

歌劇

交響曲

バレエ音楽

劇付随音楽

その他の管弦楽曲

室内楽曲

ピアノ曲

合唱曲

歌曲

正教会聖歌


































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093 : Francisco Tárrega [楽興の時]

 

 







 

Francisco Tárrega

 



















 

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Francisco Tárrega










フランシスコ・タレガ(慣用的にタルレガ、またはアクセント記号を重視してターレガとも。

Francisco Tárrega, 18521121 - 19091215日)は、スペインの作曲家・ギター奏者。










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略歴 

ビジャレアル出身。

幼い頃に用水路に落ちて危うく失明しかけた。

おそらくはこのため(目が不自由でも音楽で生計が立つだろうという父親の考え)に、家族に連れられカステリョーン・デ・ラ・プラーナに移り、音楽学校に進んだ。

最初の音楽教師エウゲニ・ルイスとマヌエル・ゴンサレスはいずれも盲人であった。

1862年にギター奏者のフリアン・アルカスに神童と認められ、その奨めによりスペイン楽壇の中心地バルセロナを訪れる。

父親は伴奏楽器の色合いが強かったギターだけでなく、ピアノの勉強もすることを望んだ。

アルカスが海外ツアーでいなくなり、10歳ばかりのタレガはカフェやレストランでギター演奏をすることで研鑽を積んでいた。

しかしながら、それが見つかり間もなく父親によって連れ戻された。

1865年に家出し、バレンシアでロマの一団に加わるが、再び父親に見つかり連れ戻される。

もう一度家出しバレンシアに行くが、今度は自発的に戻り、家計を助けるようになった。 

1874年にマドリッド音楽院に進学。

豪商アントニオ・カネサの援助のもとに、作曲をエミリオ・アリエータに師事。

1870年代末までにギター教師として立ち(門人にミゲル・リョベートとエミリオ・プジョルがいる)、定期的な演奏会も行なった。

ギターのヴィルトゥオーソとして鳴らし、「ギターのサラサーテ」の異名をとった。

バルセロナに定住して1909年に逝去。











































作品と作風 

タレガは、20世紀のクラシックギターを基礎付け、独奏楽器としてのギターに対して関心が増して行くきっかけを作った人物と見做されている。

大ギタリストのアンドレス・セゴビアは、技巧がかったタレガ作品のほとんどを取り上げ、クラシック・ギターをヨーロッパ中のコンサートホールに送り込むのに多くのタレガ作品を利用した。 

タレガは《アルハンブラの思い出 Recuerdos de la Alhambra》《アラブ風奇想曲 Capricho Árabe》《ムーア人の踊り Danza Mora》などの自作のギター曲のほか、ベートーヴェンやメンデルスゾーン、ショパンらのピアノ曲をギター用に編曲した。

友人のアルベニスのような同時代のスペイン人作曲家と同じく、当時の支配的なロマン派音楽の風潮にスペインの民族音楽の要素を取り込んだ。

アルベニスのいくつかのピアノ曲(《アストゥリアス(伝説)》など)をギター用に編曲したものは有名。

近年は、ベートーヴェンの交響曲や室内楽、ワーグナーの序曲などを部分的に編曲したものが評判になった。 

タレガは、有名な旋律の数多い作曲家でもあり、その作品はしばしば広告放送や映画音楽などにも利用されている。

上記の作品のほかに、《涙 Lagrima》や《夢》、それぞれ女性名がつけられている《2つのマズルカ》、打楽器的な効果も飛び出す《グラン・ホタ》など。タレガはヴィルトゥオーゾではあったが、作曲家として心酔したショパンに似て、作品においては詩的情緒と超絶技巧の融和を何よりも追究している。

タレガと同時代の著名なギター奏者で作曲家のアンヘロ・ヒラルディーノは、タレガの《9つの前奏曲 9 Preludios》について、「凝縮されたかたちで表現された、タレガの最も深みのある楽想」と呼んでいる。







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作品

アルハンブラの思い出 Recuerdos de la Alhambra

アラブ風奇想曲 Capricho árabe

グラン・ホタ Gran Jota

ラグリマ(涙)Lagrima

夢 イ長調 マズルカ《夢》というハ長調の曲もある。

ヴェニスの謝肉祭による変奏曲








































































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ビジャレアルに建つタレガの像

 













































































































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