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092 : Giuseppe Tartini [楽興の時]

 

 




 

Giuseppe Tartini

 









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Giuseppe Tartini



















ジュゼッペ・タルティーニ(Giuseppe Tartini, 169248 - 1770226日)は、イタリアのバロック音楽の作曲家・ヴァイオリニスト。





















♪ヴィヴァルディと並ぶイタリア後期バロック音楽の巨匠 

イタリアの後期バロック音楽と言えば、まずヴィヴァルディの名が浮かびますが、それに比肩するほどの演奏技術と作曲の量、質を誇った人物がいます。

1678年生まれのヴィヴァルディから、遅れること14年後の1692年に、イタリアのピラーノに生まれた、ジュゼッペ・タルティーニがその人です。 

タルティーニはほとんど独力で、ヴァイオリン演奏を身につけたと言われ、高度な技巧の開発により1728年、パドヴァに音楽学校を創立しました。 

また彼は常に新たなヴァイオリン奏法を模索していたとされ、そうした状況下、ある夜、不思議な夢を見るに到ります。 

「おまえがもし魂を売るなら、願いを何でも叶えてやろう」  

夢の中に現れ、そう言ってタルティーニに迫る悪魔の言葉に、彼は恐れをなして自らの魂を売ってしまいました。 

その代償として悪魔はタルティーニのヴァイオリンを手に取り、超人的な技巧で世にも美しい曲を弾き始めました。

人間の想像力を超えた名演奏に、狂喜、陶酔するタルティーニ。 

やがて目覚めた彼は、跳ね起きると急いでヴァイオリンをつかみ、今聴いた演奏を再現しようと試みましたが、まったく不可能でした。

しかし、何とか記憶をたどりながら書いたのが、後に彼の代表作となる、ト短調のヴァイオリンソナタでした。 

この曲にタルティーニは自ら「悪魔のトリル」と名づけました。

 三つの楽章からなるこのソナタの第3楽章に、「悪魔のトリル」と呼ばれる、奇怪で超人的なトリルが現れます。 

タルティーニは生涯に多くの作品を残しましたが、そのほとんどがヴァイオリン協奏曲とヴァイオリンソナタでした。

 同時代の主流であったオペラや宗教音楽は、まったく作曲していません。 

また、現存する作品は少なく、残った作品も作曲時期などが曖昧なため、現在も学者たちによって、時期別の分類が試みられています。










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生涯 

イストリア半島のピラーノ(現・スロベニア領ピラン)出身。

タルティーニの両親は彼をフランシスコ会の修道士にしようとしていたらしく、そのために彼は基礎的な音楽の教練を受けていた。

彼はパドヴァの大学で法律を勉強し、またそこでフェンシングの名手となった。

1710年に父親が没した後、タルティーニはエリザベッタ・プレマゾーレ(Elisabetta Premazore)と結婚する。

彼女は、もし彼の父親が生きていたならば、社会的身分の低さと年齢差ゆえに結婚に反対したであろう女性であった。

運悪く、エリザベッタはコルナーロ家の有力な貴族の寵愛を受けており、その貴族はすぐにタルティーニに誘拐の罪を押しつけた。

タルティーニはパドヴァを後にしてアッシジの聖フランシスコ修道会に入り、そのことで訴追から逃れることができた。

そして、この間に彼はヴァイオリンの演奏を始めるのである。 

1716年にタルティーニがフランチェスコ・マリア・ヴェラチーニの演奏を聴いたとき、彼はその演奏に強い印象を受け、自分の技能に不満を抱き、そのために彼は逃げるようにアンコーナへ移り住み、練習のために自室に閉じこもったという逸話がある。 

タルティーニの技能は非凡な成長ぶりを見せ、1721年にはパドヴァのイル・サント礼拝堂付きの指揮者(カペルマイスター)に、彼が希望するならば他の団体で演奏してもよいという契約つきで任命される。 

1726年にタルティーニはヴァイオリン教室をはじめ、ヨーロッパ中の学生達を引きつけた。

徐々に彼は和声と音響学の理論に興味を持つようになり、1750年以降生涯にわたって、彼は多くの学術論文を発表した。





















































音楽 

おそらく、タルティーニの最も有名な作品は《悪魔のトリルDevil's Trill sonata》であろう。

このソロ・ヴァイオリンソナタは、数多くの高度な技術を要求されるダブルストップのトリルが必要とされ、近代の規範をもってしても難易度の高い曲である。

ある逸話によれば、タルティーニはアッシジに居た頃「自分のベッドの足元で悪魔がヴァイオリンを弾いている」という夢にインスピレーションを得てこのソナタを書いたと言われてきた。

今日の研究では作風の考察から1740年代後半以降の作との説が有力である。また古代ギリシア・ローマ伝説をもとにしたヴァイオリン・ソナタ《捨てられたディド》もある。 

タルティーニの作品は、ほぼ全てがヴァイオリン協奏曲とヴァイオリンソナタである。

例外的にヴィオラ・ダ・ガンバをソロとする協奏曲も書いている。多くの同時代のイタリア人達とは異なり、タルティーニはオペラや教会音楽は全く作曲していない。

タルティーニの音楽は、学者達にとって不確かなものである。

それは、彼が決して原稿に日付を記入しないことや、過去に執筆されたあるいは既に演奏を終えた作品にさえ修正を加えたことなどにより、作品が製作された時期や修正が行われた時期、その修正の範囲などを定めるのが難しくなっているためである。

ドーニアス(Dounias)とブレイナード(Brainard)の2人の学者が、タルティーニの作品を、音楽の様式上の特徴に基づいて時期別に分類することを試みている。 

作曲家としての活動に付け加えて、タルティーニは非常に実用性を好む音楽理論家であった。

彼は、弦楽器に特に有用な聴覚現象である差音の発見者とされている。

彼は自らの発見を、論文Trattato di musica secondo la vera scienza dell'armonia(パドヴァ、1754年)で発表している。 

20世紀のイタリアの作曲家ルイージ・ダッラピッコラは、タルティーニのテーマをもとにした《タルティニアーナTartiniana》という小品を作っている。



















































           
















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ピランのタルティーニ像

 










トリル[trillとは? 

装飾音のひとつ。主要音とその上の隣接音を交互に細かく演奏すること。シャープやフラットで特別に隣接音を指定する場合以外は、主要音と隣りあったスケール・ノートを演奏する。








 

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091 : 瀧 廉太郎 [楽興の時]

 

 

 

瀧 廉太郎

 








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瀧 廉太郎








瀧 廉太郎(たき れんたろう、1879年(明治12年)824 - 1903年(明治36年)629日)は、日本の音楽家、作曲家。明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人である。


















[ぴかぴか(新しい)]







♪時代を越えて愛唱される日本を象徴する歌曲  

瀧廉太郎は明治日本の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人です。 

日本人としては二人目となる、ヨーロッパ音楽留学生としてドイツに留学し、文部省外国留学生として入学、ピアノや対位法などを学びました。 

それまでの日本の唱歌は、外国の曲に日本語を無理にのせたものが主でしたが、日本人によるオリジナルな歌曲を最も早く作り始めたひとりが瀧です。

また、1900年には日本人作曲家として初のピアノ独奏曲メヌエットを書いています。  

外国人から見た日本の代表曲と言えば、「さくらさくら」と「荒城の月」だと言います。 

最近では坂本九さんの「上を向いて歩こう」などもこのうちに入るようですが、やはり古典的な名曲として、最初の二曲は現代でも不動のようです。  

「荒城の月」は1901年に行われた、旧制中学校唱歌の懸賞付きの募集に、瀧廉太郎が作曲して応募、入選したことがきっかけとなって世に出ました。 

作詞の土井晩翠は当時の影響力ある詩人にして英文学者でした。 

まずは晩翠が宮城県仙台市の青葉城址、同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城址、また、当時、リンゴ狩りに訪れた際に立ち寄った岩手県二戸市の九戸城址をイメージして詞を書き上げたとされ、後から瀧が大分県竹田市の岡城址、同じく富山県富山市富山城を想って、詞に曲をつけたとされています。

ですからそれぞれの場所に「荒城の月」の歌碑が置かれています。  

瀧によるオリジナルはロ短調のアカペラ曲でしたが、後年、山田耕筰がピアノ伴奏を付ける際に、短三度上げてニ短調に移調し、旋律の一音ずつを倍に伸ばして、8小節のところを16小節に改編しました。 

さらに、「♪春高楼の花の宴~」の“え”にあたる音からシャープが消え、半音下げたナチュラルに変更されました。 

耕筰が日本らしさを出すためにあえてそう変えたとか、何度もの改訂の中で、自然に日本に馴染みの音階になっていったなど、諸説が取り沙汰され、様々に推測されています。 

今では瀧のオリジナルに直すべきという声も上がり始めているようです。  

「荒城の月」の歌詞は時代を越えて同じ姿で輝き続ける月と、栄枯盛衰の象徴でもある荒れた城を対比させることで、この世の無常や儚さを表現しています。  

奇しくも瀧廉太郎自身も留学先のドイツで肺結核を患い、帰国後、故郷大分で療養するも完治せず、23歳の若さでこの世を去っています。

しかし廉太郎はいなくとも、こうして音楽は今も輝き続けています。

その姿はまさに時を越え、不変の光りを保つ夜空の月のようでもあります。






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大分県竹田市の岡城址






















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生涯 

1879年(明治12年)824日、瀧吉弘の長男として東京市芝区南佐久間町2丁目18番地(現:東京都港区西新橋2丁目)に生まれる。

瀧家は江戸時代、日出藩の家老職をつとめた上級武士の家柄である。 

父・吉弘は大蔵省から内務省に転じ、大久保利通や伊藤博文らのもとで内務官僚として勤めた後、地方官として神奈川県や富山県富山市、大分県竹田市等を移り住んだため、瀧も生後間もなくから各地を回ることとなった。

そのため、後述の通り5回転校を繰り返すことになる。 

1886年(明治19年)5月、神奈川県師範学校附属小学校に入学。

同年9月、富山県尋常師範学校附属小学校(現在の富山大学人間発達科学部附属小学校)に転校。

1888年(明治21年)5月、東京都麹町区小学校(現在の千代田区立麹町小学校)に転校。

1890年(明治23年)5月、大分県尋常師範学校付属小学校(現在の大分大学教育福祉科学部附属小学校)に転校。

1894年(明治27年)4月、直入郡高等小学校(現在の竹田市立岡本小学校)卒業。

同年に15歳で東京音楽学校(現:東京藝術大学)に入学する。

1898年に本科を卒業し、研究科に進む。

こうして瀧は作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばしていった。

1900107日には東京市麹町区(現:千代田区)にあった聖公会グレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)で洗礼を受けてクリスチャンになり、1028日にジョン・マキムから堅信礼を受けた。 

明治時代の前半に多くの翻訳唱歌ができたが、日本語訳詞を“無理にはめこんだ”ぎこちない歌が多く、日本人作曲家によるオリジナルの歌を望む声が高まっていた。

瀧は最も早く、その要望に応えた作曲家と言えるだろう。

彼の代表作である「荒城の月」は、「箱根八里」と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載された。

また、人気の高い曲のひとつである「花」は1900年(明治33年)8月に作曲された、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。

「お正月」、「鳩ぽっぽ」(「鳩」とは別物である)、「雪やこんこん」(文部省唱歌「雪」とは別物である)などは、日本生まれの最も古い童謡作品として知られるが、これらは1900年に編纂された幼稚園唱歌に収められた。

また「荒城の月」は、ベルギーで讃美歌になったことも判明した。 

1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として、東部ドイツのライプツィヒにあるライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーン)に留学する。

文部省外国留学生として入学、ピアノや対位法などを学ぶが、わずか2か月後に肺結核を発病し、1年で帰国を余儀なくされる。

その後は父の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)629日午後5時に大分市稲荷町339番地(現:府内町)の自宅で死去した。23歳没。

結核に冒されていたことから死後多数の作品が焼却されたという。 

瀧家の墓所は日出町の龍泉寺であるが、瀧は父と親交のあった大分市金池町の万寿寺に葬られた。戒名は直心正廉居士。



























♪日本人の琴線に触れる美しい二重唱  

「春のうららの隅田川 上り下りの船人が・・・」 日本人でこの歌を知らない人はまずいないでしょう。

学校などでも一度は歌われた方が多いのではないでしょうか?

 瀧廉太郎は19世紀末に東京で生まれ、20世紀初頭にわずか23歳の若さで夭逝した、

明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人です。 

当時の日本では歌曲といえば西洋の作品に日本語の歌詞をはめ込んだぎこちないもので、廉太郎はこうした状況を打破すべく、オリジナルの歌曲の制作に力を注ぎました。 

そうした試みが生み出した名曲のひとつが「荒城の月」や「箱根八里」などと並んで人気の高い「花」です。

ソプラノとアルトの二重唱が生み出す心地よい響きは、旋律に微妙な変化を加えながら川のように淀みなくなく流れていきます。 

組歌「四季」は本来4曲から構成されますが、今ではほとんど「花」のみが一般に知られ歌われています。

 日本人2人目の音楽留学生としてドイツに学んだ廉太郎ですが、わずか2ヶ月で肺結核を患い1年で帰国後、父親の故郷である大分で短い生涯を終えました。







































































































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[ぴかぴか(新しい)]




 

「荒城の月」 歌詞 : 土井晩翠



 1.春高楼(かうろう・こうろう)の花の宴(えん)  巡る盃(さかづき)影さして

千代の松が枝(え)分け出(い) でし  昔の光今いづこ  

 

2.秋陣営の霜の色  鳴きゆく雁(かり)の数見せて

植うる剣(つるぎ)に照り沿ひし  昔の光今いづこ  

 

3.今荒城の夜半(よは・よわ)の月  変はらぬ光誰(た)がためぞ

垣に残るはただ葛(かずら)  松に歌ふ(うとう)はただ嵐  

 

4.天上影は変はらねど  栄枯(えいこ)は移る世の姿 

映さんとてか今も尚  ああ荒城の夜半の月




















[ぴかぴか(新しい)]

 

ピアノ曲 “憾み” は、廉太郎没年の1903年に作曲されています。

実は廉太郎の作品名に、このような表題が付いている事を不思議に思い、調べてみました。

廉太郎の結核の進行は早く、留学早々にして帰国せねばならない程悪化していたわけで、その挫折感たるや察するに余りあります。

きっと帰国の船の中で、結核と云う病魔の不条理を“憾み”ととらえ、おそらく遺作のつもりで大部分が出来上がっていたのではないでしょうか・・・

音楽や芸術に名を成した人の多くが結核に倒れ、その才能を十分に咲き誇る間もなく早世して行った事を、残念に思います。

 



























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090 : John Dowland [楽興の時]

 

 





 

John Dowland

 






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John Dowland

 











 

ジョン・ダウランド(John Dowland, 1563 - 1626220日)は、イングランドの作曲家、リュート奏者である。
















 

 

♪ルネッサンス後期を代表するリュート曲の名作 

ジョン・ダウランドは後期ルネッサンス時代に活躍した、イギリスを代表するリュート奏者にして作曲家です。

彼の時代以前のリュートは主に、伴奏のために使われていましたが、ダウランドが活躍した頃には独立した楽器として、演奏に用いられるようになりまた。 

「涙のパヴァーヌ」は元々歌曲として作曲し大ヒットしたものを、後にダウランド自身がリュート独奏用に編曲した作品です。

最近ではロック歌手のスティングが取り上げたことで再度、ダウランドへの注目が集まっています。 

ちなみにリュートという楽器は簡単に言うとクラシック・ギターの原型で、琵琶のような形をしています。

弦が21組で張られているため、厚みや深みのある特有の音色がします。 

現代ではリュート曲はほとんどクラシック・ギターが代用されています。

今回もそのギターの音色でお届けします。

文学においても、『流れよ我が涙』がSF作家フィリップ・K・ディックにより、小説『流れよ我が涙、と警官は言った』のモチーフとして参照されている。 

2006年、ポップス界の大御所スティングが、ダウランド作品集『ラビリンス』(Songs from the Labyrinth)を発表して注目された。






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生涯 

1588年にオックスフォード大学で音楽学士となった。

宮廷リュート奏者を望むも、自身がカトリック教徒であったため、イングランド国教会の英国では受け入れられず、海外に職を求めた。

ニュルンベルク、ヴェネツィア、フィレンツェなどヨーロッパ各地を遍歴し、1598年から1606年にはデンマークでクリスチャン4世付きのリュート奏者を務めた。 

1606年にイングランドへ戻り、1612年に国王付きのリュート奏者となった。

ダウランド自身は、その名のもじりである "semper dolens"(常に嘆いている)を標榜したが、陽気な人間であったと伝えられる。

 
























作品 

作品は声楽とリュート音楽に分けられる。

宗教的な楽曲はほとんど見あたらず、愛や悲しみを歌う通俗作品が特徴的である。 

声楽は世俗曲であり、1597年、1600年、1603年に歌曲集が出版され、80以上の作品が残されている。

『流れよ我が涙』(Flow my tears)は当時のもっとも高名な歌である。 

リュート音楽は、ファンタジアやパヴァーヌ・ガリヤード・ジグなどの舞曲を含む、独奏ないし合奏の曲である。

ダウランドの作品は広くヨーロッパで愛好され、多くの作曲家が彼のメロディーを元にして舞曲を残した。

 































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撥弦楽器 リュートについて 

リュート(英: Lute:ルート、伊: Liuto:リウト、仏: Luth:ルュト、独: Laute:ラウテ)は撥弦楽器の一種で、主に中世からバロック期にかけてヨーロッパで用いられた古楽器群の総称。

ひとまとめにしてリュート属とも呼ばれるこれらの楽器群には時代や目的によってさまざまな形態のものがある。 

中央アジアの「バルバット(英語版)」(ペルシア語: بربات‎ barbat)と呼ばれる楽器が伝来し独自に発達し、西アジアではウード(アラビア語: العود‎ al-ʿūd)、中世ヨーロッパではリュートの原型となったと考えられている。

よく似た外見で現代もアラビア文化圏で用いられている楽器であるウード (oud) と同じ起源をもつとされ、また日本や中国の琵琶とも祖先を同じくする。

リュートやウードの名前は「木」を意味するアラビア語の"al‘ud"(アル・ウード)に由来するとされてきた。

英語では、リュート奏者はlutenist、リュート製作者はluthierという。

 



















 

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089 : Carl Albert Hermann Teike [楽興の時]

 

 

 

Carl Albert Hermann Teike















 

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Carl Albert Hermann Teike










カール(・アルベルト・ヘルマン)・タイケ(Carl Albert Hermann Teike, 186425 - 1922522日)はドイツの作曲家。軍楽隊のために100曲以上の行進曲と、演奏会用の20曲を残す。

吹奏楽の作曲家として有名。 

ポンメルンのシュテティーン・アルトダム(英語版)にて鍛冶屋の息子に生まれる。

実家は子沢山で、14人兄弟の第4子であった。

14歳で音楽の学習を始め、様々な楽器をこなした。

19歳でヴュルテンベルク王国の陸軍に楽隊員として入隊し、カール王第123師団に配属された。

シュヴァーベンの都市ウルムに駐在し、地元の劇場オーケストラのためにホルンや打楽器の演奏家としても活動する。 

作曲家としての活動は、軍隊行進曲の作曲をもって始まり、後に「旧友」(Alte Kameraden) と名づけられた1889年の楽曲もその一つである。

タイケの作曲した歌曲は20マルクで売れた。

楽隊長に作品を認められなかった(「旧友」ですら、上官に「ストーブの薪にしてはどうか?」と酷評された)ことから陸軍を退き、ウルムの警察官に転職、地主の娘と結婚した。

1895年にブランデンブルク州のポツダムに移り、病気のために1908年に退職するまで警察官として勤務を続けた。

その後は東部ブランデンブルクのランツベルク・アン・デア・ヴァルテで郵便局員となり、同地で1922年に死去した。 




行進曲「旧友」は、タイケの代表作であるだけではなく、世界的に最も有名なドイツの軍隊行進曲の一つである。







 

 

 

 





 

 











































































































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現ドイツ軍のパレード風景

 












[ぴかぴか(新しい)]



 

 

 旧友
Alte Kameraden


戦さの径ゆく旧友たちは
古き友情に忠実にして
戦闘の中も硝煙の中も
常に団結を緩めない。

Alte Kameraden auf dem Kriegespfad
In alter Freundschaft felsenfest und treu.
Ob in Kampfe oder Pulverdampf,
Stets zusammen halten sie auf's neu.
攻撃にひたに打ち、
勝利に栄誉は輝かん。
いざ戦友よ 弾込めよ、
これぞ我らが進軍譜。
Zur Attacke geht es Schlag auf Schlag,
Ruhm und Ehr mu
ß
bringen uns der Sieg,
Los, Kameraden, frisch wird geladen,
Das ist unsere Marschmusik.
戦闘後、連隊は挙りて
野営地近き村宿に赴く。
宿主のところで女たちや
主の娘と戯れたのだ。
Nach dem Kampfe geht das ganze Regiment
Ins Quartier ins n
ä
chste Dorfhauselement
Und beim Wirte das geflirte
Mit den M
ädels und des Wirtes Töchterlein.
今日のうちは冗談に破顔しようぞ。
明日なれば行方も知れぬ身ゆえ。
戦友よ、これが戦さの辛き定め、
ゆえこそ盃をとりて乾杯といわん。
Lachen scherzen, lachen scherzen, heute ist ja heut'
Morgen ist das ganze Regiment wer wei
ß
wie weit.
Das, Kameraden, ist des Kriegers bitt'res Los,
Darum nehmt das Glas zur Hand und wir sagen "Prost".

古酒に勇気と力を貰う。
それは真に生の源だ。
老いた胸は若く高鳴り、
思い出も生き生きと甦る。

Alter Wein gibt Mut und Kraft,
In dem steckt der wahre Lebenssaft.
Und das alte Herz bleibt jung
Und gewaltig die Erinnerung.
血染めの鉤十字に
死すまで忠誠を保たん。
飲み干せ、つぎ注げ。
我らは古き仲間でいようぞ。
Hakenkreuz auf blutigrot,
Bleiben wir getreu bis in den Tod.
Trinket aus und schenket ein
Und la
ßt uns alte Kameraden sein.
 

 

 

 

 



 

なぜ、「旧友」という題名がつけられたのか?。
 

その有名なエピソードについて、簡単に、ご紹介しておきたい。

軍楽隊員であったタイケ青年が、この行進曲を完成させたときのことである。彼に作曲を教えてくれた楽隊長は、すでに交代しており、別の楽隊長が着任していた。

この新しい楽隊長に、彼は、自信満々に、完成した楽譜を見せた。

しかし、ほめられるどころか、つっけんどんに突き返され、散々に罵倒されたのであった。“こんな行進曲は、かまどへ行くのがふさわしい!焼いてしまえ!”と。

残念ながら彼は、これを機に、軍楽隊から去ることになるのである。

この楽隊長は、無名の青年の光る才能を認めようとしなかった。
新しく台頭する「若き力」を育てようという、先輩らしい気持ちもなかった。

せっかく、後輩が頑張ったのである。先輩として、きちんと評価し、その努力に、誠実に応えてあげるべきではなかったか。

さて、先輩の無慈悲な仕打ちにあい、軍楽隊をやめたタイケ青年。このとき、苦楽をともにしてきた軍楽隊の旧き良き仲間たちが、激励の送別会を催してくれた。

「ぼくたちは、仲間じゃないか、同志じゃないか、一緒に立ち上がろうよ」と。そして、その場で、彼の楽譜を、仲間たちが皆で演奏してくれた。

この曲が、初めて演奏された劇的な瞬間であった。なんと素晴らしい同志愛ではないか。

タイケ青年は、うれしかったであろう。

「だれが、わかってくれなくとも、自分には真実の友がいる! 自分の人生の行進は、どこに行っても、いつも、心通う旧友と一緒だ」と。

感激したタイケ青年は、この行進曲に万感の思いを込めて、「旧友」と名づけたといわれている。














 













 

 
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088 : Fernando Sor [楽興の時]

 

 

 

Fernando Sor

 










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Fernando Sor

 







フェルナンド・ソル(スペイン語:Fernando Sor, カタルーニャ語:Ferran Sor i Muntadesファラン・ソル・イ・ムンタデース, 1778213?(洗礼日は214日) - 1839710)は、スペイン・バルセロナ生まれの作曲家・ギター奏者。

スペインでは「ギターのベートーヴェン」とも呼ばれる。

ソルは、ギターの音楽レベルを可能な限り高め、ギターを世に広める努力をしたギターの第1期黄金期に活躍した一人である。

また、過去200年において、コンサート楽器としてのギターのための曲を最も書いた作曲家の一人である。

 







 






 

♪美しい旋律が光る練習曲中の小品

フェルナンド・ソルはスペイン出身の作曲家、ギター奏者です。

近代ギターの父と言えば「アルハンブラの想い出」のタレガ(タルレガ)が有名ですが、ソルはそれよりひと世代前に、ギターの様々な奏法を確立させ、また練習曲も多く書いた、

スペインでは「ギターのベートーヴェン」とも呼ばれる存在です。

故郷のスペインを離れパリやウィーンなどのサロンで活躍したソルは、当時のヨーロッパ社交界では、同じく名ギタリストの

ジュリアーニと人気を2分するほどでした。

「月光」はソルが作曲した「24の練習曲」の中の22番目の曲で、演奏にはそれほど高度な技術を要さないため、初心者向けの練習曲としても大変愛好されています。また、シンプルながら美しい旋律から、プロの演奏会でもよく取り上げられています。



 












 

略歴

ソルはバルセロナのかなり裕福な家庭に生まれた。

代々軍人の家系でもあり、彼自身も軍人になることを期待されていた。

しかし、父にイタリアのオペラに連れていかれて音楽に魅せられ、同時に父からはギターも教えられる。

当時ギターは主に居酒屋などで演奏されていた楽器に過ぎず、管弦楽用の楽器に比べると地位の低いものとされていた。

モンセラート修道院、そしてバルセロナで音楽を学ぶが、父親の死後、母親がそれ以上ソルを経済的に支え行くことができなくなったため、断念。

修道院に戻り、そこでギターのための初作品を仕上げる。

1797年、バルセロナで彼の初オペラ作品『カリプソ島のテレマコ Telémaco en la isla de Calipso』を上演。

1808年、ナポレオン・ボナパルトのスペイン侵攻を機に、愛国的歌詞をつけたギターのための民族的作品を数多く作るようになるが、スペイン軍が敗北すると、ホセ・ボナパルトの君主制のもとで政府の管理職ポストに就いた。

1813年のフランス人追放によって、ソルを含め多くの親フランスと見なされた芸術家や貴族が報復を恐れて祖国を離れ、フランス・パリへ亡命。その後2度と祖国に戻ってくることはなかった。

パリではスペイン人ギタリストで作曲家でもあるディオニシオ・アグアドなど、多くの音楽家と親交を結び、共同で音楽活動をすることが多かった。

ギターのための二重奏曲『二人の友 Les Deux Amis』は、彼がアグアドと演奏するために作曲した作品である。

その後パリの芸術家たちの間でも彼の音楽家としての能力は認められるようになり、さらにヨーロッパ中を演奏旅行して周り、新たな名声を獲得した。

イギリスに滞在した1815年頃には、オペラとバレエの作曲家としてかなり知られるようになり、1823年にはロシアを訪れ、そこでツァー・ニコライ1世の戴冠式のためにバレエ曲『エルキューレとオンファリア Hércules y Onfalia』を作曲し上演し、成功を収める。

1827年にはもうすでに若くないこともあり、余生をパリで送ることに決め、以降は創作と著述に専念。

この時期に、後年傑作とされる彼の多くの作品や、各国語に翻訳された『ギターの方法 Método para guitarra(1830)等の教則本が作られた。

ソルの最後の作品は1837年に死去した娘のミサのために書かれた。娘の死はすでに病を患っていた彼に大きな打撃を与え、1839年にパリで亡くなった。

同地のモンマルトル墓地に埋葬されている。





























 

作風

ソルの作風は古典派の様式を忠実に受け継ぐものであるが、後年の批評家にはロマン派と見なされる場合が多い。

彼は序奏部に短調を好んで用いたが、代表作『モーツァルトの「魔笛」の主題による変奏曲 Variaciones sobre un tema de Mozart』でも、ホ短調による序奏から、ホ長調の主題へと転調していく構成が採られ、『グラン・ソロ Gran solo』においても、ニ短調の序奏に始まり、それからニ長調の主題へと移っていく。

他の特徴としては、不協和音を大胆に取り入れ、それが作品に独特の効果を与えている点である(ただし、ここでいう「不協和音」とはモーツァルトなど特に古典派の作曲家が好んで使用した低音の保続音を用いてのことなので、古典派としては常例である)

彼の作風には、もちろんハイドンやモーツァルトの大きな影響を伺うことが出来るが、他の同時代の作曲家とは異なったスタイルの作曲家として、言及される必要があるだろう。




 

































作品

オペラ

バレエ

声楽曲

オーケストラ曲

室内楽

ギター奏曲

 








 

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087 : Friedrich Smetana [楽興の時]

 

 

 

Friedrich Smetana

 

















 

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Friedrich Smetana

 

 

ベドジフ・スメタナ(またはベドルジハ・- / ベトルジヒ・-、チェコ語:Bedřich Smetana[ˈbɛdr̝ɪx ˈsmɛtana] 182432 - 1884512日)は、チェコの作曲家であり、「ヴルタヴァ」(モルダウ)を含む一連の6つの交響詩から成る『わが祖国』(Má Vlast)が特に知られる。

ドイツ語名Friedrich Smetanaでも知られる。



[ぴかぴか(新しい)] Die Moldau  Lyrics

 


 

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若い頃にピアノとヴァイオリンを学び、家族の参加していた趣味的な弦楽四重奏団で演奏していた。

父親の抵抗にも拘らず、音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、ある貴族の家の音楽教師の座を獲得し、1848年には作曲家リストからの資金援助を受け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して中途失聴者となるが、作曲活動を続け、この出来事の後に書かれた代表的な作品に『わが祖国』がある。

1884年にスメタナは梅毒の進行による脳障害により正気を失い、プラハの精神病院へ収容され、この地で生涯を終えた。

ヴィシェフラットの民族墓地に葬られている。

スメタナは、明確にチェコの個性の現れた音楽を書いた最初の作曲家であるといわれる。

そのため、チェコ国民楽派の開祖とされる。

彼の歌劇の多くは、チェコの題材に基いており、中でも『売られた花嫁』は喜劇として最もよく知られている。

 彼は、チェコの民俗舞踊のリズムを多用し、また、彼の書いた旋律は時として民謡を彷彿とさせる。

彼は、同じ様にチェコの題材をその作品中に用いた作曲家として知られるアントニン・ドヴォルザークに大きな影響を与えた。










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≪ 我が祖国 ≫  全6曲

 

(5番、6番は演奏者が替わります)  

 


















[ぴかぴか(新しい)]






 

チェコが誇る国民的作曲家スメタナの名曲



 

「♪ボヘミアの河よモルダウよ」という歌を、学校の音楽の授業で歌った方も多いのではないでしょうか?

“モルダウ”とはスメタナの故郷チェコを流れる国の象徴のようなモルダウ河のことです。

この交響詩では山奥から湧き出た源流が次第に水かさを増し、森を抜け村を抜け、やがては大河となってプラハへと流れ込んでいく様が描写されています。

例えば出だしのフルート2管は雪解け水が源流として流れ始める様子、そしてその背後のハープやピッチカートは日の光を受けてきらめく水のしずくといった具合です。

その後クラリネットを始めとした各楽器の合流が、水かさを増す流れの様子を描き、やがて河として姿を現すところで有名なモルダウの主題が始まります。

スメタナはこの連作交響詩により、今も国民的作曲家としてチェコで愛され続けています。

 

 



 

 

 

 


















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売られた花嫁



 

『売られた花嫁』(Prodaná nevěsta)は、ベドルジハ・スメタナのオペラ。

チェコの代表的な国民オペラ作品として名高い。

序曲が特に有名で、単独で演奏会に採り上げられることも多い。 

台本作者はカレル・サビナ (Karel Sabina)

3幕のオペラ・ブッファである。作曲は1863年から1866年。

1866530日に初演された後、改訂が施され、1870925日にプラハの国民仮劇場において決定稿が初演された。

日本初演は1955913日、東京・日比谷公会堂において伊藤亘行、伊藤武雄、笹田和子、伊藤京子ほかのソロ、ニクラウス・エッシュバッハー指揮NHK交響楽団によって実現した。













あらすじ


1幕   ボヘミア地方の農村。村の広場。


春祭りの日、村人達が踊り騒いでいる。 

マジェンカは恋人イェニークと浮かない気分で話している。

それというのも、イェニークが他所者で親に結婚を認めてもらえないばかりか、裕福な農場主ミーハの息子ヴァシェクとの縁談が持ち上がっているのだ。

イェニークは、自分は昔継母との折り合いが悪く家を飛び出したんだと身の上を語る。

一方、今回の縁談の仲人ケツァルはヴァシェクが知恵遅れであることを隠して縁談をまとめ、礼金をせしめようと、マジェンカの両親に結婚を熱心に勧める。

両親とケツァルは見合いを勧め、クルシナ夫妻が娘をミーハの息子の嫁にするとした古い誓約書を取り出すが、マジェンカは取り合わない。

ケツァルはイェーニクと話すことを決心する。村人達がポルカを踊る。 



2幕 村の居酒屋。


男達がビールの歌を歌い、フリアントを踊りながら出て行く。

そこへヴァシェクが現れ、マジェンカと偶然出会う。

マジェンカはヴァシェクに気づくが、ヴァシェクはマジェンカの顔を知らない。そこでマジェンカはヴァシェクに見合い相手は性悪女だからやめておけと告げる。

一方、イェニークはケツァルから金貨300枚を受け取り、彼女はミーハの息子以外とは結婚しないという条件を付けて、マジェンカの事は諦めることを承知する。

村人達は恋人を売ったとイェニークを非難する。 



3幕 村の広場。


ヴァシェクが居酒屋の前で会った娘を想って一人でいるところへ、旅芸人の一座がやってくる。

ヴァシェクは一座の美女エスメラルダに一目惚れし、酔いつぶれた熊役の芸人の代役を引き受けてしまう。

マジェンカが現れ、イェニークがケツァルと交わした契約書を見せられて泣き出す。イェニークが現れるので、彼女は激昂し「ヴァシェクと結婚する。

私は売られた花嫁になる」と言い出す。

そこへクルシナ夫妻とミーハ夫妻が登場、彼女はミーハの息子と結婚すると宣言する。

この時イェニークが間に進み出て、自分は行方不明になっていたミーハの息子だと名乗り、契約書通りマジェンカと結婚すると告げる。

父親が自分の息子だと確認し、和解する。マジェンカは喜び、ケツァルは悔しがる。

旅芸人一座から熊が逃げたと騒然となるが、実はヴァシクだとわかり、母親がヴァシクを連れ帰る。

村人達がマジェンカとイェニークを祝福する。




















スメタナの生い立ちや経歴については、Wikipedia に膨大な詳説があり、

ブログにはとても転載出来ませんので、割愛させていただきました。

ご覧になりたい方はWikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%89%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%8F%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%8A

をご覧ください。





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086 : Igor Fyodorovitch Stravinsky [楽興の時]

 

 

 

Igor Fyodorovitch Stravinsky

 











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Igor Fyodorovitch Stravinsky
























[ぴかぴか(新しい)]











 

イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(ロシア語: И́горь Фёдорович Страви́нский1882617 - 197146日)は、ロシアの作曲家である。

同じくロシアの芸術プロデューサーであるディアギレフから委嘱を受け作曲した初期の3作品(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)で知られるほか、指揮者、ピアニストとしても活動した。

20世紀を代表する作曲家の1人として知られ、20世紀の芸術に広く影響を及ぼした音楽家の1人である。ニューヨークで没した。





















































略歴 


1882617日、サンクトペテルブルク近郊のオラニエンバウム(現・ロモノソフ)に生れた。

ウクライナ系またはポーランド系ロシア人の父フョードルはペテルブルク・マリインスキー劇場のバス歌手で、家には図書館並みの20万冊もの蔵書を持っていた。 

イーゴリは法律を学ぶために現在のサンクトペテルブルク大学に入学した。しかし在学中に作曲家となる意思を固め、1902年から1908年まで、リムスキー=コルサコフに作曲法と管弦楽法を学ぶ。

大学でリムスキー=コルサコフの息子と知り合い、仲介してもらったという。


 

1906年には、 従妹エカチェリーナ・ノセンコと結婚。翌年には息子テオドール、翌々年に娘リュドミラを授かる。作曲家のスリマは末子。 

1908年に、自作曲『幻想的スケルツォ』と『花火』が初演される。

ロシア・バレエ団の主宰者セルゲイ・ディアギレフに認められる。

『花火』はもともと師リムスキー=コルサコフの娘の結婚祝いに書いたものであった。


 

1910年には、ディアギレフの依頼でロシア・バレエ団のための第1作『火の鳥』を創作し、パリのオペラ座で初演、大成功を収める。

1911年には、第2作『ペトルーシュカ』が委嘱され、これも成功を収める。

さらに1913年、第3作『春の祭典』がパリで初演される。

この上演は楽壇をセンセーショナルな賛否両論の渦に巻き込む

これら3作によってストラヴィンスキーは若手の革命児として名を刻まれる事になった。 


1914年、第一次世界大戦勃発とともにスイスに居を定める

1917年に起きたロシア十月革命により故国の土地は革命政府に没収される。 

1920年、パリで『プルチネルラ』を初演。

ほか『きつね』、『結婚』、『八重奏曲』、『詩篇交響曲』、『ダンバートン・オークス協奏曲』などを発表するが、この年から1950年までは、彼の新古典主義の時代といわれ、バロック音楽への回帰の時期とされる。 

1938年、長女を結核で失い、翌年には妻と母を失う

当時ナチス政府は前衛的なストラヴィンスキーを快く思っておらず、翌1939年秋にアメリカ合衆国へ亡命する。


アメリカではハーバード大学で教鞭をとり、その後ハリウッドに住む。画家のヴェラと再婚。3楽章の交響曲』、バレエ『オルフェウス』、『ミサ曲』、オペラ『放蕩者のなりゆき』などがこの時代の代表作である。

 1950年頃より、これまで否定的だった十二音技法を採用して新たな創作の可能性を開く。

『七重奏曲』、『エレミアの哀歌による「トレニ」』、『バリトンと室内オーケストラのためのバラード「アブラハムとイサク」』、『J.F.ケネディへの哀歌』などを作曲。 1959年、来日し、日比谷公会堂で演奏会を行う。


また日本の若手作曲家の武満徹を見出して世界に紹介する。これはのちにバーンスタインが、ニューヨーク・フィル125周年記念の曲を武満に委嘱するきっかけになった。 


1962年、ソ連を訪問する。1914年に祖国を離れて以来、最初にして最後の帰郷であった。 

1969年、ニューヨークに転居し、197146日に89歳で没する。

ディアギレフの眠るヴェネツィアのサン・ミケーレ島に埋葬された。のちに、妻ヴェラもイーゴリの隣に埋葬された。





















[ぴかぴか(新しい)]

 















作風 


生涯に、原始主義、新古典主義、セリー主義と、作風を次々に変え続けたことで知られ、「カメレオン」というあだ名をつけられるほど創作の分野は多岐にわたった。

さまざまな分野で多くの作品を残しているが、その中でも初期に作曲された3つのバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)が名高く、特に原始主義時代の代表作『春の祭典』は、20世紀の最高傑作と言われている。 


また、オーケストラ作品ではリムスキー=コルサコフ仕込みの管弦楽法が遺憾なく発揮され、さらにそこから一歩踏み込んだ表現力を実現することに成功している。

これらの作品によって、ベルリオーズやラヴェル、師のリムスキー=コルサコフなどと並び称される色彩派のオーケストレーションの巨匠としても知られるに至っている。

 ストラヴィンスキーは晩年まで「商品価値のつく個人語法、かつ同時代性を有する未聴感は何か?」を追い求めた。過去の作品への執着もつよく、「原曲の著作権料がアメリカでは入ってこない」という理由もあって、演奏頻度の高い『火の鳥』以下3曲のバレエ音楽の改訂を行い続けた。

また、自分の演奏が録音されるチャンスがあるとわかれば、指揮やピアノの録音を残した。 


後期は現代音楽界からやや離れた次元で、自分の為の音楽を本当に書くことができたが、この時期の音楽は現在も賛否が割れている。

 ストラヴィンスキーは、かつてのドイツやロシアの管弦楽に見られるような不明瞭なアーティキュレーションによる残響を毛嫌いした。

『火の鳥』1945年版組曲の最終部の自身の演奏にその特徴が顕著に現れている。 

また、最晩年にはベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲のレコードばかり聴き、セリー主義に転向した際に賞賛したヴェーベルンの音楽も、自分の曲も、決して聴こうとはしなかったという。



 原始主義時代 


ストラヴィンスキーの作風は大きく3つの時代に分けることができるが、その最初が原始主義時代である。

主な作品として、3つのバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)が挙げられる。

複調、変拍子、リズム主題の援用などが特徴である。『結婚』を最後にこの傾向は終息する。 


新古典主義時代 


バレエ音楽『プルチネルラ』以降はストラヴィンスキーの新古典主義の時代とよばれる。

この時期はバロック音楽や古典派のような簡素な作風に傾倒した。和声の響きは初期に比べてかなり簡明になった。

1939年から1940年に行われた講義の内容を基にした著作『音楽の詩学』がこの時代の音楽観をよく表している。

その一方で、新古典主義時代ながら『詩篇交響曲』ではセリー的操作を用いている。

これは後の研究で明らかにされた。ストラヴィンスキーが他の楽派の音楽語法も常に見張っていたことが良くわかる。 


セリー主義(十二音技法)時代 


 第二次世界大戦後は、それまで敵対関係であったシェーンベルクらの十二音技法を取り入れ、またヴェーベルンの音楽を「音楽における真正なるもの」などと賞賛するようになった。

これには同じくアメリカに亡命していたクシェネクの教科書からの影響もある。

ストラヴィンスキー自身は、「私のセリーの音程は調性によって導かれており、ある意味、調性的に作曲している」と語っており、あくまで調性的な要素の強いセリー音楽である。

各楽器をソロイスティックに用いる傾向が一段と強まり、室内楽的な響きを多くのセクションで優先するために、初期の豪華な響きの光沢は全く聞かれなくなった。 

ストラヴィンスキーが本当にこの時代に追求したことは音列の絡み具合ではなく、諸様式の交配で得られる一種のポリスタイリズム(多様式)的な感覚である。

晩年には「レクイエム」と題する作品も2作残しているが、その中でオケゲムのリズム法に十二音を無理やり当てはめたり、楽譜が十字架を描いたりと、より個人的な作風へ化していった。

国際派時代に世界中のオーケストラを指揮して威圧するイメージは、もはや聞かれなくなっていたし、ストラヴィンスキー本人がそう願っていたからでもあった。

『レクイエム・カンティクル』のラストではチェレスタとグロッケンのデュオに教会の鐘を想起させる模倣を行っており、晩年になってもさらに新しい音楽を求めていたことが良くわかる。
































主要作品 


バレエ音楽

バレエ以外の舞台作品

交響曲

協奏曲

管弦楽曲

ピアノ曲

室内楽曲

合唱曲

歌曲

編曲作品


作品詳細はWikipediaを参照してください。






































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Composer Igor Stravinsky and cellist Mstislav Rostropovich













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085 : Franz von Suppé [楽興の時]

 

 

 

Franz von Suppé

 




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Franz von Suppé


















フランツ・フォン・スッペ(Franz von Suppé, 1819418日ダルマチア地方スプリト - 1895521日ウィーン)は、オーストリアの作曲家。

オペレッタとその序曲で有名。指揮者や歌手としても活動した。ズッペの表記も多い。








 

 

 


 

♪ウィーンのオペレッタ界の頂点を極めた作曲家 


「そうだ!私が作りたかったのはこういう楽しい歌劇なんだ!」 ウィーンで初めて上演されたオッフェンバックのオペレッタを観たスッペは興奮で膝を叩きながらそう叫びました。 


当時、ドイツではワーグナーが、イタリアではヴェルディが壮大なオペラ作品を次々と発表していました。

そんな中にあってスッペは、より親しみやすく気軽に楽しめるライト・オペラ=喜歌劇の創作に力を注ぎました。


 

そして、パリのオッフェンバック、ウィーンのスッペとまで言われるほどにオペレッタ界の頂点を極めたのです。ワルツ王、J.シュトラウス2世も「こうもり」などのオペレッタ作品が有名ですが、時代的にはスッペより10年ほど後発です。  

 

スッペの喜歌劇そのものは、現在ではほとんど上演される機会もありませんが、「軽騎兵」や「詩人と農夫」の序曲は演奏会以外でも、映画やCMなど様々な場でも取り上げられ親しまれています。















生涯


 

18世紀にダルマチアに移住したベルギー系貴族の家庭に生まれる。

遠戚にガエターノ・ドニゼッティがおり、本名はイタリア風のフランチェスコ・エゼキエーレ・エルメネジルド・スッペ=デメッリ(Francesco Ezechiele Ermenegildo, Cavaliere Suppé-Demelli、カヴァリエーレ(Cavaliere)はイタリア語で騎士階級のこと。Ritter に相当)といった。

ウィーン在住中に氏名をドイツ語風に簡略化し、さらに Cavaliere に代えて von を用いるようになった。

このため、ドイツ語圏以外の地域では、Francesco Suppé-Demelli の呼び名もみられる。 

幼年期に音楽の手ほどきを受けて作曲を試みる。

10代のときクレモナでフルートと和声法を学ぶ。

現存する最初の作品は、1832年に地元のフランシスコ会の教会で初演されたカトリック典礼のミサ曲である。

パドヴァに移って法学を専攻するかたわら、音楽の学習を続けた。

ウィーンに出てイグナツ・ザイフリート(Ignaz Seyfried)と、晩年のフランツ・シューベルトやアントン・ブルックナーの対位法の師として高名なウィーン音楽院のジーモン・ゼヒターに入門した後、無報酬でヨーゼフシュタット劇場を指揮した(だが後に、同劇場で自作を上演できるようになる)。

ヨーゼフシュタットやレオポルトシュタットのほか、アン・デア・ウィーン劇場、バーデン歌劇場の公演のために、しめて100曲以上の作品を作曲した。





 

 










軽騎兵とは?


軽騎兵は、甲冑のような防具を身につけないか、軽装備の防具のみを身につけ、弓・投槍やカービン、ピストルなどの飛び道具の他、剣や刀、槍などを操り、戦闘を行う。

他の騎兵部隊と同様に数が上回る敵に対して突撃をためらわない勇気が賞賛され、また略奪を頻繁に行うことから荒くれものの集団と同一視されていることが多い。

無防備な集落や補給部隊の襲撃、略奪や敵情の偵察に多大な効果を上げたが、弓矢などの投射武器や長槍を装備し、規律の取れた部隊に対しては必ずしも有利といえるわけではなかった。

また、馬の管理は想像以上の手間がかかり、長期にわたる攻城戦では足手まといとなることが多かった。

渡河戦では水や泥に足を取られて苦戦することもあり、船の輸送では疫病によって馬が大量死することも多い。 

重騎兵と共通する点の1つは、部隊の育成に手間がかかることであり、一度壊滅的な打撃を受けた場合には建て直すのには長い時間がかかったことである。

再編できるまでは兵力が大きく低下することもあった。

熟練した乗り手になるには数年かかり、馬上で満足に戦闘が行えるようになるまではさらに数年がかかった。

そのため、住民の大半が潜在的な軽騎兵である遊牧民社会以外では、その育成に非常な労力を要した。

また、重騎兵と同じように時には、下馬して銃や弓、槍での戦列に加わることもあった。




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作品 


スッペのオペレッタのうち、「ボッカチオ」(Boccaccio)と「ドンナ・フアニータ」(Donna Juanita)2曲がニューヨークのメトロポリタン歌劇場でも上演されたが、レパートリーに定着することはできなかった。

しかしヨーロッパでは一定の頻度で上演が続いており、ウィーンフォルクスオーパーやモスクワ・アカデミー歌劇場が来日公演で取り上げたこともある。

ちなみに、生涯イタリアオペラ(とカルメン)に徹し、ドイツ物はほとんど歌わなかった大歌手マリア・カラスのデビュー演目は、「ボッカチオ」であった。 

日本では、大正時代に浅草オペラの台頭によってスッペのオペレッタが紹介され、とりわけ「ボッカチオ」のアリエッタ「恋はやさし野辺の花よ」が田谷力三の愛唱歌として普及された

「ベアトリーチェ」は「ベアトリ姐ちゃん」とタイトルを変え、榎本健一の歌でヒットした。 

スッペは30曲のオペレッタのほか、バレエ音楽など多数の舞台音楽を作曲した。

それらの大部分が忘却に追いやられている中で、「軽騎兵」や「詩人と農夫」の序曲が、映画やアニメーション、コマーシャルなどの音楽に転用され、ポップスのコンサートで演奏されている。

これらはヨハン・シュトラウスなどに比べ起伏を大きくとって豪快にオーケストラを鳴らす傾向があり、そのせいかカラヤン、ショルティ、スイトナーといった重厚長大系のレパートリーを得意とする大指揮者が好んでスッペ序曲集をアルバム化している。 

郷里のダルマチアとの縁を守り続け、時どきスプリトなどを訪れた。

作品のいくつかはダルマチアにゆかりがあり、とりわけオペレッタ「水夫の帰国」は、フヴァル島(Hvar)で起こった事件に基づいている。

指揮活動を引退してからスッペはオペラの作曲を続けたが、作曲の焦点を宗教音楽に切り替えた。

レクイエムや3つのミサ曲、交響曲、演奏会用序曲、歌曲を作曲した。





 


 




























































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084 : Lady John Douglas Scott [楽興の時]

 

 

 

Lady John Douglas Scott

 

Annie Laurie






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Who are you ? 

 Annie Laurie even, not even Lady John Douglas Scott 















 

『アニーローリー』(Annie Laurie)は、代表的なスコットランド民謡として知られる楽曲。


ウィリアム・ダグラス(William Douglas 1672? - 1748)の詩をもとにして作られた。

作曲はスコットランドの女流音楽家ジョン・ダグラス・スコット夫人(Alicia Scott)。














 







 

1      Maxwellton's braes are bonnie, 

Where early fa's the dew, 

And it's there that Annie Laurie 

Gave me her promise true, 

Gave me her promise true, 

Which ne'er forgot will be, 

And for bonnie Annie Laurie 

I'd lay me doon and dee.


2      Her brow is like the snowdrift, 

Her throat is like the swan, 

Her face is the fairest 

That e'er the sun shone on. 

That e'er the sun shone on, 

And dark blue is her e'e, 

And for bonnie Annie Laurie, 

I'd lay me doon and dee.


3      Like dew on the gowan lying 

Is the fa' o' her fairy feet. 

And like winds in the summer sighing, 

Her voice is low and sweet. 

Her voice is low and sweet, 

And she's a' the world to me, 

And for bonnie Annie Laurie, 

I'd lay me doon and dee.









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歌の由来

アンニー・ローリーは、マクスウェルトン卿のサー・ロバート・ローリーの末娘だった。

16821216日に父親の館であるマクスウェルトン・ハウスで生まれた。

スコットランド中に知られた美人だったといわれている。


詩は、1700年ごろに書かれたものである。

言い伝えによれば、ウィリアム・ダグラスは彼女に結婚を申し込んだが、歳の差、彼女がまだ若すぎること、政治的な立場の相違(氏族間の対立)などで、マクスウェルトン卿から強く反対されたという。



ダグラスは恋の痛手からようやく立ち直った頃に、エリザベス・クラークという女性と出会い駆け落ちをした

                                        

                                            











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一方、アンニー・ローリーは、1710年にクレイグダーロックの領主アレクサンダー・ファーガソン(Alexander Fergusson)のもとに嫁ぎ、約33年間そこで暮らした。

彼女のために大邸宅が建設され、彼女の好みで作られたという庭園も残されている。


没年は定かではないが、1761年に亡くなりクレイグダーロックに埋葬されたと言い伝えられている。

マクスウェルトン・ハウスには、今も彼女の肖像が残されており、その昔ウィリアム・ダグラスの心をとりこにしたという青い瞳の佳人の姿をうかがい知ることができる。


また、彼女の夫がジェームス・ファーガソンであったとの説もあるが、誤伝とされている。











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ネス湖







曲は18382月にスコットランドの女流音楽家ジョン・ダグラス・スコット夫人(1810 - 1900)が作曲。

ウィリアム・ダグラスの詩は、何度か手直しされたといわれている。


そして、1854年のクリミア戦争で、未亡人や孤児となった人たちへの慈善活動のために出された歌集にこれが載せられたことから、やがて軍楽隊も演奏するようになり広く知られるようになった。


戦地の兵士たちもこの歌を口ずさみ、故郷にある大切な人をしのんだという。

さらに、明治初期の日本には、まったく別の歌詞で伝えられたようである。

また若干旋律を変更して下記『才女』として歌われた。




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【日本語詞】

この日本語詞は、緒園凉子のものをもとに、原詞の表現を加味して作成したものである。他にも堀内敬三、藤浦洸、茂原二郎の訳詞がある。

1      春の岸辺に 咲きし花よ  

君が姿を 何にたとう 

その御前(みまえ)に この身ささぐ 

愛(いと)し アンニー・ローリー 

われは誓う

2      雪のかんばせ 清きうなじ 

われを見給う 青き瞳 

その輝き 空の星か  

愛(いと)し アンニー・ローリー 

夢に浮かぶ

3      秋の木の葉の 露をこぼす 

野のそよ風か 君が御声(みこえ) 

清(すが)し響き 心揺する 

愛(いと)し アンニー・ローリー 

われは慕う 

 




 

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ブリティッシュ ソング

 

 

 

                  

 

 

                  

 

 

                  


 

 





 

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083 : Alexander Scriabin [楽興の時]

 

 

Alexander Scriabin

                          














 

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Alexander Scriabin

 








 

 

アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン(ロシア語: Александр Николаевич Скрябин, 187216 - 1915427日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト。作曲者自身はフランス語風に Alexandre Scriàbine(もしくは Scriabine)と綴ることを好んだ。

英語では Alexander Scriabin, ドイツ語では Alexander Skrjabin となる。

 




























                                           

                                                    

                                                       

生涯 

生い立ちと学生時代 モスクワの小貴族(軍人貴族)の家系に生まれる。祖先はタタール系であるとされる。

父親は中近東の言語や政情に通暁した外交官として国内外を飛び回って家庭を顧みず、母のリュボーフィ・ペトロヴナはスクリャービンを生んでまもなく産褥熱で急死した。

このため叔母リューバの監督下で育つ。ちなみにスクリャービンの亡母はモスクワ音楽院に学び、テオドル・レシェティツキにも師事してアントン・ルビンシテインに祝福されたピアニストであった。

第二次世界大戦当時のソビエト連邦外務大臣として著名な政治家のヴャチェスラフ・モロトフ(本名ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービン)は父方の甥に当たる。

イギリスのロシア正教会スールジ主教区の府主教アンソニー・ブルームは母方の甥である。 

幼児期からピアノを始める。自ら望んで陸軍兵学校に進むが、小柄で虚弱なことと学業が優秀なこと、そして楽才が顕著なことから、特別にモスクワ音楽院への通学が認められ、14歳から院長タネーエフに作曲と音楽理論を、ズヴェーレフにピアノを師事。

もともと即興演奏を好む少年だったが、この頃から作曲したものを五線譜に残すことを習慣付けるようになる。

1888年から周囲の勧めで、正式にモスクワ音楽院に転学、ピアノ科でサフォーノフに、作曲科でアレンスキーに師事する。同級生にラフマニノフがいた。気難しく扱いにくい性格のあったスクリャービンにアレンスキーは手を焼いた。

結局スクリャービンは作曲科を修了することが出来ず、ピアノ科のみで単位を取得した。

このころ作曲家としてはラフマニノフが、ピアニストとしてはスクリャービンが有望視されていた。

ピアノ卒業試験においては、ラフマニノフが1位、スクリャービンが2位であった。































                                                           

                                                          

                                                      

作曲家スクリャービンの誕生 手の大きかったラフマニノフに比べ、10度音程が掴めない程度の手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。

回復するまでの間に、左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになる。

右手以上の運動量を要求され、広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ書法をそなえた、作曲家スクリャービンの誕生であった。

《左手のための2つの小品》作品9(前奏曲と夜想曲からなる)は、当時を代表する作品の一つである。 

1891年頃、ミトロファン・ベリャーエフのサークルの同人となり、リムスキー=コルサコフの知遇を得て、生涯に渡る親交を結ぶ。

またベリャーエフ出版社から、定期的に作品の出版が開始される。

1897年に衝動的に改宗ユダヤ人女性と結婚するが、これは庇護者ベリャーエフの意向に沿わず、年金がカットされたために、翌1898年から母校モスクワ音楽院のピアノ科教授に就任。

教育者としての評価が下されることは少ないが、学生の間では誠実で忍耐強く、学生の意欲を尊重する教師として評判がよく、ウィーン国立音楽大学のピアノ科からスカウトされたほどだった。


































                                                       

                                                     

                                                          

変化と発展 

1900年ごろからニーチェ哲学に心酔し、とりわけ超人思想に共鳴する。その後は神智学にも傾倒し、この二つから音楽思想や作曲に影響を受ける。

1902年に作曲に専念するとしてモスクワ音楽院を辞職するが、すでに門人タチヤナ・ド・シュリョーツェルと愛人関係を結んでいた。

1904年に家庭を捨ててタチヤナとともにスイスに出奔、西欧各地を転々とする。

この頃からロマン派の影響を脱し個性的かつ神秘主義的な作風へと向かう。

露暦でのクリスマス生まれだったことも、スクリャービンの神秘主義や、救世主きどりに拍車をかけた。

1909年から1910年までブリュッセルに住み、デルヴィルらのベルギー象徴主義絵画に興味を寄せつつ、マダム・ブラヴァツキーの著作にいっそう親しんだ。

これにより、自らの芸術を神智学思想を表現するためのものとして考えるようになり、後期の神秘和音を特徴とする作品を残す。

それとともに前衛的作曲家として国際的に認められるようになった。

















 



















                                                                  

                                                  

                                                 




 

終焉 

1910年帰国。

このころに、アコースティック録音とピアノロールに自作の録音を残し、クーセヴィツキーやラフマニノフの指揮で自作の協奏曲や《プロメテ》を演奏。

作曲のかたわら国内外で精力的に演奏活動にとり組む。

虚弱体質の反動から生涯にわたり健康を気にしすぎる気味があったが、皮肉なことに唇への虫刺されが炎症を起こし、膿瘍による敗血症がもとでモスクワで1915年に急逝した。
























                                                 

                                        

                            



 

後世への影響 

スクリャービンは、《法悦の詩》において調性音楽から離脱したが、これはドビュッシーが《前奏曲集第1巻》においてフランス印象主義音楽の音楽語法を完成させ、またシェーンベルクが《弦楽四重奏曲 第2番》においてドイツ表現主義音楽の開拓に突入したのとほぼ同時期のことであった。

この点をもってスクリャービンは、現代音楽の先駆者の一人と認められている。 

永らくスクリャービンは一過性の存在であり、音楽史上に何ら影響を与えなかったと看做されてきた。

初期において濃厚な影響を受けたストラヴィンスキーでさえ、後にスクリャービンを「単なる妄想狂」と切り捨てている。

しかしながら現在では、スクリャービンの影響がロシアやソ連の国境を越え、国際的な広がりを持っていることが近年になって明らかにされてきた。

スクリャービンの支持者は、フェルッチョ・ブゾーニやアルバン・ベルクがおり、信奉者はカロル・シマノフスキや山田耕筰、チャールズ・グリフス、ルース・クロフォード=シーガーなどがいる。

スイス時代のスクリャービンにピアノを学んだカナダ人女性は、シカゴで音楽教師として立ち、結果的にジャズ・ピアニストの育成に貢献したとされる。 

スクリャービンの音楽美に対する研究はロシア・アヴァンギャルドを含む次世代のロシアの作曲家たちに強い影響を与えた。

比較的スクリャービンに近い作曲家はニコライ・オブーホフであり、独自の記譜法とクロワ・ソノールと呼ばれる十字架の形をした楽器の開発で知られる。

イワン・ヴィシネグラツキーもスクリャービンの模倣から出発したものの、やがて微分音を含む一オクターブ内に十数個の音から成る和音の共鳴に惹かれていき、オブーホフ同様に新しい楽器の開発にたずさわった。

しかしながら、調性を超えた音楽の先に神秘的な力を視るというイメージは、明らかにスクリャービンの規範なしにはありえなかったといってよい。

ちなみにオブーホフはラヴェルに愛され、ヴィシネグラツキーはメシアンから敬慕の念を受けていた。

オブーホフの、長々と宗教的な題名をつける傾向は、メシアンの場合と共通点が認められる。













 

アヨアン・イゴカーさんのご希望で、ピアノ曲を2曲





















 

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082 : Domenico Scarlatti [楽興の時]

 

 

 

Domenico Scarlatti








 

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Domenico Scarlatti











 

ドメニコ・スカルラッティ(Domenico Scarlatti, 16851026 - 1757723日)は、イタリアのナポリ出身で、スペインのマドリードで没した作曲家。

同年にJ.S.バッハ、ヘンデルのバロック時代の代表的作曲家が生まれているが、スカルラッティもその時代の鍵盤曲に新しい用法を取り入れた重要な作曲家である。 

マリア・マグダレーナ・バルバラ王女のために書かれた個性溢れるチェンバリズムが繰り広げられる555曲の練習曲が、そのテーマ性と展開によって後に「ソナタ」と呼ばれて親しまれている。 

作曲家のアレッサンドロ・スカルラッティは父親。




















 

  










 








 

略歴

  

                  

1685年に10人兄弟の6番目の子としてナポリに生まれる。

1701年にナポリの教会付き作曲家兼オルガン奏者となる。

あるときローマでヘンデルとチェンバロおよびオルガンの腕前を競いあったという逸話が伝わっている。

1720年または1721年にリスボンに行きマリア・マグダレーナ・バルバラ王女に音楽を教える。

1729年にマリア・バルバラがスペイン王家に嫁いだため、マドリードへ行く。

ドメニコは25年ほどスペインに滞在し、5人の子どもをもうけた。

1757年にマドリードで没す。彼の子孫一族は今日でもスペインで生活している。




























 

作品 

      

スカルラッティは鍵盤作品の作曲者として有名であるが、それらはチェンバリズムを追求する明確な方向性が見出されるため、広く鍵盤楽器一般のためでなく、特別なもの以外はチェンバロで演奏する効果に限定されると言える。

鍵盤作品以外に、歌劇や宗教曲なども遺している。 

スカルラッティの作品を整理する作品番号は4種類ある。

 Pestelli 番号(P. と略する)Longo 番号(L.)Kirkpatrick 番号(K. または Kk.)、音楽学者で鍵盤楽器奏者のエミリア・ファディーニがつけたFadini番号(F.)であり、現在最も多く使われているのはラルフ・カークパトリックによる Kirkpatrick 番号である。

     

        

歌劇

管弦楽曲

チェンバロ作品

セレナータ

オラトリオ

宗教作品

カンタータ

 

























       

     

     





 

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081 : John Philip Sousa [楽興の時]

 

 

 

John Philip Sousa





 

 

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John Philip Sousa


 

        

      

ジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Sousa, 1854116 - 193236日)はアメリカの作曲家、指揮者。

100曲を越える行進曲を作曲したことから、マーチ王と呼ばれる。またオペレッタも多く作曲した。

マーチングなどでよく用いられるマーチング用チューバスーザフォンを発明したことでも知られる。







 











♪マーチ王スーザを代表する名曲 

スーザは生涯に130曲にものぼる行進曲を作曲し“マーチ王”と呼ばれるアメリカの作曲家、指揮者です。ワルツやポルカがJ.シュトラウス2世の独壇場であるのと同じように、行進曲というジャンルにおいて他に競う者のいない抜きん出た存在です。 

自ら「スーザ吹奏楽団」をひきいて全米のみならず、ハワイ、オーストラリア、南アフリカなど広範囲にわたっての演奏旅行を行いました。

体に管を巻きつける独特の“スーザフォン”の考案者としても知られています。 

「星条旗よ永遠なれ」はそんなスーザを代表する名曲です。

スーザ吹奏楽団のマネージャーがなくなったとの知らせを受け、その後アメリカへ帰国する途上の船上で作曲されました。

198712月にはアメリカ合衆国の「国の公式行進曲 (National March)」に制定されています。









 

 

 

                                        










♪アメリカの新聞社ワシントン・ポストの依頼で作曲された行進曲

  「ワシントン・ポスト」はアメリカのマーチ王スーザの代表的な行進曲。 

「星条旗よ永遠に」などと共に最も広く知られるスーザの作品のひとつです。 

1889年、アメリカの新聞ワシントン・ポストはアマチュア作家協会を設立。 

紙上で学生の文学作品のコンテストを開始しました。その表彰式のための行進曲を、オーナーであるハットンとウィルキンスが、 当時アメリカ海兵隊楽団長であったスーザに依頼したのです。 

それに応えて作曲されたこの曲は、同年615日の第一回表彰式で、 海兵軍楽隊によって初演されると、瞬く間に大ヒットしました。

ワシントン市のスミソニアン・グランドで行われた表彰式には、ハリソン大統領をはじめとする要人たちが顔を連ねていたといいます。 

この行進曲によって平凡な新聞だったワシントン・ポスト紙は一躍有名になり、このことからある英国人ジャーナリストはスーザを“マーチ王”と呼びました。  

「ワシントン・ポスト」はスーザバンドの演奏会では定番曲でした。

もしプログラムになくても、聴衆は演奏することを求めたと伝えられます。 

ワシントンD.C.にあるワシントン・ポスト・ビルには、“ジョン・フィリップ・スーザ集会室”という名の部屋があり、アメリカ海兵隊の真紅の制服を着た等身大のスーザの肖像画が、スポットライトを浴びて飾られているそうです。 

ワシントン・ポスト紙に世界的な名声と注目をもたらし、 合衆国にも貢献したスーザに対する賛辞が、そこには表されています。




















「雷神」は1889年、ワシントン海兵隊楽団としては最後の頃の作品です。 

日本語では、「雷神行進曲」、「ザ・サンダラー」と呼ばれることもあります。  

曲名の「雷神」とは、雷を武器として操るギリシャ神話の主神ゼウスのことです。 

公的には明らかではありませんが、ドラムとビューグル(ラッパ)の爆発的効果から、この名が付けられたと考えられています。

「雷神」は、スーザの作品として、最もよく知られた作品のひとつです。また、比較的演奏しやすい曲で、ブラスバンドでもよく取り上げられています。

 日本では早くから紹介されていて、 1956年には、選抜高等学校野球大会 入場行進曲にも使用されています。 また、1968-1972年に、アメリカABCニュースは選挙のテーマに使用していました。








生涯

ワシントンD.C.に生まれる。

父はスペイン出身で、大統領直属ワシントン海兵隊楽団のトロンボーン奏者だった。母はドイツ系である。

周囲に音楽があふれている環境の中で、スーザは自然に音楽と親しむようになる。

7歳のとき音楽の勉強を始め、楽器演奏のほかに声楽にも熱中した。

熱中するあまり、勝手に楽団にもぐりこんで演奏に加わったりした。

加わった先の一つが少々ならず者の集団だったこともあり、父の紹介で13歳のときにワシントン海兵隊楽団に入団した。

5年間在籍したが、やがてワシントン海兵隊楽団を退団して各地のオーケストラやバンドを転々とするようになる。

その最中にはアーサー・サリヴァンなどと親しくなったりもした。

1880年に古巣のワシントン海兵隊楽団から指揮者に指名され楽団に復帰する。「ワシントン・ポスト」や「雷神」はこの時期の作品である。








 

   
   
   
   
   
   
   
   
   



    

      

   





 

  
   
   
   
  












1892年、デヴィッド・ブレイクリーという興行師の誘いで楽団を辞任し、「スーザ吹奏楽団」を結成。

926日にニュージャージー州プレインフィールドで第1回の公演を行い、そのまま全米各地への演奏旅行に出発した。

ブレイクリーの根回しが少々雑だったのか、公演は必ずしもすべて成功とは行かなかったと言われる。

1896年、ブレイクリーが急死し、その報を聞いて帰る船の中で浮かんだメロディーを元に作曲されたのが「星条旗よ永遠なれ」である。

 「スーザ吹奏楽団」は全米各地のみならず、ハワイや南半球のオーストラリア、南アフリカなどへの演奏旅行に出かけたが、1914年、第一次世界大戦の勃発に伴い、吹奏楽団を解散。

スーザ自身も海軍大尉に任官する。

終戦後、少佐で退役後吹奏楽団を再結成し、レコーディングや演奏旅行、そして1922年から始まったラジオへの出演など、大戦前以上に精力的に活動した。

193236日、ペンシルベニア州リーディングでコンサートを開いた後、帰ってきたホテルで急死。

吹奏楽団も解散となった。

スーザは音楽以外にも多彩な才能を見せており、3篇の小説と自伝を著している。クレー射撃においても高い技術を有していた。











 

 
   
  
   
   
   
   

 

 

 

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スーザがマーチングバンド用に考案した スーザフォン (TUBA)












マーチングバンドについて 

マーチングバンド(英: marching band)は、もっとも広義においては、歩きながら楽器演奏し、ときにはダンスチームやカラーガードなどと行進するバンドのこと。

トルコのメフテルやヨーロッパの鼓笛隊といった古典的な軍楽隊、フットボールのハーフタイムショーを行うスクールバンド、青少年教育団体として発展してきたドラム・アンド・ビューグル・コーなど、幅広い種類のバンドをマーチングバンドという言葉は内包している。 

用語があいまいに使われており、上記のように様々な編成の楽団を指すが、概ね管楽器、打楽器を中心とした編成である。

楽器演奏のみならず、カラーガードの演技や大道具などの視覚効果を含むことも多い。

また、マーチングバンドの指揮者をドラムメジャーと呼ぶ。

演奏行為はマーチング、ドリル、パレードなど様々な呼ばれ方をされ、その演奏・演技を競い合う大会も多数開催されている。

マーチング・バンドとは、吹奏楽活動のひとつの演奏形態のことである。



     

 

    

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マーチングバンド











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カラーガード














 

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マーチングバンドの花 米海軍バトントワラー








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080 : Scott Joplin [楽興の時]

 



 

Scott  Joplin

 












 

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Scott Joplin

 









スコット・ジョプリン(Scott Joplin, 18681124 - 191741日)はアメリカ合衆国のアフリカ系アメリカ人の作曲家、ピアノ演奏家。

ラグタイムで有名な演奏家・作曲家であり、「ラグタイム王」(King of Ragtime)と呼ばれている。

                                                                          

                                                           

                                                   

                                                                        









 

生涯 1868年 テキサス州リンデンの近くで、黒人元奴隷農夫の父ジャイルと母フロレンスの次男(6人兄弟)として誕生。 

1875年(7歳)家族と共にテキサス州テクサーカナに移り住んだ。

早くから音楽的才能が現れ、バンジョーを上手くこなした。

両親は彼の才能を伸ばすことに力を貸し、特に母は生活費を削ってピアノを買い与えた。この時代の黒人は教育の機会が与えられず、仕事も限られていたので、「何か自分の身を助ける才能があれば」と願ったのだと考えられる。 

1876年(8歳)Julius Weissの指導で音楽を習う。

ピアノは独学と言われるが、10代でダンス音楽の演奏家になった。

1882年頃(14歳)親元から離れ、ミシシッピー川流域のサロンの1つメープルリーフ・サロンで演奏、白人の音楽出版者ジョン・スタークに出会う。 

1890年(22歳)頃 セントルイスに移り住み、アメリカ中西部のサロンや売春宿で演奏。 

1893年(25歳)シカゴのコロンビアン・エクスポジション隣接のスポーツ・エリアで演奏。 

1894年(26歳)ミズーリ州セダリア (Sedalia) へ移り住む。

そこから、8人の仲間と共にテキサス・メドレー・カルテットを編成し、ニューヨークまで演奏旅行をする。 

1895年(27歳)クラシック音楽のピアニスト・作曲家としての人生を歩みたいと願い、黒人のためのジョージ・R・スミス大学で学ぶ。

彼はヨーロッパのクラシック音楽とアフリカ系アメリカ人のハーモニーとリズムを結びつける音楽を追求していた。

これは後日、音楽ジャンル「ラグ」として認知されるようになった。























                                                                   

                                                            

                                                                




 

1896年(28歳)916日カンサス&テキサス鉄道会社(The Katy, K&Tの意)の宣伝のためにテキサス州wako近くで行った車両同士の正面衝突(衝撃によるボイラー爆発で、5万人の観客の一部に破片が飛び、結局2名死亡と重傷者の出る大事故になったが)にジョプリンは作曲へのインスピレーションを感じ、"the Great Crush Collision" を作曲した。 

1899年(31歳)この頃から以後15年間にわたって多くのラグが生れるようになった。 1900年(32歳)セントルイスに移り住み、ジョン・スタークと親交を深めた。スタークは彼の作品「メープルリーフ・ラグ(Maple Leaf Rag)」を発売し、大成功を収める。 

1901年(33歳)スコット・ハイデン (Scott Hayden) と共に"Sunflower Slow Drag"が生れる。

ハイデンの妹、ベルと結婚したが、彼の音楽に理解が無く1903年に離婚した。 

1902年(34歳)代表作「ジ・エンターテイナー」を作曲。

1903年(35歳)オペラ "A Guest of Honor" を作曲、

このオペラは失われて残っていない。 

1907年(39歳)33歳の Lottie Stokesに出会いその後10年を幸せに送った。

ベルと違い、音楽を愛していた。 

1911年(43歳)ニューヨークへ移り住む。オペラ "Treemonisha" "Reflection Rag"を作曲。 

1915年(47歳)オーケストラの代わりに彼のピアノでの演奏でオペラが公演されたことが一度あったが不評に終わった。

それが精神的に相当な衝撃であったと妻 (Belle) は言い残している。 

19171月中旬 梅毒により精神・肉体に異常をきたし、ブルックリンの病院に入院。

晩年は認知症が発現し入退院を繰り返していた。 

191741日 死亡。

死因は直接的には肺炎ということであったが、実際には梅毒による複合的な身体機能の劣化であると考えられる。





                                                                     

                                                    

                                                                   



 

出生について 

場所 

テキサス州東部の州境地帯(アーカンソー州-ルイジアナ州-テキサス州)に位置するカス郡の郡都・リンデン(Linden、人口およそ24千人)付近。

かつては、18681124日にダラスとリトルロックのほぼ中間に位置する同州ボウイ郡テクサカーナ(Texarkana,TX)であると考えられてきた。 

日付 長年にわたり、18681124日であると考えられてきた。

しかし、これが不正確であったことがラグタイム研究家のエドワード・バーリン(Ed Berlin)によって明らかにされており、現在では18676月から18681月までの間に出生したのではないかという説が有力である。






                                                          

                                                                

                                                            



 

死後 

彼の存命中、版権から得られる収入はあったが、重要な作曲家としては認知されず、1970年代になってようやくその音楽が見直された。 

1973年、映画『スティング』の中で、彼の音楽が使われ大ヒット、音楽部門でアカデミー賞を得た。

これと前後してピアノ演奏によるレコードが次々と登場し、多くは全米のクラシック音楽セールスで上位に入った。 

1976年、彼のオペラ "Treemonisha" が演奏され、ピューリッツァー賞を得た。








































                                                      

 

                              

ラグタイム

ラグタイム (ragtime) は、1897年(記載ある最初の楽譜の出版年)から1918年(第一次大戦前後)にかけて集中的に、アメリカを中心としつつ世界的に流行した、音楽ジャンルである。


19世紀後半頃から、アフロ・アメリカン(黒人)のミュージシャンが、主にピアノ演奏を中心に自らのルーツ音楽を基本とするシンコペーションを多用した(右手の)メロディーと、マーチに起因する(左手の)伴奏を癒合させた独特の演奏スタイルを編み出してゆき、これが従来のクラシック音楽のリズムとは違う「遅い・ずれた」リズムと思われたことから「ragged-time」略して「ragtime」と呼ばれるようになった、といわれている。

                 

                                             





 

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079 :Frédéric François Chopin [楽興の時]

 

 

 

Frédéric François Chopin

 




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Frédéric François Chopin

 












 

フレデリック・フランソワ・ショパン(フランス語: Frédéric François Chopin 、ポーランド語: Fryderyk Franciszek Chopin (フルィデールィク・フランチーシェク・ショペーン)、181031日(222日(出生証明の日付)、180931日説もあり) - 18491017日)は、ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。

                         

当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。

その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。

                            

ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人でもある。

また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地であった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。                                 

1988年からポーランドで発行されていた5000ズウォティ紙幣に肖像が使用されていた。また、2010年にもショパンの肖像を使用した20ズウォティの記念紙幣が発行されている。








[ぴかぴか(新しい)]


フレデリック・フランソワ・ショパン (Frédéric François Chopin, ポーランド名: フリデリク・フランツィシェク・ショペン Fryderyk Franciszek Chopin, 181031日(222日(出生証明の日付)、180931日説あり) - 18491017日)はポーランド出身の前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。

                                                                                                                                                           

その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。

ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人でもある。

                                                                                    

 生涯を通じて肺結核に悩まされた病弱の芸術家であり、残された肖像画などからも、赤みがかった頬等、その徴表が見られるが、そうした繊細なイメージとよくマッチした作風のものばかりでなく、そうした自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや大国ロシア帝国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、情熱的な作風の曲も多く見られる。

                                                                                                        

 後半生は大部分をフランスで過ごした。しかし望郷の思いは終生止むことがなく、死後心臓が遺言によりポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬された。故郷を支配する列強への反発心は若い頃から強く、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」(シューマン)と評されることもしばしばである。

                                                                                                     

また、女性との愛の遍歴も伝説を交えて語られることがあるが、特に女流作家ジョルジュ・サンドとの9年におよぶ交際の間には『24の前奏曲集』、『幻想曲』、『バラード第4番』、『英雄ポロネーズ』、『舟歌』、『幻想ポロネーズ』等数多くの傑作が生まれた。












Ballade & Scherzo

 


 

0:00:00 Ballade No. 1 in G minor, Op. 23

0:09:10 Ballade No. 2 in F major, Op. 38

0:16:31 Ballade No. 3 in A-flat major, Op. 47

0:23:52 Ballade No. 4 in F minor, Op. 52

                

0:35:13 Scherzo No. 1 in B minor, Op. 20

0:45:03 Scherzo No. 2 in B-flat minor, Op. 31

0:54:54 Scherzo No. 3 in C-sharp minor, Op. 39

1:02:24 Scherzo No. 4 in E major, Op. 54

             









Nocturnes


 

 

0:00:00 Op. 9, No. 1 in B-flat minor

0:05:52 Op. 9, No. 2 in E-flat major

0:10:28 Op. 9, No. 3 in B major

       

0:17:08 Op. 15, No. 1 in F major

0:22:06 Op. 15, No. 2 in F-sharp major

0:25:42 Op. 15, No. 3 in G minor

        

0:30:51 Op. 27, No. 1 in C-sharp minor

0:36:31 Op. 27, No. 2 in D-flat major

        

0:42:25 Op. 32, No. 1 in B major

0:47:26 Op. 32, No. 2 in A-flat major

         

0:53:00 Op. 37, No. 1 in G minor

0:59:50 Op. 37, No. 2 in G major

           

1:06:16 Op. 48, No. 1 in C minor

1:12:24 Op. 48, No. 2 in F-sharp minor

        

1:20:10 Op. 55, No. 1 in F minor

1:25:35 Op. 55, No. 2 in E-flat major

         

1:31:18 Op. 62, No. 1 in B major

1:38:49 Op. 62, No. 2 in E major

         

1:45:10 Op. posth. 72, No. 1 in E minor

            

1:49:18 Op. posth. in C-sharp minor

1:53:17 Op. posth. in C minor








            

Waltzes




 

 

00:00 Op. 18 in E-flat major

                  

05:24 Op. 34, No. 1 in A-flat major

10:46 Op. 34, No. 2 in A minor

15:52 Op. 34, No. 3 in F major

                       

18:11 Op. 42 in A-flat major

                          

22:03 Op. 64, No. 1 in D-flat major

23:47 Op. 64, No. 2 in C-sharp minor

27:15 Op. 64, No. 3 in A-flat major

                                

30:24 Op. 69, No. 1 in A-flat major

33:25 Op. 69, No. 2 in B minor 

                        

36:48 Op. 70, No. 1 in G-flat major

38:53 Op. 70, No. 2 in F minor

41:19 Op. 70, No. 3 in D-flat major

                          

44:04 Op. posth. in A minor

46:00 Op. posth. in E minor

48:59 Op. posth. in E-flat major

51:42 Op. posth. in E major

53:47 Op. posth. in A-flat major

55:03 Op. posth. in E-flat major











                                  

Etudes Op.10 & 25, complete


 

 

00:00 Etude Op.10/1, C major (Waterfall)

 01:55 Etude Op.10/2, a minor (Chromatic)
03:19 Etude Op.10/3, E major (Tristesse) 
 07:44 Etude Op.10/4, c minor (Torrent)
 09:57 Etude Op.10/5, G major (Black keys)
 11:41 Etude Op.10/6, e minor
15:25 Etude Op.10/7, C major (Toccata) 
16:59 Etude Op.10/8, F major (Sunshine) 
19:23 Etude Op.10/9, f minor 
21:32 Etude Op.10/10, A major
23:54 Etude Op.10/11, e major (Arpeggio)
26:11 Etude Op.10/12, c minor (Revolutionary)
28:59 Etude Op.25/1, A major (Aeolian harp)
31:17 Etude Op.25/2, f minor (Bees)
33:16 Etude Op.25/3, F major (Cartwheel/Horseman)
35:00 Etude Op.25/4, a minor37:01 Etude Op.25/5, e minor (Wrong notes)
40:18 Etude Op.25/6, g minor (Thirds)
42:28 Etude Op.25/7, c minor (Cello)
47:39 Etude Op.25/8, D major (Sixths)
48:49 Etude Op.25/9, G major (Butterfly)
49:46 Etude Op.25/10, b minor (Octaves)
54:04 Etude Op.25/11, a minor (Winter wind)
57:52 Etude Op.25/12, c minor (Ocean)
 
Three New Etudes / Trois Nouvelles Études
1:00:08 No.1 f minor
1:02:45 No.2 A major
1:04:33 No.3 D major
 
Boris Berezovsky(1969-)Piano, 1991 (Berlin)

 

 

                                                                                                           

                                                                                

 

 























 

 

 

 

 

 

24 Préludes

    








 
00:00 No. 1 in C major - Agitato  
 00:34 No. 2 in A minor - Lento
 02:15 No. 3 in G major - Vivace
 03:10 No. 4 in E minor - Largo
 05:21 No. 5 in D major - Molto allegro
 05:55 No. 6 in B minor - Lento assai
 07:54 No. 7 in A major - Andantino
 08:42 No. 8 in F-sharp minor - Molto agitato
 10:31 No. 9 in E major - Largo
11:51 No. 10 in C-sharp minor - Molto allegro 
 12:24 No. 11 in B major - Vivace
 13:03 No. 12 in G-sharp minor - Presto
 14:20 No. 13 in F-sharp major - Lento
 17:10 No. 14 in E-flat minor - Allegro
 17:39 No. 15 in D-flat major - Sostenuto
 23:18 No. 16 in B-flat minor - Presto con fuoco
 24:29 No. 17 in A-flat major - Allegretto
 27:25 No. 18 in F minor - Molto allegro
 28:23 No. 19 in E-flat major - Vivace
 29:44 No. 20 in C minor - Largo
 31:30 No. 21 in B-flat major - Cantabile
 33:03 No. 22 in G minor - Molto agitato
 33:50 No. 23 in F major - Moderato
 34:48 No. 24 in D minor - Allegro appassionato



 

            

 

 

 

        












 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Polonaise


 

1.英雄ポロネーズ 変イ長調 Op.53

2.軍隊ポロネーズ イ長調 Op.40-1

3.幻想ポロネーズ 変イ長調 Op.61

 

Chopin- The Complete Songs



                                               

                                                       

                                                                      

op. 74 (posth.) songs: 
 0:00 - Zycenie (The Maiden's Wish)
 1:58- Wiosna (Spring)
 4:03- Smutna rzeka (Troubled Waters)
 7:02- Hulanka (Drinking Song)
 9:22- Gdzie lubi (There Where She Loves)
 10:38- Precz z moich oczu! (Out of My Sight!)
 14:07- Posel (The Messenger)
 17:17- Sliczny chlopiec (My Beloved)
 20:44- Z gor, gdzie dzwigali (Bowed 'neath Their Crosses)
 23:25- Wojak (The Warrior)
 26:11- Dwojaki koniec (The Lovers)
 28:36- Moja pieszczotka (My Enchantress)
 30:39- Nie ma czergo trzeba (Faded and Vanished)
 35:43- Pierscien (The Ring)
 38:14- Narzeczony (The Bridegroom's Return)
 40:32- Piosnka litewska (Lithuanian Song) 
 42:47- Spiew z mogily- Leci liscie z drzewa (Poland's Dirge)











  


Mazurka



 

Op. 6, No. 1 - 00:00 Op. 30, No. 1 - 45:34Op. 56, No. 3 - 01:34:05 
 Op. 6, No. 2 - 02:42 Op. 30, No. 2 - 47:16 Op. 59, No. 1 - 01:39:58
 Op. 6, No. 3 - 05:28 Op. 30, No. 3 - 48:49 Op. 59, No. 2 - 01:43:53
 Op. 6, No. 4 - 07:37 Op. 30, No. 4 - 51:46 Op. 59, No. 3 - 01:46:33
 Op. 7, No. 1 - 08:23 Op. 33, No. 1 - 55:34 Op. 63, No. 1 - 01:50:18
 Op. 7, No. 2 - 11:03 Op. 33, No. 2 - 57:15  Op. 63, No. 2 - 01:52:39 
 Op. 7, No. 3 - 14:37 Op. 33, No. 3 - 01:00:04 Op. 63, No. 3 - 01:54:27
 Op. 7, No. 4 - 17:33 Op. 33, No. 4 - 01:01:44Op. 67, No. 1 - 01:56:50 
 Op. 7, No. 5 - 18:42 Op. 41, No. 1 - 01:07:20Op. 67, No. 2 - 01:58:04 
 Op. 17, No. 1 - 19:23 Op. 41, No. 2 - 01:10:54 Op. 67, No. 3 - 02:00:06
 Op. 17, No. 2 - 21:56 Op. 41, No. 3 - 01:13:10 Op. 67, No. 4 - 02:01:48
 Op. 17, No. 3 - 23:58 Op. 41, No. 4 - 01:14:25 Op. 68, No. 1 - 02:04:58
 Op. 17, No. 4 - 28:23 Op. 50, No. 1 - 01:16:41 Op. 68, No. 2 - 02:06:43
 Op. 24, No. 1 - 33:00 Op. 50, No. 2 - 01:19:15Op. 68, No. 3 - 02:09:34 
 Op. 24, No. 2 - 35:53 Op. 50, No. 3 - 01:22:27 Op. 68, No. 4 - 02:11:05
 Op. 24, No. 3 - 38:12 Op. 56, No. 1 - 01:27:52 'À Émile Gaillard' - 02:14:23
 Op. 24, No. 4 - 40:24Op. 56, No. 2 - 01:32:17  'Notre temps' - 02:16:59 
   










 

略歴

  • 1810 - 0歳:ワルシャワ公国中央のジェラゾヴァ・ヴォラに生まれる。
  • 1816 - 6: ヴォイチェフ・ジヴヌィの指導を受ける。
  • 1817 - 7歳:ジヴヌィよりピアノを習う。現存する最初の作品『ポロネーズ ト短調』を作曲、出版。
  • 1818 - 8歳:ワルシャワではじめて公開演奏。
  • 1823 - 12歳:ユゼフ・エルスネルより対位法和声学を学ぶ。
  • 1826 - 16歳:父親の勧めでワルシャワ音楽院に入学[1]
  • 1828 - ベルリンでの2週間の滞在。
  • 1829 - ワルシャワ音楽院を首席で卒業、ウィーンで演奏会を開く。
  • 1830 - ワルシャワを去りウィーンに向かう。
  • 1831 - ウィーンを去りパリへ向かう。デルフィヌ(デルフィナ)・ポトツカ夫人と再会。
  • 1832 - 2月26 パリで初の演奏会を開く。
  • 1835 - カルロヴィ・ヴァリで両親と最後の再会。マリア・ヴォジンスカとの再会。
  • 1836 - 26歳:マリアに求婚。 ジョルジュ・サンドと出会う。
  • 1837 - マリアとの婚約が破棄される。
  • 1838 - サンドとの交際が始まる。 マヨルカ島での滞在。
  • 1839 - 冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘で暮らす生活が始まる。
  • 1844 - 冬 インフルエンザにかかる。
  • 1847 - 37歳:ジョルジュ・サンドとの別れ。
  • 1848 - 2月26 パリでの最後の演奏会。 イギリスへの演奏旅行。

1849 - 39歳:姉、ルトヴィカと最後の再会。10月17永眠。

 

 





























[ぴかぴか(新しい)]











ア・ラ・カルト

 

                 
  
   
 
   
  

















[ぴかぴか(新しい)]














                                

                                                  

                                                




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 9月8日 今夜は十五夜ですね!

関東地方は雲が厚くかかって見えません。

この写真でお月見しましょう。

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078 : Dmitrii Dmitrievich Shostakovich [楽興の時]

 

 

 

Dmitrii Dmitrievich Shostakovich

 











 

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Dmitrii Dmitrievich Shostakovich

 





ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(ロシア語: Ru-Dmitri Dmitrievich Shostakovich.ogg Дмитрий Дмитриевич Шостакович ドミートリイ・ドミートリイェヴィチ・シャスタコーヴィチ; ラテン文字転写の例: Dmitrii Dmitrievich Shostakovich, 1906925日(ロシア暦912日) - 197589日)は、ソビエト連邦時代の作曲家。
交響曲や弦楽四重奏曲が有名。                 

シベリウス、プロコフィエフと共に、マーラー以降の最大の交響曲作曲家としての評価がほぼ確立され、世界的にも特に交響曲の大家と認知されている。
                        

また、弦楽四重奏曲においても秀逸な曲を残し、芸術音楽における20世紀最大の作曲家の一人である。ショスタコーヴィチの音楽には暗く重い雰囲気のものが多いが、その一方でポピュラー音楽も愛し、ジャズ風の軽妙な作品も少なからず残している。

当初、体制に迎合したソ連のプロパガンダ作曲家というイメージで語られていたが、『ショスタコーヴィチの証言』が出版されて以後、ショスタコーヴィチは皮肉や反体制といったイメージによって塗り替えられ、「自らが求める音楽と体制が求める音楽との乖離に葛藤した、悲劇の作曲家」として西側諸国における演奏の機会も急激に増加した。











































1919年ペテルブルク音楽院(後にペトログラード音楽院、レニングラード音楽院)に入学。

専攻は作曲とピアノ。

       

1925年に、同音楽院作曲科の卒業作品として作曲した交響曲第1番において国際的に注目された。

1920年代後半から1930年代前半にかけては、アルバン・ベルクやダリウス・ミヨーなど西欧の革新的な音楽技法を吸収し、舞台音楽を中心に多くの楽曲を作曲。

特にピアノ協奏曲第1番ではジャズに、歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』ではベルクの歌劇『ヴォツェック』などに触発された音楽となっている。

        

しかし、1936年に歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』とバレエ『明るい小川』が、ソヴィエト共産党機関紙『プラウダ』で批判(プラウダ批判)を受け、自己批判を余儀なくされる。そのような状況下、批判前に作曲し、オーケストラでリハーサルまでしていた交響曲第4番の初演を撤回。

          

批判以後、改めて作曲された交響曲第5番以降、それまでの作風から一転し、政府が自国の音楽に求めた「社会主義リアリズム」-「形式において民族的、内容において社会主義的」 - の路線に沿う作風の作品を発表し続けることとなる。






















1930年代後半から1940年代前半にかけては、交響曲や室内楽曲を多く作曲。

中でも、スターリン賞を受賞したピアノ五重奏曲や、友人の突然の死を悼んだピアノ三重奏曲第2番、独ソ戦開戦直後から書き始められた交響曲第7番「レニングラード」が有名である。

         

 

1948年、ソヴィエトの作曲家のほとんどが「形式主義者」として共産党により批判(「ジダーノフ批判」と呼ばれる。)されると、オラトリオ『森の歌』や映画音楽『ベルリン陥落』、カンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、あからさまに当局に迎合した共産党賛美の作品を多数作り、名誉の回復を勝ち得た。

         

一方、ヴァイオリン協奏曲第1番(1948年)や『ユダヤの民族詩から』(1948年)、弦楽四重奏曲第4番(1949年)など、この頃書かれた作品のうち、何曲かは公表が控えられ、多くはスターリンの死後に発表された。

         

 1953年スターリンが死ぬと、第9番以降、ジダーノフ批判があってから書かれていなかった交響曲(第10番)を約8年ぶりに発表。曲の内容の暗さと「社会主義リアリズム」との関係において、大論争(いわゆる第10論争)を巻き起こし、国外でも大きく報道された。

















 

Dmitri Shostakovich (1906-1975)

Symphony No.7 in C major, op.60 "Leningrad"

Valery Gergiev

Mariinsky Theatre Orchestra

Konzerthaus, Vienna, 4 12/2010






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1950年代後半から晩年にかけては、交響曲、協奏曲、室内楽曲、さらには声楽曲で傑作を多数残した。

         

特に、当局の締め付けが和らいだスターリン死後から1960年代前半までのいわゆる「雪解け」の時期には、演奏が禁止されていた作品の名誉回復(『ムツェンスク郡のマクベス夫人』でさえ、中規模程度の改訂の後、1963年に復活上演された)、交響曲第4番やヴァイオリン協奏曲第1番といった公表が控えられていた作品の発表、「社会主義リアリズム」の概念にとらわれない近代的で斬新な作風の作品(弦楽四重奏曲第7番や『サーシャ・チョールヌィの5つの詩』、映画音楽『ハムレット』など)の発表が相次いだ。

          

特にこの時期を代表する作品が弦楽四重奏曲第8番と交響曲第13番の2曲である。弦楽四重奏曲第8番(1960年)では、曲の大半で自作の引用を大々的に行うほか、ドイツ音名の自分のイニシャル「DSCH」の音列を中心主題の素材として用い、自身へのレクイエムとした。また、交響曲第13番(1963年)は、ナチによるユダヤ人の大虐殺を、ウクライナの谷底バービィ・ヤールで起こった実際の事件を取り上げて告発。

           

共産党によりテクストとして用いた詩の書き換えを要求されるなどの事件もあったが、1930年代、1940年代のような厳しい批判にはほとんど晒されることもなく、音楽には一切手が加えられず現在でもショスタコーヴィチの代表作として聴かれている。

また、60代を過ぎた1960年代半ば以降は、透明で熟達した技法の深化や(『ミケランジェロ組曲』やヴァイオリンソナタ、ヴィオラソナタなど)と共に、十二音技法やトーン・クラスター(『A・ブロークの詩による7つの歌曲』や交響曲第14番など)など、前衛的な作風へのアプローチを再び試みるなど、死の直前まで意欲的に作曲を続けた。

           

ショスタコーヴィチの最晩年を代表する傑作は、次の3曲である。

まず、交響曲第15番(1972年)は、ロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲や、ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』の運命の動機など他作曲家の作品の引用を大胆に行い(自作の交響曲第4番の引用もある)、自身の音楽的回想とした。

          

弦楽四重奏曲第15番(1974年)は、すべての楽章をアダージョとした異色作。

         

ベートーヴェンのピアノソナタ第14番『月光』からの引用もある。

死の1ヶ月前に完成し、作曲者自身聴くことの出来なかった遺作ヴィオラソナタ(1975年)は、どこまでも透明でショスタコーヴィチの「白鳥の歌」と呼ぶに相応しい傑作。












































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交響曲第5番 ニ短調 作品47

 

 

      
   
 

 

初演時のエピソード 

      

リハーサルでムラヴィンスキーとショスタコーヴィチは初めて顔を合わせたが、ムラヴィンスキーの質問に対して作曲者は何も答えず双方とも険悪な雰囲気であった

     

 困惑したムラヴィンスキーはわざと無茶苦茶なテンポで曲を演奏し、ショスタコーヴィチに「そうじゃない!」と言わせることに成功した。

     

これ以降、両者の意思伝達が進みいつしか仲良く協力し合うようになった。リハーサルが進むにつれ評判が上がり、初演時には満員となっていた。 

フィナーレの途中から興奮した観客が自然に立ち上がり、終わると猛烈なスタンディングオベーションとなり、

      

「荒れ狂ったような喝采を可哀想なミーシャ(ショスタコーヴィチ)を陥れたすべての迫害に対するデモンストレーションのような喝采を送った。みな、同じフレーズを繰り返した。

 『(プレッシャーに)答えた。立派に答えた。』ショスタコーヴィッチは下唇を噛みながら舞台に現れたが、泣いているかのようであった」(シャポーリン夫人)

     

 と証言のような騒ぎとなった。かえって体制への抗議活動と見なされることを恐れた関係者の機転で、作曲者は裏口から脱出したが、体制側はむしろこの作品を歓迎し、ソ連作家同盟議長アレクセイ・トルストイの論文で絶賛されたのである。

      

 初演直後、ショスタコーヴィチ本人は、友人の指揮者ボリス・ハイキンに「フィナーレを長調のフォルテシモにしたからよかった。

もし、短調のピアニッシモだったらどうなっていたか。考えただけでも面白いね」と皮肉っぽいコメントを残している。





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00:00 Lyric Waltz

01:31 Gavotte

02:39 Romance

05:00 Polka

06:18 Waltz-Scherzo












                                                                              

                                                                                                                      

                                             

                                                                           

       

                                                                                                    












またピアニストとしても活躍した。卓越したテクニックを有し、音楽院を卒業してからは作曲家になるかピアニストになるか真剣に悩んでいたほどである。

          

1回ショパン国際ピアノコンクールにソヴィエト代表の一人として選出され出場・入選したほか、2曲のピアノ協奏曲や『24の前奏曲とフーガ』など、自作の初演・録音も多数行なった。

            

しかし、後年は脊椎性小児麻痺の影響で右手が不自由となり、ピアノを弾くことが出来なくなった。

また大のサッカー好きで、地元のサッカークラブのスコアをメモ帳に書き記すなどの熱狂的サッカーファンだった。サッカーの審判の資格も持っていた。










 

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077 : Richard Georg Strauss [楽興の時]

 

 

 

Richard Georg Strauss

 






















 

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Richard Georg Strauss

 






リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss, 1864611 - 194998日)はドイツの後期ロマン派を代表する作曲家。

交響詩とオペラの作曲で知られ、また、指揮者としても活躍した。

ウィーンのヨハン・シュトラウス一族とは血縁関係はない。




 

 

 

                                               

                                  

                                               

♪映画「2001年宇宙の旅」で有名に  

スタンリー・キューブリック監督のSF映画の傑作2001年宇宙の旅」で一躍知られるようになった曲です。 

 R.シュトラウスの作品はどれも壮大なオーケストレーションで、現代楽器の威力が最大限に引き出されるものばかりです。 

彼は交響詩というジャンルに特に力を注ぎました。 

そんな彼の交響詩の中でもインパクトの強さからCMなどでもよく使われるのが「ツァラトゥストラはかく語りき」です。 

元来は哲学者ニーチェの著作を基にした深遠な内容です。

 




















 

<誕生>

        

1864年6月11日にリヒャルト・シュトラウスRichard Straußドイツ(1864-1949)は生まれた。

丁度その40日前にパリで当時のフランス・グランド・オペラの巨匠、マイヤベーアMeyerbeerドイツ(1791-1864)が世を去っていた。

この時、オペレッタの世界に、ヴィーンではスッペSuppéオーストリア(1819-95)、パリで人気を独占していたオッフェンバックOffenbachドイツ-フランス(1819-80)がいた。  

1861年にヴァーグナーWagnerドイツ(1813-83)が「タンホイザー」でパリで大失敗していた。これはパリの聴衆がマイヤベーアの華麗な管弦楽書法orchestrationや、大仕掛けな舞台に馴れきっていたためでもあるかもしれない。

この時、ヴァーグナーにとってマイヤベーアは、ヴェルディVerdiイタリア(1813-1901)以上に脅威な存在であった。マイヤベーアが死んだ1864年、ヴァーグナーは51歳、またこの時ルートヴィヒⅡがバイエルンの国王になり、ドイツから追放の身で多額の借金に苦しむヴァーグナーに援助を申し出た。

これによって新ロマン派グループ:ベルリオーズBerliozフランス (1803-69)、リストLisztハンガリー(1811-86)、ヴァーグナーWagnerドイツ(1813-83)は、力を得て大きな力を得て成果を収めていく。
最終的にヴァーグナーはライフワークであるバイロイトに祝祭劇場の建設着手へと向かっていった。  

新ロマン派への対抗馬として絶対音楽absolute musicの旗手としてブラームスBrahmsドイツ(1833-97)が据えられた。
彼にはそのような大それた野心がなかったため、本人は辞退するもののその役目を果たしていく。

ブルックナーBrucknerドイツ(1824-96)は「ミサ曲第1番ニ短調」を書き、引き続き「交響曲第1番」に取りかかり1868年に初演される。 

ざっとこうした背景の中でR.シュトラウスは生まれた(1864)。

ヴァーグナー、リスト、ブラームス、そしてビューローBuelowドイツ(1830-94)等は、R.シュトラウスに多大な影響を与えることになる。
でも、バイロイトの巨匠ヴァーグナーや長い白髪のリストとは、個人的には会うことはなかった。

R.シュトラウスにとって最初の重要な音楽家の存在は、父フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスであった。
ミュンヒェン宮廷歌劇場の主席ホルン奏者にして王立音楽院の教授であったこの父は、ヴァーグナーを評価しなかった。
だが演奏者の立場でヴァーグナーと度々顔を合わせ、ヴァーグナーの指揮で演奏もしていた。ヴァーグナーの方もこの父のホルンの腕前と、この父のヴァーグナーに対する批判的考えもよく承知していた、といわれている。 

R.シュトラウスは後に父のことを回想して次のように言っている。
父は先ず第一にモーツアルトを、次いでハイドン、ベートーヴェンを高く評価していた。その他はシューベルト、ヴェーバー、メンデルスゾーン、シュポーアであった。
ヴァーグナーについては否定的で、「タンホイザー」はかろうじて認めるが他の作品は認めていなかった。
特に後期のヴァーグナー作品を、全面的に否定していた。

しかし、この父ほど「トリスタン」や「マイスタージンガー」のホルン・ソロを演奏できる者はいなかった。
ひどい喘息もちであったが、69歳になるまで宮廷歌劇場管弦楽団の主席ホルン奏者を務めたということである。  
この父こそR.シュトラウスに音楽家としての基本的な洞察力を与えた人であった。
この息子リヒャルトが、ヴァーグナーの起こした楽劇Musikdramaを踏襲し、それを乗り越えていく作曲家となろうとは、考えもしなかったことであったろう。

 R.シュトラウスが生まれた時、父は42歳、ビール大醸造業者の娘であった母ヨゼフィーネは26歳(父にとって2度目の結婚で、コレラが最初の妻と2人の子供を奪った)であった。
ところで、どうして息子に嫌いなヴァーグナーと同じリヒャルトと命名したのだろうか。
これは驚きでもあり、不思議でもある。


そして彼の息子がヴァーグナーの流れを継承する後期ロマン派を担う大人物になるとは、誰が予測したであろうか。この父は預言的能力があったのだろうか。

























 

彼の作曲の中心である交響詩の最後の作品となった「英雄の生涯」は、それまでの人生を総括するような内容ですが、書かれたのはまだ34歳の時です。 

作曲家としては批評家から風当たりが強かった状況に一矢を報いるかのように、この交響詩では逆境に立ち向かうひとりの英雄の姿が描かれています。 

英雄はシュトラウス自身と言われますが、本人の弁ではそうばかりではないようです。  

演奏には105名から成る4管編成のオーケストラが必要となり、オーケストレーションはこの曲において頂点に達したとも言われ、 技術的にも難しいことからオーケストラの力量が試される作品とされています。 

また作曲者自身は当初この曲を「エロイカ」と呼んでいました。 

友人には「ベートーヴェンの英雄に代わる交響詩を書いている」と伝えていて、 実際、同じ変ホ長調で、英雄のフレーズ断片の引用もあります。

6つの部分に分けられるのが常ですが、スコア上には分類や副題はありません。


 

<結婚まで>


当然のことながらリヒャルトは有能なホルン奏者であった父フランツ・シュトラウスから、4歳の時に音楽の手ほどきを受けた。

1868年(4歳半)に最初のピアノ・レッスンを父の友人トンボー(ミュンヘン宮廷歌劇場首席ハープ奏者)から、ヴァイオリンは従兄のベンノ・ヴァルターから習った。
ピアノは後にニーストに変わる。

リヒャルトはテクニカルな練習をする生徒でなく、勝手に管弦楽スコアを上手に弾くことをおぼえできるようになる。
この頃から名指揮者になる天分を示している。
ごく幼い頃からホルンの響きに微笑み、ヴァイオリンの音には涙で反応したということである。 

1870年(6歳)に教会付属小学校に入学し、ピアノ独奏曲や歌曲も作曲し始め、たいへん元気のよい子供だったと伝えられている。

10歳の時、王立ルートヴィヒス・ギムナジウムに入った(1874-82年)。
たいへんな優秀な生徒と伝えられている。
第3学年の時、担任から音楽に対する才能は群を抜いているという評価を受けた。
だが、数学はよくなかったということである。

1882年大学入学資格を受けて卒業した。
音楽と並んで常に歴史と古典文学(ギリシャやローマの古典作家の作品)に魅せられていた。

1875-80年に宮廷楽長マイヤーに作曲法と理論を学んでいる。 
ギムナジウムの間にいくつかの作品が生まれた。

「交響曲ニ短調」(1880年。未刊で作品番号なし)、テノールとバスの独唱、男声合唱、管弦楽による「“エレクトラ”の合唱」(ソポクレスの詩による 1881年? 作品番号なし)、「ヴァイオリン協奏曲Op.8」を作曲した(1882年)などである。 

1882年秋ミュンヘン大学哲学科に入学し、1883年には退学した。
この年に大きな影響を受けることになるマイニンゲン宮廷管弦楽団の楽長ビューローBuelowドイツ(1830-94)★と出会う。

そして188510月にこの管弦楽団の補助指揮者になり、21歳で指揮者デビューとなった。
12月にはこのマイニンゲン宮廷管弦楽団の音楽監督に就任する。
 

1886年(22歳)に病気になり、マイニンゲンを去り、イタリア旅行を経てミュンヘンの宮廷歌劇場第三楽長に就任する。

1887年にマーラーMahlerオーストリア(1860-1911)と出会い、認められた。

1889年ヴァイマール宮廷劇場の第二楽長に就任した(1894年まで)。

1894年2月12日、ビューローは死去した。

1894年9月にパウリーネと結婚した(30歳)。
妻パウリーネはシュトラウスの歌曲のすぐれた歌手として活躍していく。


























 

♪アルプス登山の過程を細やかに描いた標題交響曲

  「アルプス交響曲」はリヒャルト・シュトラウスの最後の交響楽的作品です。 

「ドン・ファン」から始まった交響詩の作曲は「英雄の生涯」で終わり、その後は「家庭交響曲」「アルプス交響曲」という二つの交響曲を残しています。 

ドイツ・アルプスのツークシュピッツェに登山をした14(15)歳時のシュトラウス少年は、 大自然の雄大さに感銘を受け、それがこの交響曲の元イメージになっているといわれます。

 1902年にはこれがより具体的な形になり、信奉するニーチェの思想である、 「非キリスト教的自然」や「山で生きる」生き方、「自然のなかでの解放」に基づき、 「アンチクリスト-アルプス交響曲」という4楽章の大交響曲が構想されました。











































 

R・シュトラウス 歌曲集

 ツェツィーリエ Op27-2

 子守歌     Op41-1

 君を愛す    Op37-2

 あした     Op27-4





<活動・死>


1894年に結婚し、ミュンヘンの宮廷歌劇場第二楽長、1896年第一楽長となった。
そして1898-1918年ベルリン第一宮廷楽長に就任し、オペラの指揮者として活躍した。

1904年にアメリカに渡り新作の「家庭交響曲Symphonia DomesticaOp.53」(1903年)を初演した。

1908年にベルリン・フィルハーモニー音楽総監督、1909年に芸術院会員に選ばれる。

1917-20年はベルリン高等音楽院作曲家マイスター・クラス主任教授を務めた。 

1919-24年(55歳~60歳)まで、オーストリアの名指揮者フランツ・シャルクとともにヴィーン国立歌劇場総監督として指揮者・芸術監督をつとめている。
この間南米(1923年)や再度アメリカ(1922年)を訪問している。
彼にとって最も多忙な時期を迎えていたこの時、世界情勢も複雑になっていった。

第一次世界大戦(1914-18)を経て、1933年にナチスがドイツの政権を獲得した。
彼はヴィーン歌劇場を辞した後もヴィーンに滞在し、1933年にベルリンに帰った。 

193311月、ドイツの政権をにぎったナチスに請われて第三帝国音楽局総裁になった(1933-35年)。
シュトラウスはこの時69歳であった。
なぜ総裁に就任したのか? その理由は、近親にユダヤ系の嫁がいたのでそれを恐れてかナチスに迎合したともいわれている。
ナチス政策によるユダヤ人迫害は音楽家にも向けられていき、多くのユダヤ系の音楽家が歴史から抹殺されていった。

ナチスの音楽総裁になって彼はすぐに堪忍の緒が切れた。その原因は抹殺されたユダヤ系のメンデルスゾーンMendelssohnドイツ(1809-47)の「真夏の夜の夢」の代わる同名の作品を作曲するよう要請されたり、ユダヤ系のツヴァイクの台本によるオペラ「無口な女Op.80」(1935年)に対する不興などが重なったためである。

こうしてユダヤ系作曲家の作品を葬ろうとする当局と対立し、1935年にナチスの音楽局総裁辞任となった。
総裁時代の知られた作品は「オリンピック賛歌」(1934年作曲)であろう。

1936年ベルリン・オリンピック開幕に当たって演奏され、ラディオやニュース映画で世界に発進された。
また有名なドキュメント映画で、この曲を多くの人が耳にしている。 

第二次世界大戦(1939-45)が勃発し、戦争中もドイツに留まっていた。

1940年日本の紀元2600年祝いのために日本政府から委嘱された「皇紀2600年祝典曲Festmusik zur feier des 2600jährigen Bestehens des Kaiser-reiches Japan Op.84」1)(1940年作曲)が東京で演奏され、R.シュトラウスはドイツでラジオで聴いた(76歳)。

1945年ドイツが敗戦を迎え、ナチスに協力したという理由で戦犯裁判にかけられた。
その結果は無罪となった。その後はドイツを出、スイスで余生を静かに過ごす。 

1949年8月心臓麻痺を起こし、9月8日1410分、ガルミッシュ・パルテンキルヘンの山荘で死去(享年85歳)。

                                

葬儀の時は故人の遺志によりオペラ「ばらの騎士」第3幕から終幕部分の三重唱が歌われた。






















































リヒャルト・シュトラウスの作品詳細については Wikipedia  を参照してください。




       


 

 


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076 : Johann Strauß II [楽興の時]

 

 

 

Johann Strauß II

 















 

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Johann Strauß II

 

ヨハン・シュトラウス2世(Johann Strauß II),全名はヨハン・バプティスト・シュトラウス

Johann Baptist Strauß, 18251025 - 189963日)は

オーストリアのウィーンで活躍した作曲家/指揮者/ヴァイオリニスト。




















 

ヨハン・シュトラウス1世の長男。弟には、次男のヨーゼフ・シュトラウスと三男のエドゥアルト・シュトラウスがいる。

生涯の多くを、ウィンナ・ワルツの作曲に捧げ、「ワルツ王」と評される。また、ワルツの他オペレッタ、ポルカなども作曲。

毎年、元日に行われる「ウィーン・フィルのニューイヤーコンサート」は、彼やシュトラウス・ファミリーの作品を中心にプログラムを組まれる。

音楽の都「ウィーン」の代表的な作曲家であり、その肖像はかつて、オーストリアの100シリング紙幣に描かれていた。















 

生涯 父は、すでにウィンナ・ワルツの作曲家として著名であったが、息子たちが音楽家としての道を歩むことには反対していた。音楽の基礎的素養は母親から受けていた。

シュトラウス2世も、父と同じく音楽家としての才能に恵まれていたが、父の考えで大学では音楽とは関係のない経済学を専攻させられる。

やがて、父親に愛人ができ、家族内で関係が悪化。

やがて、父親は愛人(1849年に父ヨハン1世が亡くなった時に、愛人の女性がその遺体をそのままに、持ち運びできる荷物を全て持ったまま去った為、ヨハン2世とアンナがその遺体を引き取らなければならなくなった。この際ヨハン2世はショックを受け、生涯にわたり死の恐怖におびえ続けたらしい。DEAGOSTINI刊、The Classic Collection8号を見よ)と蒸発してしまう。

従って、ヨハンが作曲家として活動しはじめたのは、父から独立してからであり、父と同じく管弦楽団を設立。

たちまち、人気の楽団になり、父とはライバル作曲家となる。互いに競争を余儀なくされるも、父親が1849年に他界してからは、いよいよ2世が正真正銘の「ワルツ王」として君臨することになった。 

また、作曲家ヨハネス・ブラームスと厚い親交を結んでいたことは、有名。他にフランツ・リスト、リヒャルト・ワーグナーなどとも。

ジャック・オッフェンバックの勧めでオペレッタなども後半生には手がける。台本選びが苦手だったといわれ、その大部分は今日では忘れ去られているが、「こうもり」はドイツオペラ(とオペレッタ)の中でもトップクラスの人気演目となっている。


 

他に「ジプシー男爵」「ヴェネチアの一夜」、既成曲を繋いだ「ウィーン気質」が今日でもしばしば上演されている。














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ブラームスと共に

 

 

生涯を通じ、作曲・演奏活動などで欧米各地でも活躍。父の名声、世紀末の風潮への社会的不安・商業演奏活動なども相まって世紀末のウィーンで一世を風靡した。

ワーグナーはシュトラウスのワルツを指揮して、「自分にこのような軽い音楽を書けないのが残念だ」と語ったといわれる。

チャイコフスキーも彼の作品を愛したひとりで、バレエ音楽「くるみ割り人形」の「花のワルツ」は、シュトラウスの様式に倣っている。 

三度目の結婚に際し、法的な制限から国籍をドイツ(連邦帝国内のザクセン・コーブルク・ゴータ公国)へ移籍。住居はウィーンのままだったが、死の直前に作られた行進曲「狙って!」は“我等ひとつのドイツ”をテーマに掲げたドイツ射撃連盟のイベントに寄せられたものであり、晩年は大ドイツ主義的な立場への傾斜が伺われる。

代表作「皇帝円舞曲」もドイツ皇帝とオーストリア皇帝に捧げられベルリンで初演されている。もっともこれらは、長らくドイツ人の主流でありながら統一ドイツから除外されてしまったオーストリア国民の気分を反映したものといえ、オーストリア人とプロイセン人の組み合わせによる3組のカップルが誕生して終わる喜歌劇「ウィーン気質」のストーリーにも濃厚に伺える。 

19世紀を代表する作曲家であり、若き日はウィーン宮廷歌劇場の総監督として名声高かったグスタフ・マーラーは、それまでオペレッタを上演することがなかった同歌劇場でオペレッタ「こうもり」を正式にレパートリーとした(1897年)。

さらに、ウィーン宮廷歌劇場で上演するバレエ曲(「灰かぶり姫」というシンデレラ物語)をJ.シュトラウスに委嘱した。しかしJ.シュトラウス存命中には完成せず、書きかけのバレエを気にしながら63日に世を去った。


































 

経歴 

    

18251025日:ウィーンに生まれる

1832年:6歳の時、最初の作品「最初の思想」(ワルツ、作品番号無し)を作曲する

1841年秋:ショッテン・ギムナジウム卒業18441015日午後6時:ホール「ドムマイヤー・カジノ」でデビュー演奏会

1846623日:父1世の家の前で、自身の楽団員数人を連れ演奏。表向きは関係を修復する。1848年:ウィーン男声合唱協会と契約

185111月:ドイツへ演奏旅行

185211月:ドイツ・プラハへ演奏旅行

18544月:フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベート女王との婚礼祝典舞踏会で指揮

1856年夏:ロシアへ初の演奏旅行186282日:ヘンリエッテ・チャルベツキー(通称イエッティ・トレフツ)と結婚

1863年:宮廷舞踏会監督就任(1872年まで)

1865年:チャイコフスキーの性格的な舞曲を初演

1867215日:美しく青きドナウ(合唱版)Op.314初演

1867年夏:パリ万国博覧会に出演

1867610日:イギリスへ演奏旅行

1870223日:母アンナ69歳で死去。(ウィーン中央墓地へ埋葬。当日のウィーンの舞踏会はすべて中止)

1871210日:シュトラウス初の喜歌劇「インディゴと40人の盗賊」を初演

187261日:ブレーマーハーフェンよりアメリカへの演奏旅行に旅立つ

1872615日:ニューヨークへ到着(13日とも)

1872617日:世界平和記念祭コンサートに出演

1872713日:アメリカより帰途に就く

1872年夏:バーデン=バーデンにてハンス・フォン・ビューロー、リヒャルト・ジュネと知り合う。プロシア皇帝ウィルヘルム1世より「赤鷲」の勲章を賜わる。

187445日:喜歌劇「こうもり」初演

189211日:宮廷歌劇場にてはじめて彼の作品(オペラ「騎士パスマン」)が上演された1899522日:宮廷歌劇場で自作の『喜歌劇「こうもり」序曲』を指揮(ヨハン・シュトラウス2世最後の指揮)

189963日:肺炎により亡くなる(葬儀は同年66日)





































 

作品(ジャンル) 

     

ワルツ(3拍子の軽快な舞曲および舞踏、円舞曲)

ポルカ(舞曲の一つで4分の2拍子で軽快)

ポルカ・マズルカ(ポーランドの舞曲、軽快な3拍子)

カドリーユ(4人1組で踊るフランスの舞踏)

行進曲

バレエ

オペレッタ(喜劇的な小歌劇)

オペラ

その他 

     

作品名詳細については  Wikipedia  を参照ください。





















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ウィーンにあるヨハン・シュトラウス像

 












 

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”テンペスト” yu-papaさんの疑問の解決になれば幸いです。


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075 : Johann Strauß I [楽興の時]





 


Johann Strauß I  (Vater)


 











 


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Johann Strauß I(Vater)

 









ヨハン・シュトラウス1世(Johann Strauß I(Vater)1804314 - 1849925日)はオーストリアのウィーンで活躍した作曲家、指揮者、ヴァイオリニストである。


   



ウィンナ・ワルツの基礎を築いたため、「ワルツの父」とも呼ばれる。遠祖はユダヤ系である。


   


彼の名前をより正確に表現すると、Johann Baptist Strauß である。















経歴

 

1804年:ウィーンに生まれる

 

1823年:ヨーゼフ・ランナーの楽団に入団。

 

1827年:楽団を退団。自ら、管弦楽団を結成する。

 

以後、宮廷の貴族らに音楽を演奏した。

 1849年:ウィーンで死去。(墓所はウィーン中央墓地にある)

 
















2世との関係 長男・ヨハンが作曲家になることに父親である1世は反対するが、止めることはできなかった。やがて、自らの管弦楽団と対立するようになる。 

系図

 長男:ヨハン(後に2世)次男:ヨーゼフ(ヨハンに続いて、作曲家となる。)三男:フェルディナント(生後間もなく死去。そのためエドゥアルトが三男とみなされることが多い。)四男:エドゥアルト(シュトラウス一家の四男。作曲家)


































作品 

   


ワルツ


ギャロップ


ポルカ


コティヨン


カドリーユ幻想曲


行進曲













♪シュトラウス一家の父の代表曲


ヨハン・シュトラウス1世はワルツ王として名高いヨハン・シュトラウス2世の父親であり、指揮者、ヴァイオリン奏者としても活躍したウィーン出身の作曲家です。  


友人であるヨーゼフ・ランナーと共にワルツを現在の形に発展させた功績から“ワルツの父”とも呼ばれています。  


息子が普通の職に就くことを願った1世は、2世が音楽家になることに反対し、 息子が名声を得た後も父子の確執は続いていました。


ただ、母親のアンナは2世の才能を認め、音楽への道を後押ししてくれたのです。 


シュトラウス・ファミリーは音楽家揃いで、2世のふたりの弟であるヨーゼフとエドワルトも共に作曲家として音楽史に足跡を残しています。  


「ラデツキー行進曲」は82歳のヨーゼフ・ラデツキー将軍が、北イタリアのクストッツァの戦いでイタリア人に勝利し、帰還したことを称えて作曲されました。  


毎年恒例のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを締めくくる曲として、観客も一体となって演奏される光景はもうお馴染みです。





























ラデツキー行進曲 ブラスバンド演奏














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074 : Robert Alexander Schumann [楽興の時]

 

 

 

Robert Alexander Schumann

 












 

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Robert Alexander Schumann

 






ロベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann, 181068 - 1856729日)は、ドイツの作曲家、音楽評論家。

ロマン派音楽を代表する一人。ピアニスト、クララ・シューマン(Clara Josephine Schumann, 旧姓ヴィーク Wieck)は妻である。








 













生涯 ドイツ、ザクセン王国のツヴィッカウに生まれる。5人兄弟の末っ子であった。父は出版業者で、著作も行っていた。

シューマンはそのような環境の中で、早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作を試み、豊かな才能を示した。

息子の音楽の才能を認めていた父は1826年に亡くなり、安定した生活を願う母の希望で法学を学ぶことになり、1828年にギムナジウムを卒業し、ライプツィヒ大学法学部に入学した。

1829年ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク法学部に転学。 しかし、シューマンは音楽家への夢を捨てることができず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークのもとに弟子入りし、ピアノの練習に励んだ。

同年、シューマンの作品『アベッグ変奏曲』作品1が初めて出版された。

1831年には改めて正式に作曲も学び始め、ハインリッヒ・ドルンに師事した。
しかし、過度のピアノの練習により手を痛めたため、ピアノの演奏を諦めなくてはならなくなり、音楽評論家、作曲家として生計を立てる決意をした(近年の研究では、ヴィークらの証言する「手を痛めた」点は疑問視されている。

薬指関節部分の腫瘍が元で指が動かなくなったことが直接の原因であると見られる)。











 

Symphony No. 3 "Rhenish" (Live)NDR Symphony OrchestraChristoph Eschenbach 

10:16 2nd movement

16:27 3rd movement

22:00 4th movement

28:49 5th movement

(there shouldnt be a pause between 4th and 5th..)

 

 

評論家としては、1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当。1836年には主筆となり、1843年まで務め、活発な活動を行った。 

一方、1834年の夏には、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛事件があり、それは『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれるきっかけとなった。

その後、ヴィークの娘の名ピアニスト、クララとの恋愛が進行し、2人は婚約した。
それはヴィークの激しい怒りを買い、シューマンとクララはつらい思いをせざるをえなかった。

そのような日々の中で『幻想小曲集』(作品12)、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』などが作曲された。

1839年、2人は遂に訴訟を起こし、翌年結婚が認められた。2人の間には8人の子供が生まれた。

同年フリードリヒ・シラー大学イェーナから哲学博士の名誉博士号(Ehrendoktorat)を受ける。 

それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンだったが、1840年には歌曲の作曲に熱中し、1年ほどの間に『詩人の恋』、『リーダークライス』作品24と作品39、『女の愛と生涯』などを続々作曲した。いわゆる「歌の年」と呼ばれる。 


















 1841年は「交響曲の年」と呼ばれ、交響曲第1番『春』や交響曲第4番の初稿が書かれた。

このうち第1交響曲は331日にすでに親友となっていたフェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で初演され、大成功をおさめた。 

1842年には『ピアノ五重奏曲』などの室内楽曲が集中して書かれ、さらにその翌年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれるなど、年を追うごとにシューマンの作品の幅は広いものとなっていった。

 1844年、ドレスデンに移住。ピアノ協奏曲などの作曲に励んだが、この頃から徐々に精神の均衡が崩れる兆候が出てくるようになり、その危機を脱しようとバッハの研究に没頭、オルガンやピアノのためのフーガを書き、また、1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲した。

1848年には唯一のオペラ『ゲノフェーファ』が書かれた。 

1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住。
同地の明るい風光はシューマンに良い影響を与え、交響曲第3番『ライン』やチェロ協奏曲、多数の室内楽曲を作曲するとともに第4交響曲の改訂をおこなった。

大規模な声楽曲『ミサ曲ハ短調』や『レクイエム』も手がけた。しかし、1853年には余りに内向的なシューマンと楽員の間が不和になり、11月には指揮者を辞任することとなった(これにはシューマンの指揮者としての能力の欠如も影響している)。
『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品である。

































 1853930日、シューマン家に当時20歳であったヨハネス・ブラームスが訪問し、彼は自作のソナタなどをシューマンとクララに弾いて聴かせたが、これに対してシューマンは久しぶりに評論を書き、「新しい道」という表題でその若者を強く賞賛し、未来を予言した。

ブラームスは晩年のシューマンの希望の星であった。 しかしブラームスと出会ってから半年もしない1854年に入ると、本人も自覚していた元々の躁鬱、音楽監督時の精神的疲労に加え、青年期に娼婦より罹患した梅毒に起因するとされる精神障害が著しく悪化し、227日にデュッセルドルフのライン川に投身自殺を図った。


間もなく助けられたが、その後はボン近郊のエンデニッヒの精神病院に収容され、面会謝絶のためクララにも殆ど会う機会は与えられなかった。

1994年に当時のカルテが公開され、梅毒の症状が認められた上、シューマンは『デュッセルドルフが消滅した』と真剣に語ったという(医師は病名を巧妙に書き換えていた)。


クララは医師に告知されてショックを受けた。 
シューマンは病床でも作曲を試みるなどした(この時期に書かれた作品や手紙はクララによって後に破棄された)が、回復しないまま1856729日に梅毒による衰弱が原因の肺炎で死去。
最後の言葉は、ワインを指につけて夫にしゃぶらせるクララを腕に抱いて囁いたという「分かるよ」(Ich weiß)であった(クララがその様子を日記に書いている)。



















 評論

       

評論家としてのシューマンはまず、1831年に『作品2』という表題の評論を発表し、「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」と、同い年のフレデリック・ショパンの才能を早く見出したが、ショパン自身はシューマンが自分の作品に対して見せた熱狂に困惑していた。


この熱狂振りは、「ショパンの主題による変奏曲(遺作)」が書きかけで残されていたことにも現れていた。 
シューマンはその評論の中に架空の団体『ダヴィッド同盟』を設定し、この団体のメンバーによる架空座談会という形での音楽評論を多用した。


この架空座談会に登場する「フロレスタン」と「オイゼビウス」という人物が最も良くシューマンの意見を表しているとされる。
「フロレスタン」は活発で行動的、「オイゼビウス」は物静かで瞑想的で、彼らはシューマン自身の2つの面を表した分身であったとも言う。


なお、この『同盟』は音楽作品にも顔をのぞかせている(op.6op.9など)。 こうしてシューマンは、ドイツ観念論哲学の影響を強く受けながら、当時の音楽界に支配的であった享楽的な空気に敢然と戦いを挑み、自身が理想と信ずる旗印を高く掲げた。


また自分とは違う方向性を見せていた場合でも、すぐれたものには惜しみない賞賛を送るなど、極めて公平かつ鋭い批評をしたというのが専らの評価である。
ただしロッシーニやマイアベーアなどの当時の流行オペラ作曲家に対する低い評価や、ショパンやブラームスに比べ、同じジャンルで作品を発表していたアルカンに対しての批判的な批評など、公平を欠いているものも少なくないと批判する意見もある。

 他にもショパンのほかに、メンデルスゾーンを擁護し、若き日のブラームスを発掘、また、ベルリオーズをドイツに紹介、シューベルトの器楽曲を賞賛し『大ハ長調交響曲』を発見、バッハ全集の出版を呼びかけるなど、ドイツ音楽の地位向上と忘れ去られていた過去のドイツ音楽の名作の再評価に決定的な役割を果たした。














 

 

 流浪の民

原詩(ドイツ語)・日本語訳(意訳) 

            
  Im Schatten des Waldes, im Buchengezweig,
  da regt's sich und raschelt und flüstert zugleich.
  Es flackern die Flammen, es gaukelt der Schein
  um bunte Gestalten, um Laub und Gestein.
      
 ブナの森の木陰 騒がしき動めき

 聞こえるささやき声

 色とりどりの人の姿に木の葉や岩

 ゆらめく炎の舞

      
  Da ist der Zigeuner bewegliche Schar,
  mit blitzendem Aug' und mit wallendem Haar,
  gesäugt an des Niles geheiligter Flut,
  gebräunt von Hispaniens südlicher Glut.
      

 そこはロマ(ジプシー)の集まる場所

  輝く瞳 流麗な長髪
  ナイル川の聖なる水のほとりで育てられ
  スペインの太陽に焼かれし褐色の肌
      
  Ums lodernde Feuer in schwellendem Grün,
  da lagern die Männer verwildert und kühn,
  da kauern die Weiber und rüsten das Mahl,
  und füllen geschäftig den alten Pokal.
      
  瑞々しい緑の中 火を囲み
  荒々しく勇敢な男達が横たわる
  女達はしゃがんで食事の支度
  慌ただしく古い酒杯に酌をする
      
  Und Sagen und Lieder ertönen im Rund,
  wie Spaniens Gärten so blühend und bunt,
  und magische Sprüche für Not und Gefahr

 verkündet die Alte der horchenden Schar

      

 輪になって歌い物語を語り

  盛り上がることスペインの庭の如く華やかに

 老婆が唱える魔法の呪文

 苦難や恐れを打ち払う

      
  Schwarzäugige Mädchen beginnen den Tanz.
  Da sprühen die Fackeln im rötlichen Glanz.
  es lockt die Gitarre, die Zimbel klingt.
  Wie wild und wilder der Reigen sich schlingt!
      
  踊り始める黒い瞳の女達
  火の粉を散らす松明(たいまつ)
  ギターとシンバルの音に誘われ
  絡み合う野生の輪舞
      
  Dann ruh'n sie ermüdet vom nächtlichen reih'n.
  Es rauschen die Buchen in Schlummer sie ein.
  Und die aus der glücklichen Heimat verbannt,

 sie schauen im Traume das glückliche Land

      
  踊り疲れ 横になり体を休める
  ぶなの木が奏でる子守歌
  幸せに満ちた祖国を追われ
  夢の中で愛する故郷に帰る
      
  Doch wie nun im Osten der Morgen erwacht,
  verlöschen die schönen gebilde der Nacht,
  es scharret das Maultier bei Tagesbeginn,
  fort zieh'n die Gestalten, wer sagt dir wohin?
 
 

東の空に日は昇り 美しき夜の姿は消え行く

 夜明けにラバが地面を蹴れば

  ロマ(ジプシー)の群れが出発の時
  何処行くや流浪の民
 
 
 

 

 

 


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シューマンの作曲一覧については  Wikipedia  を参照してください。













 

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Clara Josephine Schumann







 

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073 : Franz Peter Schubert [楽興の時]

 

 

 

Franz Peter Schubert

 











 

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Franz Peter Schubert

 















 





シューベルト Franz Peter Schubert   (フランツ ペーター シューベルト) 1797131日(生)~18281119日(没)  

オーストリアの作曲家。ロマン派の代表的な作曲家の一人である。

特にすぐれた歌曲を数多く残したため、「ドイツ・リートの王(歌曲王)」とよばれる。

器楽のジャンルでも、室内楽や交響曲に現在もよく演奏される楽曲を残した。

18世紀の古典派様式に立脚し、19世紀のロマン派様式とを融合する役割をしたと考えられている。

 

  

 












 

生涯

      

誕生 

     

ウィーン近郊で生まれた。

メーレン(モラヴィア)にいたドイツ系の農夫の息子である父のフランツ・テオドールは教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツは結婚前ウィーン人家族のコックをしていた。成人したのは長男イグナーツ(1785年生まれ)、次男フェルディナント(1794年生まれ)、三男カール(1796年生まれ)、次いでフランツ、娘のテレジア(1801年生まれ)であった。

父はアマチュア音楽家で長男と次男に音楽を教えた。

フランツは第12子としてリヒテンタールで生まれた。 

フランツは5歳の時、父から普通教育を受け始め、6歳の時リヒテンタールの学校に入学した。この頃、父は末の息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めた。

フランツは7歳頃になると父親の手に余るほどの神童振りを発揮し始めたため、父親はフランツをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにした。

ホルツァーは主として感動表現に主眼を置いて指導したという。

仲間の徒弟たちはフランツの音楽的才能に一目を置き、当時演奏家として聴衆に注目されなければ作曲家としての成功の機会は無いという時代であったので、聖歌隊建物に隣接するピアノ倉庫にしばしばフランツを案内して、ピアノを自由に練習できるように便宜を図ってくれた。そのおかげで、貧しい家庭であればけっして触れられなかったような良い楽器で練習することができた。











 


 





コンヴィクト 

     

180810月、シューベルトはコンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学金を得た。

その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。

ここにシューベルトはおよそ17歳まで所属、ハイドンが聖ステファン大聖堂で得た教育と殆ど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かった。

献身的にシューベルトに尽くした友人達の多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun, 1788-1865)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル(Holzapfel)、その他多数の友人達が自分達の小銭で貧しいシューベルトを助け、彼には買えない五線紙を買って与え、誠実な支持と励ましを与えてきた。

また、このコンヴィクトでモーツァルトの序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会った。

一方、天才ぶりは作曲の分野で既に示しつつあった。

181048-51日の日付のある32ページびっしりと書かれた『4手ピアノのためのファンタジア (D1)』。

続いて1811年にはツムシュテーク (1760 - 1802) が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、『五重奏序曲 (D8)』、『弦楽四重奏曲 (D18)』、『4手ピアノのためのファンタジア第2 (D9)』がある。室内楽曲への想いが目立っているが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でのカルテット演奏の例会が行われていたからである。

後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものであった。コンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残し、また野心的な力を注いだのは、1812年(15歳)の母の葬儀用と言われる『キリエ (D31)』と『サルヴェ・レジーナ (D106)』(それぞれ合唱聖歌)、『木管楽器のための八重奏曲 (D72)』である。1813年には父の聖名祝日のために、歌詞と音楽からなる『カンタータ (D80)』を残した。学校生活の最後には最初の交響曲 (D82) が生まれた。  



















 

1813-1815 

     

1813年の終りにシューベルトは(変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったため)コンヴィクトを去り、兵役を避けるために、父の学校に初級生のための教師として入職した。

その頃、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。

およそ2年以上、シューベルトは自分の意にそわない仕事に耐えたが、伝え聞くには、非常に無関心に仕事をこなしていたようで、その代償を別の興味で補っていた。

サリエリから個人な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難をしてシューベルトを悩ませていた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。シューベルトはグローブ一家と親密に交際しており、そこの娘テレーゼは歌が上手く良い友人だった。彼は時間があれば素早く大量の作曲をしていた。

完成された最初のオペラ『悪魔の悦楽城 (D84)』と、最初の『ミサ曲ヘ長調 (D105)』は共に1814年に書かれ、同じ年に『弦楽四重奏曲』3(D46.D74.D87)、数多くの短い器楽曲、『交響曲ニ長調 (D82)』の第1楽章、『潜水者 (D77)』『糸を紡ぐグレートヒェン (D118)』といった最高傑作を含む7つの歌曲が書かれた。 1815年には更に豊穣な作品群が登場する。

学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出した。

『交響曲第2番変ロ長調 (D125)』が完成され、『「交響曲第3番ニ長調 (D200)』もそれに続いた。また、『ト長調 (D167)』と『変ロ長調 (D.324)』の2つのミサ曲、前者は6日間で書き上げられ、その他『ヘ長調のミサ曲』のための新しい『ドナ・ノビス (D185)』『悲しみの聖母 (D383)』『サルヴ・レジナ (D379)』、オペラは『4年間の歩哨兵勤務 (Der Vierjahrige Posten, D190)』、フェルナンド (D220)』、『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ (D239)[2]、『アドラスト (D137)』(研究により1819年の作曲と推定)、『バイデ・フロインデ・フォン・サラマンカ(サラマンカの友人たち)(D326)』(会話の部分が失われている)の5曲作曲された。

これらの他『弦楽四重奏ト短調(D173)』、『ピアノのための4つのソナタ(D157.D279.D459』、数曲のピアノ小品、これらの最盛期をなすのは、146の歌曲、中にはかなり長い曲があり、また8曲は1015日と7曲が1019日の日付がある。 

1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人ヨハン・マイアホーファー(英語版)(1787-1836)と知り合った。この出会いは彼の常であったが、間もなく温かで親密な友人関係に熟していった。

2人の性質はかなり違っていた。シューベルトは明るく開放的で少々鬱の時もあったが突然の燃えるような精神的高揚もあった。

一方マイアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男だった。

この友好関係は、後年見られるようにシューベルトに対してのみ一方的に奉仕するものであった。 




















 

1816 シューベルトの運命に最初の真の変化が見えた。

コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聞きなじんでいた、法律学生フランツ・ショーバー(1796-1882)がシューベルトを訪問して、学校での教師生活を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。

シューベルトはライバッハ(現在のリュブリャナ)の音楽監督に志願したが不採用になったばかりで、教室に縛り付けられている思いが強まっていた。

父親の了解はすぐに得られ、春が去る頃にはシューベルトはショーバーの客人となった。しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしたが、じきにやめて作曲に専念した。

「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成するとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていた。 

1816年の作品の1つはサリエリの616日記念祭のための『3つの儀式用カンタータ (D407)』、もう1つは『プロメテウス・カンタータ (D451)』、これはハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒達のためで、教授はシューベルトに報酬を支払った。

シューベルトは雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っている。

もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための『カンタータ (D472)』で、愚かな博愛の詩が歌われている。

最も重要な作品は『交響曲第4番ハ短調 (D417)』で《悲劇的交響曲》と呼ばれ、感動的なアンダンテがある。次いでモーツァルトの交響曲のように明るく新鮮な『「第5番変ロ長調 (D485)』、その他多少の教会音楽。

それらは先輩達の作品よりも充実し円熟していたし、更にゲーテやシラーからシューベルト自身が選んだ詩であった。

 この時期友人達の輪は次第に広がっていった。マイアーホーファーが彼に、有名なバリトン歌手フォーグル(1768-1840)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌った。

アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに最も奉仕し崇めていた。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタやファンタジーを演奏した。

ゾンライトナー家は金持ちの商人で、長男がコンヴィクトに所属していたことがあったことからシューベルトに自由に自宅を使わせていたが、それは間も無く“シューベルティアーデ”と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。

 シューベルトは完全に素寒貧だった。それと言うのも彼は教えるのは辞めたし、公演で稼ぐことも出来なかった。

しかも、音楽作品を只でも貰うという出版社は無かった。しかし、友人達は真のボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。

彼らは自分達の食事を分け合って食べ、金を持っている者は楽譜の代金を支払った。

シューベルトは常にこのパーティーの指導者であり、新しい知人が推薦された時に、シューベルトが「彼が出来ることは何か?」といういつもの質問がこの会の特徴を最もよく表すものであった。 





 





1818 1818年は、前年と同様に、創作上は比較的実りは無かったものの、2つの点で特筆すべき年であった。

1つ目はシューベルトの作品の最初の公演が行われたことである。演目はイタリア風に書かれた『序曲 (D590)』で、これはロッシーニをパロディー化したと書かれており、51日に刑務所コンサートで演奏された。

2つ目は、シューベルトに対する初めての公式の招聘があったことである。それは、ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごした。 この年の作品には『ミサ曲 (D452)』と『交響曲 (D589)』(共にハ長調)、ツェレスでの彼の生徒達のための一連の『四手のためのピアノ曲』、『孤独に (D620)』や『聖母マリア像 (D623)』『繰り言 (Litaney)』等を含む歌曲がある。秋にウィーンへの帰りに、ショーバーの所にはもはや滞在する部屋がないことが分かり、マイアーホーファー宅に同居することになった。

ここでシューベルトの慣れた生活が継続された。

毎朝、起床するなり作曲を始め、午後2時まで書き、昼食を摂った後、田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、或いはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問した。

歌曲の作曲家としての最初の公演は1819228日で、『羊飼いの嘆きの歌 (D121)』が刑務所コンサートのイェーガーによって歌われた。この夏、シューベルトは休暇を取って、フォーグルと共に北部オーストリアを旅行した。シュタイアーで「鱒(ます)」として有名な『ピアノ五重奏曲イ長調 (D667)』をスコア無しでパート譜を書き、友人を驚かした。

秋に、自作の3曲をゲーテに送ったが、返事は無かった。












 





1820年・1821 

     

1820年の作品には目覚しいものがあり、著しい進歩と形式の成熟が見られる。

小作品の数々に混じって『詩篇23 (D706)』『聖霊の歌 (D705)』『弦楽四重奏断章ハ短調 (D703)』、ピアノ曲『さすらい人幻想曲 (D760)』等が誕生している。

 614日『双子の兄弟 (D647)』が、また『魔法の竪琴 (D644)』が819日に公演された。これまで、ミサ曲を別にして彼の大きな作品はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定されていた。それは家庭での弦楽四重奏の奏者達から育って大きくなった社交場だった。ここへきて彼はより際立った立場を得て、広く一般に接して行くことが求められ始めた。

しかし依然出版社は極めて冷淡であったが、友人のフォーグルが(182128日)ケルトナートーア劇場で『魔王』を歌ってからようやくアントニオ・ディアベリ(作曲家・出版業者、1781-1858)がシューベルトの作品の取次販売に渋々同意した。

作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)がこの契約に従って出版された。その後この契約が終了し、大手出版社が彼に応じてごく僅かな版権を受け取り始めた。

シューベルトが世間から問題にされないのを生涯気にしていたことについて、多くの記事が見られる。それは友人に落ち度はなく、ウィーンの大衆に間接的に落ち度がある。最も非難されるべき人物は、出版する金を出し惜しみし、出版を妨げた臆病な仲介者である。

2つの劇作品を生み出したことを契機に、シューベルトの関心がより強固に舞台に向けられた。

 1821年の年の瀬に向かって、シューベルトはおよそ3年来の屈辱感と失望感に浸っていた。『アルフォンソとエストレラ (D732)』は受け入れられず、『フィエラブラス (D796)』も同じだった。『陰謀者 (D787)』は検閲で禁止された(明らかに題名が根拠であった)。

劇付随音楽『ロザムンデ (D797)』は2夜で上演が打ち切られた。これらのうち『アルフォンソとエストレラ』並びに『フィエラブラス』は、規模の点で極めて公演が困難であった(例えば『フィエラブラス』は1000ページを超える手書き楽譜であった)。しかし『陰謀者』は明るく魅力的な喜劇だったし、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲した中でも素晴らしい曲が含まれていた。




















 

1822-1825 

     

1822年にカール・マリア・フォン・ウェーバー、そしてベートーヴェンと知りあう。

両者ともにほとんど親しい関係にならなかったが、しかしベートーヴェンはシューベルトの天分を心底認めていた。

シューベルトはベートーヴェンを尊敬しており、連弾のための『フランスの歌による変奏曲(D624)』作品10を同年に出版するに当たり献呈している。

ウェーバーはウィーンを離れて不在であり、新しい友人が現れても望ましい人物ではなかった。この2年は全体として、彼の人生では最も暗い年月であった。

1824年春、シューベルトは壮麗な『八重奏曲 (D803)』『大交響曲のためのスケッチ』を書き、再びツェレスに戻った。

彼がハンガリーの表現形式に魅せられ『ハンガリー風喜遊曲 (D818)』と『弦楽四重奏曲イ短調 (D804)』を作曲した。 

舞台作品や公的な義務で夢中になっていたが、この数年間に時間を作って多様な作品が生み出された。『ミサ曲変イ長調 (D678)』が完成。1822年に着手した絶妙な『未完成交響曲 (D759)』が生まれている。

ミュラー(1794-1827)の詩による『美しき水車小屋の娘 (D795)』とシューベルトの最も素晴らしい歌曲の数々が1825年に書かれた。 

1824年までに、前記の作品を除き『《しぼめる花》の主題による変奏曲 (D802)』、2つの弦楽四重奏曲(『イ短調 <ロザムンデ>(D804)』、『二短調<死と乙女> (D810)』)が作られている。

また、『ピアノとアルペジョーネのためのソナタ (D821)』は、扱いにくく今では廃れた楽器を奨励する試みであった。

過去数年の災難は1825年の繁栄と幸福に取って代わった。出版は急速に進められ、窮乏によるストレスはしばらく除かれた。

夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をした。旅行中に、ウォルター・スコット(1771-1832)原詩の歌曲『ノルマンの歌 (D846)』、『囚われし狩人の歌 (D843)』や『ピアノソナタ イ短調 (Op.42, D845)』を作曲、スコットの歌ではこれまでの作曲で得た最高額の収入を得た。

















ウィーンでの晩年 

     

1827年にグラーツへの短い訪問をしていることを除けば、1826年から1828年にかけてずっとウィーンに留まった。

その間、たびたび体調不良に襲われている。 晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、重要な出来事が3つみられる。

一つは1826年、新しい交響曲をウィーン楽友協会に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられたこと。

二つ目は、オペラ指揮者募集に応募するためオーディションに出かけたが、リハーサルの際に演奏曲目を自作曲へ変更するよう楽団員たちに提案したものの拒絶され、最終的に指揮者に採用されなかったこと。

そして三つ目は、1828年の春になって人生で初めてでただ1度の、彼自身の作品の演奏会の機会が与えられたことである。

1827年に、シューベルトは『冬の旅 (D911)』、『ピアノとヴァイオリンのための幻想曲 (D934)』、2つのピアノ三重奏曲(Op.99 / D898Op.100 / D929)を書いた。 

1827326日、ベートーヴェンが死去し、シューベルトは葬儀に参列した。その後で友人たちと酒場に行き、「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。

この時友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたと言う。事実、彼の寿命はその翌年で尽きるのであった。

最晩年の1828年、『ミサ曲変ホ長調 (D950)』、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ (D962)』、『弦楽五重奏曲 (D956)』、『ミサ曲ハ長調 (D452)』のための2度目の『ベネディクトス (D961)』、最後の『3つのピアノ・ソナタ(D958, 959, 960)』、《白鳥の歌》として有名な歌曲集(D957/D965A)を完成させた。

この中の6曲はハイネの詩に付けられた。ハイネの名声を不動のものにした詩集「歌の本」は1827年秋に出版されている。

シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家ジーモン・ゼヒター(後にブルックナーの教師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いたが、何度かのレッスンの後、ゼヒターはその知人を介して「シューベルトは重病です」ということを知らされた。

1112日付のショーバー宛の手紙でシューベルトは「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と著しい体調不良を訴えた。これがシューベルトが認めた最後の書簡となった。 

その後シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、1114日になると病状が悪化して高熱にうなされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去した。

シューベルトの最後の様子はフェルディナントが父へ宛てた手紙に言及されており、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったという。

まだ319ヶ月の若さであった。遺体はシューベルトの意を酌んだフェルディナントの尽力により、ヴェーリング街にあった当時のヴェーリング墓地の、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。

1888年に両者の遺体はウィーン中央墓地(ドイツ語版)に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には今も二人の当時の墓石が残っている。

死後間も無く小品が出版されたが、当時の出版社は「シューベルトはシューベルティアーデ(ドイツ語版)のための作曲家」とみなして、もっと価値のある大規模作品を出版することはなかった。 

シューベルトの死亡原因については、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとの腸チフスであったとも、エステルハージ家の女中から感染した梅毒の治療のために投与された水銀が彼の体内に蓄積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも、いくつかの説が言われている。

シューベルト生誕200年の1997年には、改めて彼の人生の足跡を辿る試みが行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も制作され公開された。





















編集後記: 『どうしてやろうか・・・シューベルト!』

    

 大作曲家シューベルトの番になり、ブログ編集にあたって思案したことです。大作曲家だけに、皆さん造詣が深く変な解説も出来ませんので、途方に暮れました。

・・・が結局はその生い立ちや、エピソードを書いて行くしかないと諦めました。

 

ご紹介する曲目も、彼の大作 三大歌曲集(美しき水車小屋の娘冬の旅白鳥の歌は、すでに「美と音楽と安らぎと・・・2」で全曲ご紹介済みですので、それ以外の歌曲に留め極力器楽曲に持っていこうとしましたが、やはり歌曲が半分近くになりました。

    

 掲載しました「交響曲 未完成」は、学生時代の吹奏楽コンクールで演奏した思い出の曲です。















 




お ま け

    

     

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072 : Jean Sibelius [楽興の時]

 

 

 

Jean Sibelius

 






 

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Jean Sibelius

 






 

ジャン・シベリウス(Jean Sibelius  1865128 - 1957920日)は、フィンランドの作曲家である。
スウェーデン系であり、出生時の洗礼名はヨハン・ユリウス・クリスチャン (Johan Julius Christian)

     
家族からはヤンネ (Janne) と呼ばれていたが、貿易商であった叔父がフランス語風にジャンと自称した名前を学生時代にシベリウスは譲り受けた(名前は「ヤン」と表記されることもあるが、フランス語固有の綴りの名前であるため「ジャン」とする)。

 

青年期にはヴァイオリニストを目指したが、後に作曲に専念した。主要作品は、7曲の交響曲、多数の交響詩、ヴァイオリン協奏曲などの他、劇音楽・歌曲・ピアノ曲等多岐に及ぶ。 歌曲にはフィンランドの詩人で、スウェーデン語で詩を発表しているヨハン・ルードヴィグ・リューネベリの詩を用いているものが多い。









 







 

♪フィンランド独立の礎を築いた国民的作曲家  豊かな森と湖、そして風光に恵まれた北欧のフィンランドに生まれたシベリウスは、単なる作曲家という枠を越えた国民的英雄です。

      
フィンランドは長い間、ロシアの圧政に苦しんでいました。
それがいよいよ激化した1899年の秋、耐えかねた人々からレジスタンス運動が起こり、シベリウスも音楽という形で国民の士気の高揚に努めました。
新聞社主催の歴史劇のために作曲した8曲の伴奏音楽のうち、最終曲を改稿して独立させたのが今日「フィンランディア」として知られる作品です。 
これに気づいたロシア政府はこの曲の国内での演奏を禁止し、なんとか国民運動を鎮圧しようと試みましたが、それを逃れながら演奏は繰り返され、フィンランドでは国歌を越えるほどの精神的主柱となり、その気運が他国をも動かしついにはロシアも引かざるを得ないということにまでなりました。

      
ですから「フィンランディア」そしてシベリウスという作曲家は、フィンランド独立の礎を築いた音楽、作曲家として広く国民から愛されているのです。 
シベリウスは30歳にして国からの終生年金を約束され、60歳からの約30年間はほとんど大作の発表もせず、悠々自適の晩年を過ごしました。




















 

生涯 

1865128日にヘルシンキの北方約100kmのハメーンリンナに生まれる。
父クリスチャンは医師であったが、シベリウス2歳の時に他界。
姉リンダ、弟クリスチャンはそれぞれピアノ、チェロの演奏をした。

      
1875年、最初の作曲。ヴァイオリンとチェロのための「水滴」。 
1885年、ヘルシンキ音楽院で作曲などを学び始める。 
1889年、ベルリンに留学。留学中にリヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」の初演、ハンス・フォン・ビューローの演奏するピアノソナタなどに直接触れる。
さらに、ウィーン音楽院においてカール・ゴルトマルクに師事した。

     
1891年に「クレルヴォ交響曲」作品7を手がける。
翌年春に初演。これは管弦楽に、独唱・男声合唱の加わる大規模な曲である。
好評をもって受け入れられたが、3度しか演奏されないまま、生存中演奏されることはなかった。
 
1892年にアイノ・ヤルネフェルトと結婚。後に六女をもうけるも、一人は2歳で他界。

      
1899年に「愛国記念劇」の音楽を発表。この曲の7曲目が改作されて交響詩「フィンランディア」作品26として独立し、人気を博した。 
1904年にヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーに「アイノラ」を建てる。この頃より、作品の性質がフランス印象派への接近を見せはじめる。 
1908年に喉の腫瘍を摘出する手術を受ける。 
1915年、シベリウス50歳の誕生日。この記念行事のために、交響曲第5番が作曲された。

      
1923年の交響曲第6番作品1041924年の交響曲第7番作品1051925年の交響詩「タピオラ」作品112を頂点にして、以後重要な作品はほとんど発表されなくなった。 1957年にヤルヴェンパーで脳出血により没。91歳。
ヘルシンキの大聖堂で国葬が営まれ、棺はアイノラの庭に葬られた。

      

その後彼の肖像は、ユーロ導入までのフィンランド100マルッカ紙幣に使用された。






































































































 

作品の一例 

・交響曲 第2番 ニ長調 Op.43
・フィンランディア Op.26
・ピアノのための10の作品集 第9曲 「ロマンス」 Op.24-9
・5つの小品 第5曲 「樅の木」 Op.75-5

(作品詳細はWikipediaを参照されたし)










 

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071 : Arnold Schönberg [楽興の時]

 

 

 

Arnold Schönberg

 





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Arnold_Schoenberg

 





アルノルト・シェーンベルク (Arnold Schönberg, 1874913 - 1951713) はオーストリアの作曲家・指揮者・教育者。 

調性を脱し無調音楽に入り12音技法を創始したことで知られる。

アメリカに帰化してから1934年以降は、「アメリカの習慣を尊重して」"ö"o-ウムラウト)を"oe"と表記したSchoenbergという綴りを自ら用いた(アメリカでは「アーノルド・ショウンバーグ」と呼ばれた)。

 


父シャームエル・シェーンベルク(Sámuel Schönberg 1838 - 1889年)は代々ハンガリーのノーグラード県セーチェーニに住むユダヤ人で、靴屋を営んでいた。

母パウリーネ・ナーホト(Pauline Náchod 1848 - 1921年)もプラハ出身のユダヤ人。

ウィーンにて生誕。初めはウィーン人らしくカトリックのキリスト教徒として育てられる。
8
歳よりヴァイオリンを習い始める。その後チェロを独学で学ぶ。


15歳の時、父が亡くなり、経済的に立ち行かなくなった彼は、地元の私立銀行に勤め始め、夜間に音楽の勉強を続けていた。


その後作品を発表し始めたころに彼の余りにも前衛的な態度のため、激怒した聴衆によってウィーンを追い出され、ベルリン芸術大学の教授に任命される時、プロテスタントに改宗、その後ナチスのユダヤ政策に反対して1933年、ユダヤ教に再改宗している。




























シェーンベルクが生まれたのは1874年。

後期ロマン派も成熟期を迎え、この後フランスでは印象派が誕生。

そして音楽界が調性を超えた方向へと向かう過渡期を生きた人でした。

     

モンテヴェルディがそうであったように彼の革新的なスタイルは、

時代の変化という要求から生まれた必然だったのかもしれません。

シェーンベルクこそが様々な意味で適役だったのです。

しかしもし、そうした革新者としてのイメージのみを彼に抱いている方なら、

この美しい弦楽合奏曲を聴いて大いに驚かれるかもしれません。

     

ここにあるのはワーグナーやブラームスに影響された、紛れもない後期ロマン派の真髄のような甘く重厚な響きです。

シェーンベルクにとっては初期にあたる作品で、まだ無調的気配は希薄です。

デーメルの同名の詩「浄夜」を題材とし、月下の男女の語らいが音で紡がれていきます。

     

単一楽章の形をとっていますが、詩に応じて5つの部分から構成されています。

当初は弦楽六重奏曲として作曲されましたが、後に自身が弦楽合奏用に編曲。

現在ではコントラバス・パートが改訂された弦楽合奏版が多く演奏されています。 

      

余談ですがシェーンベルクとガーシュウィンはアメリカでの住居も近く、

絵画やテニスなどの趣味も合う大変仲の良い友人関係だったようです。

ガーシュウィンが油絵でシェーンベルクの肖像画を描いていたほどです。

       

ガーシュウィンが脳腫瘍で早過ぎる死を迎えた際、シェーンベルクはラジオで弔辞を読み上げました。

それはガーシュウィンの楽才を称え、ふたりの友情を強調する内容でした。

ラプソディ・イン・ブルーを聴いてご機嫌(?)なシェーンベルク。

その姿を想像すると微笑ましいものがあります。





























































































































 

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070 : Charles Camille Saint-Saëns [楽興の時]

 

 

 

Charles Camille Saint-Saëns

 




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Charles Camille Saint-Saëns

 

 

 

シャルル・カミーユ・サン=サーンス(Charles Camille Saint-Saëns, 1835109 - 19211216日)は、フランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト。


























































 

略歴 
      
      
官吏の家庭に生まれる。モーツァルトと並び称される神童タイプで、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたと言われている。
また、10歳でバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンたちの作品の演奏会を開き、16歳で最初の交響曲を書いている。
     

1848年に13歳でパリ音楽院に入学して作曲とオルガンを学ぶ。
やがて作曲家兼オルガニストとして活躍した。
特にオルガンの即興演奏に素晴らしい腕を見せ、1857年に当時のパリのオルガニストの最高峰といわれたマドレーヌ教会のオルガニストに就任する。
     
1871
年にはフランス音楽普及のために、フランク、フォーレらとともに国民音楽協会を設立した。
 
1881年にはアカデミー会員に推薦され、57歳の1892年にはケンブリッジ大学から音楽博士の称号を贈られた。
1913
78歳でサン=サーンスは、最高勲章であるグラン・クロワも贈呈されている。
 

輝かしい功績に恵まれていたサン=サーンスは、1921年にアルジェリア旅行中に86歳の生涯を閉じた。
サン=サーンスの葬儀は、その多大な功績に相応しく国葬で執り行われた。






























作風と評価 
          
      
音楽家として、作曲家、ピアニスト、オルガニストとして活躍したほか、少年のころからさまざまな分野に興味を持ち、その才能を発揮した。
一流のレベルとして知られるのは詩、天文学、数学、絵画などである。
特に詩人としての活動は多岐にわたり、自作の詩による声楽作品も少なからず存在する。
 
その博識ゆえの嫌味な性格は人々の良く知るところであり、アルフレッド・コルトーに向かって「へぇ、君程度でピアニストになれるの?」といった話は有名である。
これは、彼が超一流しか眼中になかったことを示すエピソードでもあった。
     
実際にサン=サーンスが完璧と評した生徒の中に、ピアニストのレオポルド・ゴドフスキーがいる。
 晩年、印象主義音楽の台頭の中でも近代音楽を批判し、すでに保守的とみなされるようになった作風による創作を第一次世界大戦後も死の直前まで続けた。
若き日のドビュッシーは、サン=サーンスの典型的な批判者であった。
しかしドビュッシーはまた「サン=サーンスほどの音楽通は世界広しといえどもいない。」とも評している。
      
当のサン=サーンスはドビュッシーの交響組曲『春』に対して、嬰ヘ長調であることを理由に管弦楽に適さないとして酷評している。
しかし、『動物の謝肉祭』では和音の平行移動などの多くの印象主義の技法を駆使(「水族館」)するなどしている。
 
映画『ギーズ公の暗殺』のために史上初めてオリジナルの映画音楽を作曲したことに象徴されるが、サン=サーンスは様々な音楽分野において先駆的な役割を果たしている。 

      
サン=サーンスが古典音楽に固執し、また不人気であったかのように記されることがあるが、それは正しくない。
国家的な大音楽家とみなされていたことは、葬儀が国葬であったことからもわかる。



















































 

主要作品(詳細はWikipediaをご覧ください)

        
歌劇
劇音楽
バレエ音楽
交響曲
協奏的作品(独奏と管弦楽のための作品)
ヴァイオリンと管弦楽のための作品
ピアノと管弦楽のための作品チェロと管弦楽のための作品その他
管弦楽作品
室内楽作品
ピアノ作品
編曲作品(再構成作品も含む)
2
台のピアノのための作品(自編を含む)
オルガン作品
合唱を含む作品
歌曲
映画音楽


















































ツイッターから  ^^

     

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“せっかく23日で来たんだから、全部寄ってこう” みたいな経路やめろ!

 

 







 

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069:Pablo Martín Melitón de Sarasate y Navascuéz [楽興の時]

 

 

Pablo Martín Melitón de Sarasate y Navascuéz










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Pablo Martín Melitón de Sarasate y Navascuéz




パブロ・マルティン・メリトン・デ・サラサーテ・イ・ナバスクエス(Pablo

Martín Melitón de Sarasate y Navascuéz, 1844310 - 1908920日)

は、スペイン・パンプローナ出身の作曲家、ヴァイオリン奏者。バスク人である。




















 

 



















来歴 

       

8歳のときに初めての公演をし、10歳のときにスペイン女王イサベル2世の前で演奏を披露した。


その後パリ音楽院で学び、13歳のときヴァイオリン科の一等賞を得た。
1860
年代ごろから演奏家としての活動を始め、1865年には一番初めに仲良くなったサン=サーンスと演奏旅行をした。


サン=サーンスはサラサーテに「序奏とロンド・カプリチオーソ」、「ヴァイオリン協奏曲第3番」などを献呈している。


サラサーテはまた、ラロの「スペイン交響曲」、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」、「スコットランド幻想曲」の初演者かつ被献呈者でもある。


サラサーテの華麗な名人芸は、チャイコフスキーやブラームスなどにも影響を与えた。 

1908920日、慢性気管支炎のためビアリッツ(フランスのバスク地方の町)で死去した。64歳没。 作曲家としてのサラサーテの作品は、ほとんどヴァイオリンと管弦楽(もしくはピアノ)のための作品であり、スペインの民謡や舞曲の要素を盛り込んだ国民楽派に位置付けられ、その代表がジプシー(ロマ)の民謡による「ツィゴイネルワイゼン」であり、ラッシュ、フリッシュなどの特徴を取り入れている。

そのため、他の作品はあまり演奏されることがないのが現状である。 

サラサーテを記念して、若手ヴァイオリン奏者のためのコンクール「パブロ・サラサーテ国際ヴァイオリン・コンクール」が開催されている(ヴァイオリン部門とオペラ部門が毎年交互に開かれている)。

 

 
















 

 
















 

 
















 

 















 

 



















代表作品

   

・ツィゴイネルワイゼン Op.201878年)

・アンダルシアのロマンス Op.22-1・サパテアード Op.23-2

・カルメン幻想曲 Op.251883年)…ジョルジュ

・ビゼーの『カルメン』によるパラフレーズ。






 

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 めいさんのお好きな アンドレ・リュウの演奏





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068:Erik Alfred Leslie Satie [楽興の時]

 

 








Erik Alfred Leslie Satie

 













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Eric Alfred Leslie Satie

 

 

エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Erik Alfred Leslie Satie1866517 - 192571日)は、フランスの作曲家である。



サティは「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」と称され、西洋音楽に大きな影響を与えたと見なされており、ドビュッシー、ラヴェルも「その多くの作曲技法はサティによって決定づけられたものだ」と公言している。
そして、印象主義の作曲家たちにも影響を与えたとされる。

パリ音楽院在学中にピアノ小品『オジーヴ』『ジムノペディ』『グノシエンヌ』などを発表。カフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、コクトーやピカソと交流。バレエ・リュスのために『パラード』を作曲。
またカフェ・コンセールのためのいくつかの声楽曲を書く。今日よく知られている『ジュ・トゥ・ヴー』はこの時の曲。薔薇十字教団と関係し、いくつかの小品を書く。
同一音形を繰り返す手法を用いた『ヴェクサシオン』『家具の音楽』なども書いた。

なお『家具の音楽』というのは彼が自分の作品全体の傾向を称してもそう呼んだとされ、主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって客の邪魔にならない演奏、家具のように存在している音楽というのは重要な要素であった。
そのことから彼は現在のイージーリスニングのルーツのような存在であるともいえる。

また『官僚的なソナチネ』『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』『冷たい小品』『梨の形をした3つの小品』『胎児の干物』『裸の子供たち』のように、作品に奇妙な題名をつけたことでも知られている。

フランス社会党及びフランス共産党にも党籍を置いていた(当初は社会党に入党していたが、共産党結党と同時に移籍)。

ドビュッシーとの交友関係もよく知られている。


















































生涯

  • 1866 - 5月17オンフルールにて誕生。聖公会洗礼をうける。
  • 1870 - 父アルフレッド・サティが海運業をやめ、パリに移住。
  • 1872 - スコットランド人の母ジェイン死亡。オンフルールに住む父方の祖父母に預けられ、カトリックとして再度洗礼。教会のパイプオルガンに魅せられ入り浸る。
  • 1874 - 祖父ジュール・サティがエリックにヴィーノのもとで音楽を学ばせる。
  • 1878 - 祖母ユラーリがオンフルールの浜辺で溺死体で発見される。サティは父のいるパリへ再度移住。
  • 1879 - パリ音楽院に入学。父アルフレッドがピアノ教師であったユージェニ・バルネシュと再婚。
  • 1886 - 音楽院が退屈すぎ退学する。
  • 1887 - シャンソン酒場のピアノ弾きになる。
  • 1889 - パリ万博で、日本の歌謡にふれる。
  • 1890 - 薔薇十字教団創始者ジョセファン・ペラダンと出会う。
  • 1891 - 聖杯の薔薇十字教団聖歌隊長に任命される。
  • 1893 - シュザンヌ・ヴァラドンと交際を始め、彼女に300通を超える手紙を書く。6ヵ月後ヴァラドンと絶交。
  • 1904 - スコラ・カントルム入学。
  • 1905 - シュヴィヤール演奏会の会場で雨傘で決闘し、警察に留置される。
  • 1908 - スコラ・カントルム卒業。パリ郊外アルクイユの急進社会主義委員会に入党。
  • 1914 - 詩人ジャン・コクトーと知り合う。
  • 1919 - パリのダダの芸術家たちと交流し、自身もメンバーとなる。
  • 1925 - 7月1聖ジョセフ病院にて肝硬変のため歿。アルクイユの公共墓地に埋葬。




































作風


それまでの調性音楽のあり方が膨張していた時代に、彼は様々な西洋音楽の伝統に問題意識を持って作曲し続け、革新的な技法を盛り込んでいった。
たとえば、若い頃に教会に入り浸っていた影響もあり、教会旋法を自作品に採り込んだのは、彼の偉大な業績の一つである。
そこでは調性は放棄され、和声進行の伝統も無視され、そして、並行音程・並行和音などの対位法における違反進行もが書かれた。

後にドビュッシーやラヴェルも、旋法を扱うことによって、既存の音楽にはなかった新しい雰囲気を醸し出すことに成功しているが、この大きな潮流は、サティに発するものである。

 生涯サティへの敬意について公言し続けてきたラヴェルは、ドビュッシーこそが並行和音を多く用いた作曲家だと世間が見なしたことに不満を呈しており、その処女作「グロテスクなセレナード」において既にドビュッシーよりも自分が先に並行和音を駆使したと述べ、それがサティから影響を受けた技法であることにも触れている。

また、彼の音楽は厳密な調性からはずれた自由な作風のため、調号の表記も後に捨てられた。したがって、臨時記号は1音符ごとに有効なものとして振られることとなった。
拍子についても自由に書き、拍子記号や小節線、縦線、終止線も後に廃止された(これらの拍子記号、調性記号、小節線の廃止に関する言説は広く流布されしばしば言及されてもいるが、十分注意して接するべきである。
なぜなら、最晩年にはサティは再び拍子記号も調性記号、小節線も復活させているからである。たとえば、「ノクターン」や「家具の音楽」がいい例である)。調号を書かずとも、もしそこの音の中に調性があればそれが現実であり、拍子記号や小節線などを書かずとも、もしそこの音の中に拍子感があればそれが現実であるとみなしていたため、実際には、それらが書かれていないからといって、調性や拍子が必ずしも完全に存在しないわけではなかった。
散文的に、拍節が気紛れに変動するような作品も数多く存在し、調性とはほど遠い楽句や作品も数多く生み出されている。

拍子のあり方についての新しい形は、特にストラヴィンスキーがそれを受け継ぎ、大きく発展させ、後のメシアンへと続くことになった革新の発端と見なされている。
また、記譜法についての問題提起は、後の現代音楽における多くの試みの発端とされ、図形楽譜などにまでつながる潮流の源流となっている。

調性崩壊のひとつの現象として、トリスタン和音が西洋音楽史上の記念碑と見なされているが、それが依然として3度集積による和声であったのに対し、サティは3度集積でない和音を導入した。
これは、解決されないアッチャカトゥーラや3度集積によらない和音を書いたドメニコ・スカルラッティ以降はじめての和声的な大革新とされている。
この影響によって、印象主義からの音楽においては、自由な和声法による広い表現力が探求されることとなった。

また、音楽美学的見地においても彼は非常に多くのあり方を導入したとされ、鑑賞するだけの芸術作品ではない音楽のあり方をも示した。
「家具の音楽」に縮約されているように、ただそこにあるだけの音楽という新しいあり方は、イーノやケージたちによる環境音楽に影響を与え、また、「ヴェクサシオン」における840回の繰り返し・「古い金貨と古い鎧」第3曲結尾部における267回の繰り返し・「スポーツと気晴らし」第16曲「タンゴ」や映画「幕間」のための音楽における永遠の繰り返しは、スティーヴ・ライヒたちによるミニマル・ミュージックの先駆けとされている。

サティがやり始めた数多くの革新は、過去の音楽や、他の民族音楽などの中に全くないものではなかったものの、そのほとんどが純粋に彼独自の自発的で突発的なアイデアに基づいたものであるため、現代音楽の祖として評価は高く、数多くの作曲家がサティによる開眼を公言している。

最後の作品となったバレエ「本日休演」では、幕間に上映された映画「幕間」のための音楽も担当した。
またその映画の中でフランシス・ピカビアと共にカメオ出演もしており、サティの最晩年の姿を見ることができる。



































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自画像

作品

 

膨大な作品数の為省略。 詳しくはWikipediaを参照されたし。

















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067: Arcangelo Corelli [楽興の時]

 



Arcangelo Corelli

 



 






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Arcangelo Corelli

 






































アルカンジェロ・コレッリ(ArcangeloCorelli, 1653217 - 171318日)
はイタリアの作曲家、ヴァイオリニスト。姓はコレルリ、コレルリ、コレリのようにも書かれる。
ヴィヴァルディより25年、大バッハやヘンデルより32年年長にあたる。
合奏協奏曲、トリオソナタ、ヴァイオリンソナタで知られる。





コレッリの作品は、旋律の美しい流れと伴奏パートの丁寧な扱いが特徴的であり、それゆえコレッリが対位法の厳格な規則から自由であったといわれるのももっともなことである。
また、作品2の中にあるトランペット・ソナタが彼の唯一の管楽器のための作品で、そのほかの曲はすべて弦楽器と通奏低音のためのものである。





48曲のトリオ・ソナタと、ヴァイオリンと通奏低音のための12曲のソナタならびに12の合奏協奏曲が名高く、出版された作品のうち、作品1から作品6までがすべて器楽曲である。
中でも最も有名なのは、《ヴァイオリンとヴィオローネ、チェンバロのためのトリオソナタ》作品5(ローマ、1700年)である。
西洋では、コレッリの合奏協奏曲がしばしば人気であり、たとえば《クリスマス協奏曲》作品6-8の一部が映画「マスター・アンド・コマンダー」のサウンドトラックとして利用されている。
また、小説『コレリ大尉のマンドリン』にもしばしばコレッリのことが話題にされている。

























































































 お ま け
 

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066:Benjamin (Louis Paul) Godard [楽興の時]

 

 

 

Benjamin (Louis Paul) Godard


   

 

 

 



 

 

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Benjamin_Godard

 

 

以下に掲げる6曲は いづれもバンジャマン・ゴダールの有名な “ジョスランの子守唄(Berceuse de Jocelyn)” ですが、曲の美しさ故に、Youtube投稿者の方々も演奏や画面の背景に力を注いでおり、見応え聞き応えがあります。

同じ曲ですが敢て掲載しました。お楽しみください。







[ぴかぴか(新しい)]










































































 











 

バンジャマン・(ルイ・ポール)・ゴダール(Benjamin (Louis Paul) Godard, 1849818日パリ – 1895110日カンヌ)は19世紀フランスの作曲家。

オペラ作曲家としての成功を望み、おびただしい数の作品を遺したが、こんにちではほとんどが忘れられており、かろうじてサロン小品の作曲家として記憶されているにすぎない。 

パリ音楽院でルベに和声法を、ヴュータンにヴァイオリンを師事。ヴュータンに同行して2度ドイツを訪れている。
室内楽にも没頭した。
 
ゴダールは実にやすやすと作曲し、あらゆるジャンルにわたって大量に作曲を行なった。
1876年に《ヴァイオリン協奏曲「ロマンティック」》(Concerto romantique)がコンセール・ポピュレールにおいて初演され、その他の大作もこの演奏会で上演された。
1878年に、パリ音楽院院長テオドール・デュボワと、パリ市主催の作曲コンクールにおいて優勝を分かち合った。
入賞作品は合唱交響曲《タッソーLe Tasso》であり、ことによると最も重要なゴダール作品かもしれない。

その頃から驚くほどたくさんの作品を物している。

4つの歌劇のうち、《サラメアのペドロ Pedro de Zalamea》は1884年にアントウェルペンで、人気の「子守唄」の出典である《ジョスラン Jocelyn》は1888年にパリで初演された。 
そのほかに管弦楽曲やバレエ音楽、協奏曲、演奏会用序曲を数多く残しており、《交響曲「伝説」Symphonie légendaire 》《交響曲「ゴチック風」Symphonie gothique 》、管弦楽曲《ディアーヌ Diane 》、ピアノ曲《マズルカ第2番》《ワルツ第2番》《Au Matin》《Postillon》《En Courant》《En Train》《Les Hirondelles》は特筆するに値しよう。
数多くの《ヴァイオリン・ソナタ》のうち《第4番》作品12は、第2楽章のスケルツォに変拍子(5/4拍子)を用いている。
繊細この上ない歌曲も100曲以上手懸け、《フロリアンの唄》はさまざまに編曲されて人気を呼んだ。
12の歌曲》作品12では自らの詩を用いている。
 
ゴダール作品は、たとえ単に膨大な作品数のためにすぎないにせよ、類がない。ゴダールは割合に小規模な作品において、最も本領を発揮している。
より野心的な作品のうち、最も個性的と言いうるのは、《伝説交響曲》であろう。
 
晩年のゴダールは結核に苦しみ、1892年にコート・ダジュールへ隠棲して1895年にカンヌで死去した。パリのタヴェルニーの家族の墓地へ埋葬されている。




























































































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064:François-Joseph Gossec [楽興の時]

 

 

 

François-Joseph Gossec

 












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François-Joseph Gossec
















 





フランソワ=ジョセフ・ゴセック(François-Joseph Gossec,1734117 - 1829216日)は、フランスで活躍したベルギー出身の作曲家・指揮者。

長い生涯の間に、バロック音楽の終焉から初期ロマン派音楽の勃興までに遭遇した。 

現在では一般的にヴァイオリンのための愛らしい小品「ガヴォット」1曲によって知られている。

彼は交響曲の大家で30曲近くを書いた。

パリ音楽院創立の際、作曲の分野における教授として招かれ、教育家としての実績もある。

今となっては彼の存在は埋もれてしまったという感があるが、「フランス交響曲の父」としてその業績は忘れがたいものがある。

共和政・帝政時代の革命歌の作曲家としても歴史的に名を残している。








































































生涯と作品 

   

オーストリア領ネーデルラント(現在のベルギー)のエノー州のヴェルニー村(Vergnies)において小さな農家に生まれる。

幼児期から音楽への強い志向を見せ、アントウェルペンの聖歌隊員に加わる。

1751年にパリに行き、ジャン=フィリップ・ラモーに見出される。

ラモーの裕福なパトロン、ラ・ポプリニエールの私設楽団の指揮者に任命され、フランスで器楽曲の研究をやり直すべく決心する。 

1754年に最初の交響曲が上演される。ゴセックはコンデ公のオーケストラの指揮者として、いくつかのオペラや自作を上演する。

目覚しい成功によってフランス音楽に自らの影響力を見せ付けた。

1760年に、1時間半を要する大作の《レクィエム》を初演すると、一夜にしてゴセックの名は有名人の仲間入りを果たした。

この作品を称賛したモーツァルトは、1778年のパリ滞在中にゴセックを訪ねて、会見記を父親に書き送った。曰く、「とてもいい友人になりました。

とても素っ気ない人でしたが。」 ゴセックは1770年に「コンセール・デ・ザマトゥールConcert des Amateurs 」(愛好家のための合奏団の意)を設立し、1773年にはシモン・ルデュックやピエール・ガヴィニエスとともに「コンセール・スピリテュエルConcert Spirituel 」を再編成した。

この演奏会のシリーズでゴセックは、自作の交響曲だけでなく、同時代人、とりわけハイドンの作品を指揮したので、ハイドン作品は次第にパリで人気となり、ついにはゴセックの交響楽を凌ぐに至った。 

1780年代にゴセックは交響曲の作品数を減らしてゆき、オペラに集中するようになる。

1784年に「エコール・ドゥ・シャンÉcole de Chant 」(唱歌伝道所の意)を設立、フランス革命の際には、エティエンヌ・メユールとともに救国軍の楽隊指揮者を務め、1795年にパリ音楽院が設立されると、ルイジ・ケルビーニと、そしてまたもやメユールとともに、視学官に任命された。

フランス学士院の最初の会員に選ばれるとともに、レジオンドヌール勲章を授与されている。 

1815年にワーテルローの戦いでナポレオンが敗北すると、ルイ18世によってパリ音楽院はしばらく閉鎖に追い込まれ、81歳のゴセックも引退を余儀なくされた。

音楽院近くで年金暮らしを続けながら、最後の作品となる3曲目の《テ・デウム》の作曲に1817年まで取り組んだ。 

フランスの外ではほとんど無名であり、おびただしい数の作品は、宗教音楽も世俗音楽もともに、同時代の、より有名な作曲家の陰に隠れていった。

それでもゴセックは多くの者にとって、器楽曲復興の強力な立役者だった。 

ゴセックはパリ郊外のパシー(Passy)に没した。葬儀には、かつての同僚ケルビーニも駆けつけた。

墓はペール・ラシェーズ墓地にあり、グレトリと、かつての盟友メユールのそばに葬られた。






























































































 

管弦楽曲

  

いくつかの楽器のための6つの交響曲Sei sinfonie a più stromenti 作品4 (1759)

いくつかの楽器のための6つの交響曲Sei sinfonie a più stromenti 作品5 (1761)

6つの交響曲Six Symphonies 作品6 (1762)

大管弦楽のための6つの交響曲Six Symphonies à grand orchestre 作品12 (1769)

2つの交響曲Deux symphonies (1773)

交響曲 第1Symphonie n° 1 (1771年頃~1774)

交響曲 第2Symphonie n° 2 (1771年頃~1774)

交響曲 ヘ長調Symphonie en fa majeur (1774)

狩の交響曲Symphonie de chasse (1776)

交響曲 ニ長調Symphonie en ré (1776)'

交響曲 ニ長調'Symphonie en ré (1777)

いくつかの楽器のための協奏交響曲 第2Symphonie concertante en fa majeur n° 2, à plusieurs instruments (1778)

管楽器のための交響曲 ハ長調Symphonie en do majeur for wind orchestra (1794)

17声部の交響曲 ヘ長調Symphonie à 17 parties en fa majeur (1809)

  

  

      

吹奏楽曲

    

葬送行進曲Marche lugubre (1790)

軍隊交響曲ヘ長調Sinfonia militaire (1793)

行進曲「帝国の護り」Garde impériale

  

  

      

室内楽

   

ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタSei sonate a due violini e basso 作品1 (1753年頃)

フルート四重奏曲集Sei quartetti per flauto e violino o sia per due violini, alto e basso 作品14 (1769)

6つの弦楽四重奏曲Six Quatuors à deux violons, alto et basse 作品15 (1772)

  

  

      

声楽曲・合唱曲

    

死者のためのミサ曲Messe des morts (Requiem) (1760)

降誕祭La Nativité, oratorio (1774)

テ・デウムTe Deum (1779)

Te Deum à la Fête de la Fédération for three voices, men's chourus and wind orchestra (1790)

Hymne sur la translation du corps de Voltaire au Panthéon for three voices, men's chourus and wind orchestra (1791)

714日の歌Le Chant du 14 juillet (Marie-Joseph Chénier) for three voices, men's chourus and wind orchestra (1791)

Dernière messe des vivants, for four voices, chorus and orchestra (1813)

   

   

      

歌劇

 

   

漁師たちLes pêcheurs, opéra comique en 1 act (1766)

共和制の勝利Le triomphe de la République, ou Le camp de Grandpré, divertissement-lyrique en 1 acte, (Chénier) (1794)

    




お ま け

 

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これは…www      (ツイッターから)

 







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昨日から発行している新硬貨です。















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063:Albert William Ketèlbey [楽興の時]

 

 

 

Albert William Ketèlbey





















 

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Albert William Ketèlbey

 

 

今日は思いっきりアラビアの雰囲気にひたってください。

ペルシャの市場をテーマに、ケテルビーとは関係の無いイスラム教のアザーン(イスラム教における礼拝≪サラート≫への呼び掛けのこと)を、冒頭に掲げました。

中東と云っても、般若坊はエジプトとトルコに行ったにすぎませんが、回教国の朝早く拡声器から街々に響く、アザーンの朗詠にたたき起こされた懐かしい思い出があります。

中東の音楽や風俗を見るにつけ妙になつかしく、アラビアンナイトに代表されるペルシャ(イラン)に強い憧れを感じます。

ひょっとして私のDNAはアラビア人?なんて夢遊病にも似た空想に、浸れる楽しさがあります。ごゆっくり楽しんで頂きたいと思います。

ケテルビーの作品名からYoutubeにコピペしてみると、思わぬ曲が見つかるかもしれませんよ・・・

 

 

 









アルバート・ウィリアム・ケテルビー(Albert William Ketèlbey, 187589 - 19591126日)はイングランドの作曲家・指揮者・ピアニスト・音楽ディレクター。











 





   

 

 

 

 

 












 

 

生涯

イングランドのバーミンガムの出身
版画師であった父親ジョージ・ケテルビー(George Ketelbey、アクサン・グラーヴは付かない)と母親セイラ・アストン(Sarah Aston)との間に出生。11歳のときには、習作のピアノ・ソナタをウォーチェスター音楽祭で演奏、作曲家・エルガーの賞賛にあった。
  
 13歳で、ロンドンのトリニティ・カレッジ・音楽コース(Trinity College of Music)のヴィクトリア女王奨学金を受けて、ホルストに師事、才能を認められ、ジョン教会のオルガン奏者に迎えられる。
 この頃、さまざまな楽器に習熟し、プロのオーケストラでもやっていける程の技量を身につける。
  
22歳で教会との契約期間が切れると、一転してヴォードヴィル劇場の音楽監督となり、軽音楽の編曲・指揮に才能を発揮し、ミュージカルは大衆受けし、「ラウル・クリフォード(Raul Clifford)」や「アントン・ヴォドリンスキ(Anton Vodorinski)」などのペンネームを使って初期の多作品を発表した。
  
 その後、30歳を過ぎた頃には本格的な室内楽や協奏曲にも傾注するが出版までには至らず、むしろポピュラーな軽音楽作曲家として名を挙げ、それらの作品はサイレント映画での伴奏音楽やカフェあるいはボールルームでのムード音楽などとしてもてはやされ、放送局やレコード会社などの当時新しいメディアでの音楽ディレクターとして活躍した。
  
 1912年(37歳)、軽く書いたつもりの「ファントム・メロディ」が大ヒットしてからは、「ペルシャの市場にて」に代表されるようなエキゾチックな描写音楽の方面での才能が期待され、作曲・演奏したレコードは売れ、コンサートも大いに受けた。
その人気により、アムステルダムのコンセルトヘボウの客演指揮者としても招かれたこともあるが、本格的なクラシック音楽の作曲家としては、1980年代に「The New Grove Dictionary of Music and Musicians」の改訂版に彼の名が載るまで認められなかった。
   
アラビアや東南アジアの民族音楽や日本の国歌「君が代」をモチーフとして用いるなど、オリエンタリズムに基づいた異国趣味的な作品を多く遺しており、クラシック入門者のファンは多い。
   
避暑地として有名なワイト島の自宅において、悠々自適の生活ののち、84歳で亡くなった。














 



























 

 


 




 

 主要作品一覧
  
 特に「ペルシャの市場にて」が有名
The Heart's Awakening 1908
 ファントム・メロディ Mélodie fantôme1912
修道院の庭にて In a Monastery Garden 1915
弦楽四重奏のための幻想曲 Phantasy for String Quartet 1915
月の光に In the Moonlight 1919
ペルシャの市場にて In a Persian Market 1920
牧場を渡る鐘 Bells Across The Meadow1921
ロマンティックな組曲 Romantic Suite 1922
コクニー組曲 Cockney Suite 1924) 『楽しいハムステッド地区』 Appy 'Ampstead が含まれる。
序曲「チャル・ロマーノ」(ジプシーの少年)Chal Romano(Gypsy Lad) 1924
心の奥深く Sanctuary Of The Hart 1924
中国寺院の庭にてIn a Chinese Temple Garden 1925
水青きハワイの海にてBy the Blue Hawaiian Waters 1927
時計とドレスデン人形 The Clock And The Dresden Figures 1930
エジプトの秘境にて In the Mystic Land of Egypt 1931
陽気なマスコットの踊り Dance of the Merry Mascots 1932
日本の屏風から From a Japanese Screen1934
イタリアのたそがれ Italian Twilight 1951
ジャングルドラム Jungle Drums
Tangled Tunes
ウェッジウッドの青Wedgwood Blue
ギャラントリー Gallantry










お ま け

  
   




















































おまけに    もう一丁!











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ピラミッドと銀河

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062:Franz Xaver Gruber [楽興の時]

 

 

 

Franz Xaver Gruber














 

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Franz Xaver Gruber

 






 

フランツ・クサーヴァー・グルーバー(独: Franz Xaver Gruber17871125 - 186367日)は、19世紀オーストリアの小学校教師・教会オルガン奏者。 

親友で司祭のヨーゼフ・モールとみんなで歌えるクリスマス・キャロルを考えていたときに「きよしこの夜」を作曲した。 

その歌を作ったと言われている教会が、今もザルツブルク州のオーベルンドルフ・バイ・ザルツブルクに残っている。
























































♪世界中で愛されるクリスマス・キャロル 

18181224日のクリスマス・イヴのことです。

オーストリアはオーベルンドルフの聖ニコラウス教会では、毎年恒例のミサを前日に控えて、催し物が中止になりかねない大変な事態を向かえていました。

クリスマスの賛美歌合唱で使うオルガンがねずみにかじられて壊れてしまい、まったく音が鳴らなくなってしまったのです。 

ミサはもう数時間後に迫っています。このままではいけない・・・。教会の牧師であるモーアはとっさに紙を手にすると、キリストを称える一編の詩を書き上げました。

それを教会のオルガニストだったグルーバーに渡すと「今ここにはギターしかない。

この詩に旋律をつけて、ギター1本でも歌える賛美歌を作ってくれないか。」。 

そうしてできたのが、その後世界中でクリスマスに歌われることになる「きよしこの夜」です。 

・・・しかしこの有名な話も、最近の研究によると若干作り話も入っているようで、実際はこの数年前にモーアの詩は完成していたようです。

ですが、グルーバーがとても短い時間で作曲したことは事実で、初演は教会の祭壇で、ギター伴奏による2人の2重唱で行われました。









お ま け  ツイッターから

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見とれて 事故多発!!!

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ザ 帽 子


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ダックスフント?

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川端康成がダルビッシュそっくり・・・


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五重の 笠 雲

















 

沢山の作曲をしながら音楽史上に残らない人もいれば、このようにたった1曲で不滅の足跡を残す作曲家もいます。

グルーバーに、他の作曲が無いか調べましたが、ありませんでした。

この”清しこの夜”は余りにも有名で、クリスマスキャロルとして欠くことのできない曲です。

時期外れで申し訳ありませんでしたが、作曲家のご紹介が五十音順ですので、お許しください。









 

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